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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

連ドラに短し、映画に長し…… 映画『仮面ライダーアマゾンズ 最後ノ審判』 ~本文~

2021年07月11日 21時22分58秒 | 特撮あたり
 はい~どうもみなさま、梅雨のおもっ苦しいお天気が続いておりますが、豪雨にもめげずお元気でいらっしゃいますでしょうか? なんらかの被害に遭われていないことを祈っております、そうだいでございます。
 コロナやだな~コロナやだな~とグチり続けて、ついに2年目になってしまいました。それなのに、くだんの東京オリンピックはもう目前! 東京とは比較にもなりませんが、こちら山形もちょっと油断するとすぐに感染者が増えちゃいますからね。気を緩めて思いっきり羽を伸ばしたり、何の気兼ねもなく県外に遊びに行けるのは、いったいいつになることなのやら……わたしの場合、最短、車で30分もかからないうちに宮城県に行けるのですが、そっちに行けないぶん、2~3時間かけて山形県内の庄内地方の温泉に毎週末通い倒しております。なにソレ?

 もっともわたくし、この春は温泉というよりも、突如として己の中に沸き立った「即身仏拝観ブーム」に身を焦がしておりまして、米沢市のおひとりに白鷹町のおひとり、そして庄内地方のなんと5名さまもの即身仏にお会いできたのは、本当に幸せな道ゆきでございました。ただ一つだけまことに残念なのは、数あるレジェンド即身仏の中でも最重要人物であるといっても過言でない、注縄寺の鉄門海上人が現在公開中止となっていることでした。お会いできず無念……個人的にはやっぱり大日坊の真如海上人のオーラが別格だったのですが、安置されているお寺全体の雰囲気も含めてとんでもない「異世界」感を醸成していたのは、鉄龍海上人のおわす南岳寺でしたね……あそこはなんたって長南年恵さんの霊堂もありますからね。山育ちの私としては、ああいういかにも南国アジアっぽい(絶対南国じゃないけど)雑多な空気が珍しくて。いや~、どこもかしこも濃厚なお寺さま&お堂でした。ついでに行った白鷹町の黒鴨温泉もスゴいところだった~! 昭和のタイムカプセルみたいな旅館でしたね。温泉も即身仏様もどちらも、とにかくやってるうちに行っとかないとダメですよ。もうホントに、刻一刻と少なくなってますからね。一回しめちゃうと再開はかなり難しいんだよね。

 とまぁ、そんなこんなでタイトルとまったく関係の無い与太話を長々としてしまいましたので、いいかげんにチャッチャと本題に入りたいと思います、ハイッ!

 まさしく、「平成仮面ライダーシリーズのラフレシア」といった惨状を呈する(誉め言葉ですよ)伝説を築きあげた、『仮面ライダーアマゾンズ』シリーズ2シーズン全26話。その文字通りの完結編として満を持して世に出たのが、今回とりあげる映画『仮面ライダーアマゾンズ 最後ノ審判』なのでございました。これは観ないわけにはいかないでしょう!!
 私も結局、シーズン1の配信当初(2016年)から信頼できる親友に「絶対に観たほうがいいよ!!」と勧められていたものの、この血塗られたアマゾンズサーガの完結を見るまでに5年もの歳月が経ってしまいました……でも、知らずに生き続けるよりは、まだマシということで!

 んで、過去2シーズンにおける、もはやギリシア悲劇の域に到達しているといってもいいくらいに壮絶な運命だらけの群像劇は、ゼウスなみに理不尽な大神・小林靖子の手になるチェス盤上の戦争という様相を呈していて、まぁそれを良いと感じるのかどうかは別としましても、他の追随を許さないオリジナリティを誇っていたかと思われます。
 やっぱりね、日曜日の朝に放送できる『仮面ライダー』は、『仮面ライダー』じゃあないと思うんですよね、私みたいなおじさんは……そういう意味で、やっぱり『仮面ライダーアマゾンズ』は、いつか必ず生まれなければならない、怪奇特撮ドラマであるはずの「平成仮面ライダーシリーズ」が語ることをしばらくやめていた陰の部分をあえてギッチギチに詰め込んだ、毒素の煮こごりみたいな「けじめ」の物語だったのではないのでしょうか。
 やたらバカっぽい、お祭り騒ぎ的な陽の部分では映画『仮面ライダージオウ Over Quartzer 』が、そして陰の部分ではこの『最後ノ審判』が、平成仮面ライダーシリーズに引導を渡すという重要な役割を担ったのではなかろうかと思うのですが……まぁ、問題はその次に来るべき、まったく新しい「令和の仮面ライダーシリーズ」が果たして誕生しているのかということなんですよね。どうでしょうかね!?
 とまぁ、2シーズンの内容が内容なだけに、やたらとハードルが上がってしまったこの完結編なのですが、その出来のほどや、いかに?

同情もするが、ちょっと「おもしろかった!」とは言えない……

 ……そんな感想だったのでありました。
 う~ん、もともと、多くのファンが望んでいたかと思われる「仁と悠の決着」という大ネタがクライマックスに用意されていることは明らかでありましたから、決して作品に緊張感がなかったというわけでもなく、無論のこと、そこをちゃんと語り尽くしてくれたのは、完結編としての責務をまっとうした、称賛されるべきグッジョブポイントだったかと思います。ここが語られる限り、『最後ノ審判』はどうなっても決して駄作にはなりえない約束がなされていました。

 ところが、振り返るまでもなく仁と悠の対決の構図は、『トムとジェリー』のごとくシーズン1でもシーズン2でも最終回に持ってこられた展開でありました。いくら最後とはいえ、それだけで新作映画1本100分間をもたせるわけにもいかず……ふつうの平成仮面ライダーだったら、もしかしたらお互い新しいパワーアップフォームを披露して対決、という伸ばし方もあったでしょうが、アマゾンズの戦いは素朴・シンプルが身上ですからね。アマゾンオメガにいたっては、アルファとの最終決戦ではニューオメガからふつうのオメガに戻っているという念の入りよう!! 確かに、ニューオメガの印象って、総じてあんまり強そうじゃないですよね。
 そこで、仁 VS 悠の構図に加えて、別のオリジナルストーリーを加えて物語にボリュームを持たせようという話になったのでしょうが……そのオリジナルストーリーというのが、なかなか難しかったんですよね。
 ぐだぐだ言うのもなんなので、この映画において、私があんまりピンとこないなと感じたポイントを、ざっとまとめてみましょう。


1、わざわざ根絶しかけているアマゾンを作って食料にするの、なんで!?

 これが、この『最後ノ審判』最大の疑問にして、ウィークポイントかと思われるのです。ほんとに、なんで!?
 橘局長がしょうこりもなく進めている「アマゾン畜産計画」は、あくまでも仁 VS 悠というメインイベントから見ればサイドストーリーに過ぎないわけなのですが、この話が出てくるたんびに、いちいち頭の片隅に引っかかってくるんですよね。「それ、もうかるの!?」と。

 整理してみますと、シーズン1から始まった「アマゾンズサーガ」に欠かせない存在となっている「アマゾン」という概念は、原典『仮面ライダーアマゾン』(1974~75年放送)における「獣人」にほぼ相当するもので、要するに仮面ライダーシリーズでいう「怪人」のポジションとなります。だもんで、アルファ、オメガ、シグマ、ネオ、ネオアルファといったメインキャラクターだけがアマゾンなのではなく、むしろ大多数のアマゾンから見たら、仮面ライダーっぽい容姿の彼らの方が「やたらカッコつけて見境なく暴れまわる異常なアマゾン」というマイノリティに見えてくるわけです。主人公も敵も「アマゾン」って、ややこしいな……でも、このボーダーラインの曖昧さこそが、『アマゾンズ』なんですよね。どっちが善なのか悪なのかがわからない。

 そして、さらにややこしいことに、シーズン1、シーズン2、そして『最後ノ審判』に出てくるアマゾンは、なんとそれぞれ出自がビミョ~に違う! この絶妙なすわりの悪さよ!!
 簡単に言うと、シーズン1のアマゾンは「実験体」と呼ばれるもので、野座間製薬という頭のおかしな大手製薬会社が創造してしまった、きわめて人間に近い姿に擬態できる「新生物」です。しれっと神の所業!!
 実験体アマゾンは、シーズン1の始まる2年前に4000体が野座間製薬の実験施設からいっせいに脱走しますが、志道真とゆかいな駆除隊の涙を誘う地道な駆除活動や、シーズン1の佳境で発動されたトラロック作戦によって激減し、シーズン1の5年後にあたるシーズン2の物語の中で、最後の実験体タイプであるモグラアマゾン(マモルくん)が死亡したことにより絶滅します。つまり、トータル7年間の内に4000体が駆除されたわけです。
 いっぽう、シーズン2で新たに登場した「溶原性細胞」型のアマゾンは、ある強力な「オリジナル」と呼称されるアマゾンの細胞を体内に取り込んだ「ふつうの人間」が、肉体と精神をアマゾン細胞に支配されてアマゾンに変身してしまうものです。シーズン1の実験体アマゾンはあくまでも、原典における獣人と同じ「新生物」なのですが、シーズン2の溶原性細胞型アマゾンは、「もと人間」ということになるのです。そういう意味合いでは、シーズン2のアマゾンは、むしろショッカーの改造人間に近いわけで、バラアマゾンのエピソードのような哀感もただようわけなんですね。シーズン1のカニアマゾンレストランのようなコミュニティさえ築けない孤独なふたり……!
 んで、シーズン2の溶原性細胞型アマゾンは、シーズン2の序盤で、その感染源が企業向けウォーターサーバーとして供給された同一水源の天然水であると判明し流通を止めた時点で、万単位の人間が溶原性細胞を摂取していると、シーズンきっての忠臣である加納さんが報告しています。ただし同時に「調査した水の半数から溶原性細胞が見つかった」とも言っているので、実際にアマゾン化した人間はもう少し抑えられるかもしれません。そして、シーズン2の2年後にあたる『最後ノ審判』の序盤で黒崎隊長が「残るアマゾンは(アルファとオメガの)2体」と言っているので、万単位いる可能性があった溶原性細胞型アマゾンは、なんと2年間の内に絶滅したようです。こう比べると、4000体の絶滅に3倍以上の7年もかけたシーズン1の志道駆除隊が、黒崎隊などの4C に比べて弱小チームのような印象を持つかもしれませんが、4C は精鋭部隊がいくつもあるみたいだし、殉職者がむちゃくちゃ多い4C にたいして、志道駆除隊の生存率は異常に高いです。まぁ、腕1本が食われたりトンボになったり、そのトンボに殺された挙句にアマゾンシグマになったりと相応のリスクはありますが……

 んでんで、肝心の『最後ノ審判』におけるアマゾンはなんなのかと言いますと、橘局長が御堂園長に主導させているアマゾン畜産計画にもとづいて、切子聖園の地下礼拝堂に隔離されている「創造主」のアマゾン細胞を摂取することによってアマゾン化した切子聖園の孤児たちということになるのです。つまり、やり方はシーズン2の溶原性細胞と同じなので、切子聖園のアマゾンたちも、れっきとした「もと人間」です。
 数に関して言うと、ご丁寧にも切子聖園の孤児たちは名前がそのまんま畜産物としての生産番号にもなっていて、劇中で名前を呼ばれている孤児でいちばん若いのが「ハイチ(81)くん」であることや聖園の規模からみて、多く見積もっても通算100人前後が関の山かと思われます。そして、だいたい50~60番台までの孤児たちが劇中で出荷されていました(イツミ、ゴロウ、ムクなど)から、聖園にいた未覚醒のアマゾンたちは20~30人といったところでした。

 前置きが長くなりましたが、つまり、かつて最大で万単位いたらしいアマゾンは、『最後ノ審判』の時点では、世界で1ヶ所しかない生産施設(切子聖園)の、たった1人しかいない「創造主」のアマゾン細胞をもとにほそぼそと作っては喰われ、作っては喰われして、ストックはせいぜい20~30人ということになるのです。
 そんなの、ホイホイ食っていいものなのか? 生産コストが高すぎない?

 橘局長の口ぶりでは、「世の中にあぶれまくっているアマゾンを食用にして人類に役に立てよう」みたいな印象なのですが、そもそもアマゾンはその橘局長の有能な部下たちによって順調に絶滅しかけているし、シーズン1の新生物と違って、いくら孤児とはいえ、その気になってさかのぼればちゃんと人権がある子ども達をわざわざアマゾンにして食べているってんですから、「多いから食う」じゃなくて「食うために作ってる」という本末転倒ぶりと、その法的リスクの見合わなさは、誰がどう見てもおかしいですよね。それでよくもいけしゃしゃあと政治家にすすめられるもんだよ!
 なんだ? 橘局長はシーズン2でネオに殺されかけてから、記憶が止まっているのか? 黒崎隊長の2年間の活動報告を聞いていないのか? 加納さんロスがこれほどまでに大きいとは……

 橘局長は、アマゾンの畜産化を「野生のイノシシの家畜ブタ化」に例えて説明していましたが、実情をもっと正確に言うのなら「人間の食べ物を増やすために人間をブタにして食べる」わけで、食糧問題の解決のために人口減少問題にブーストをかけるという、ウロボロスな珍回答になっているわけでした。しかも、若々しい未来有望な少年少女をアマゾンにして食べているのは、そろいもそろって子供を産む可能性のカケラもなさそうな高齢者ばっか……それをなんで、よりにもよって日本でやんの!?
 脚本家は、「若者を食い物にする老害」ということを言いたいのでしょうか。でも、こんな小学生でも恥ずかしくて言う気をなくすような見えすいたメタファーに変換するのって、プロとしてどうなんだろう。ちょっとこれ、「原作 石ノ森章太郎」ってクレジット、はずしたほうがいいんじゃない? 石ノ森先生はこんなセンスのかけらもない設定は0コンマで却下するでしょう。そんなこと描いたら、速攻で手塚先生に「あいつもヤキがまわったなぁ!!」ってバカにされちゃいますからね。

 おかしいだろ……政治家の佐古島さんだって、同情の余地もないいやらしい雰囲気のオヤジではありますが、ムクを見て「すぐ殺して食べたいな」という思考になるほど狂ってはいないでしょう。絶対もったいないでしょ!! 新型スマートフォンぶん投げて鳥を捕まえようとしてるみたいなもんですよ。他にもっと使い道あるだろ~!

「あの~橘くん、この娘、テイクアウトでいいかな!? 今ちょっと食欲なくて……いやいや大丈夫、家帰ったら絶対食べるから!!」


2、橘局長がアマゾンの覚醒対策とオメガ対策をまるでしてないの、なんで!?

 結局のところ、『最後ノ審判』の残念な点の本質は、シーズン2からの引継ぎに失敗している設定が多いこと。もっとはっきり言えば、小林靖子作品じゃないことなんじゃないかと思うんです。監督もレギュラー出演陣も音楽も継続でありながら、肝心の小林さんだけが脚本でなく「監修」とは! でも、こうなっちゃったのは、やっぱりシーズン2で小林さんがやり尽くしたからなんでしょうねぇ。
 確かに、仁と悠の物語は、シーズン2の最終回では決着つかずで終わるのですが、両者とも、異形のアマゾンとして「この世に生まれたことの罪」を背負いながらさまよう後ろ姿で終わっています。つまり、小林さんとしては、ヒーロー特撮らしく白黒はっきりつける対決は描かず、フィクションのようにきれいに死ねない結末に、両者の人間らしい生きざま、泥臭さを投影したかったのではないでしょうか。最後まで、実にヒーローらしくない幕切れ。それこそが『仮面ライダーアマゾンズ』の最後なのではないかと。純粋な愛のために美しく散る若者2人と、罪を背負いボロボロになりながらもしぶとく生き続けるおじさん2人(悠はまだおじさんじゃないけど)……あなたがあこがれるのは、どっち!?

 ということなので、おそらく小林さんにとって『最後ノ審判』は蛇足以外の何ものでもないと思うんです。それを無理矢理再起動させたのですから、それはテンションの高さや、世界設定の密度に差が出るのも当たり前なのでありまして。
 ただ、そんな事情があったのだとしても、劇場版の脚本は、細かい点があまりにもずさんなのではないでしょうか。「100分しかないんだから、多少のアラは見逃して! ちゃんと仁と悠の決着つけるから♡」という言い訳が聞こえてきそうですが、そもそも1、で言及したように、アマゾンを畜産化してどうこうなんて言える残頭状況じゃないのに、それでもゴリ押しでアマゾンを増やそうとする脚本家の魂胆がまったくわからない。しかも、それを主導しているのが、毎日スイーツバイキングだけを心のよりどころとしてヒーコラ言いながらアマゾン狩りを続けていた黒崎隊長の、直接の上司なんですもんね。

 もしもあなたが4C の駆除隊員だったとします。文字通り命をかけて2年間、数千を超えるアマゾンを駆除してきました、そしてあともう少しでほぼ全てのアマゾンを駆逐できるぞ、死んでいった数多くの同僚たちの墓参りももうすぐだぞ、隊長をビックリさせるサプライズパーティの特大いちごケーキとプレゼントの超高級ひげそりの手配はもう大丈夫だな、という時に、突然会社から、

「ごめーん、今度からアマゾン作るわ。草食だからたぶん安全なんだけど、もし暴走するやつが出たら処分してくれる? どうせ、これから君らヒマでしょ?」

 と言われたら、ハイそうですかと配置につけますか!? 絶滅させろと言ってた人が、これから作るネって言い出すのよ!? わけわかんないでしょ!! お前がやれバカヤロー☆

 ただし、劇中の時点で橘局長はアマゾン畜産化計画の「あ」の字も黒崎隊に伝えていなかったらしく、切子聖園の脱走者の暴露で事の真相を知った志道から、謎の新型アマゾンを作っているのが自分の上司だと教えられた黒崎隊長は、終盤で橘局長に(その所業の割にはだいぶ甘々な)制裁をくらわせます。因果応報!

 でもだとしたら、橘局長は、自分の計画ならびにその本質が集中している切子聖園の存在を知られると困る相手が多すぎますよね。まず悠はこんなことを知ったら絶対に計画をつぶしにかかって来ますから警戒は必須なんですが、その悠を追わせている自分の配下にも、切子聖園付近には来てほしくないわけです。カウントされていないアマゾンが5~6体うろうろしてたら、さすがに黒崎隊長もおかしいと思いだすでしょう。
 え……悠は自分以外のアマゾンの存在をかなり鋭敏に感じ取ることができる能力があるんでしょう? じゃあ、「創造主」がいる切子聖園なんか、秒で勘づくんじゃないですか。でも、来たからと言って、黒崎隊に切子聖園ちかくに出張られても困るんでしょ? 詰んでない、これ?

 そして、実際の橘局長はそれに輪をかけたずさんさで悠と黒崎隊の両方を放任しており、悠が逃げ込んだ湖が「たまたま」切子聖園の近辺で、その追撃に乗り込んだ黒崎隊が「たまたま」脱走アマゾンに遭遇した挙句に、畜産計画を知ってしまうという破綻ロードを突き進むこととなります。いやいや、どっちも聖園に近づけさせないような手をうっとけよ……

 しかもその一方で、切子聖園の子どもが覚醒アマゾン化した場合の対応もまた、まるで考えていないようなのがどうしようもない。
 聖園の卒園者を「調理」するレストランは、どうやら聖園からそんなに離れていない林の中にある洋館なのですが、処理を担当するのは、ろくな具も持ち合わせておらず16、7歳の小娘ひとりを押さえつけることさえ手こずる、ただ顔が怖いだけのひ弱なおじさん2人。そして肝心カナメの調理に関しても、そんなにおいしくないようで残食が多すぎです。いやいや、おいしくなかったら、もうなにもかも成立しないじゃんか~!! ネオアルファを開発する予算なんかあったら、腕のいいコックさんを雇えよ~!!

 ずさんアンド、ずさん!! たぶん、橘局長は切子聖園を作った時点で頭がぷしゅ~となって、その先のことはなんにも考えられなくなったのでしょう。そりゃ飼い犬(ひげチワワ)に脚も撃たれるよ……


3、橘局長の「シグマ計画」へのこだわりは、どこに行っちゃったのか?

 ちょっとね、1、と2、の説明であまりにも字数がかさんでしまいましたので、その他のポイントは、かなりはしょってまとめたいと思います。でも、この作品で気になることの大部分は、もう言いました。

 シーズン2の終盤で橘局長があんなに威勢よく言っていた「新たなシグマ計画」とは、いったい何だったのか?
 シーズン1と2を見る限り、シグマ計画とは、アマゾン細胞を人間の死体に移植して生体兵器を開発するプロジェクトだったようなのですが、『最後ノ審判』の中で明確にアマゾンシグマやカラスアマゾンの衣鉢を受け継いだようなキャラクターは登場しません。橘局長、口ばっかしで変節したか?
 でも、カラスアマゾンことイユの肉体が、二度目の死亡後も他のアマゾンのように溶解もしくは変色しなかったことを考えると、もしかしたら同様に死亡後も遺体に変化が見られなかったネオアルファこと御堂園長が、シグマタイプの最新型だった可能性はありますよね。十二分に生体兵器してたし。なるほど、それなら園長の、あの異様なまでの感情のとぼしさにも説明がつく! あ、いやでも、クライマックスでの対アルファ戦ではあんなにハッスルしてたしな……
 あっそうか、橘局長は切子聖園まわりの守備に関しては完全にネオアルファに一任していて、黒崎隊がなくともいつか来るオメガに対処できるようにしていたのか。まぁ、結局ネオアルファはオメガそっちのけで大好きなアルファに夢中になりすぎて自滅したんですけどね。ダメじゃん!! イユを超えるドジっ子だ。


4、ネオアルファが「おれは人間だ。」ってあの場面で言うの、なんで!?

 いやいや園長、それを言ってる自分の姿を鏡で見てみてよ~! 人間なわけないじゃん!!
 これに関して私が言いたいのは、園長の言い分が正しいかどうかではなく、言うタイミングとして「ほぼ勝ちが確定している側が言うことじゃないよな」という違和感なんです。
 逆に、アルファに殺されかけた園長が「ま、待て! おれは人間だ。人間は殺さないはずだよな!?」と言うのならしっくりくるのですが、どっちかっていうと園長優勢でしょ? なんでそんなこと言ったんだろ。そこは「冥途の土産に教えてやろう」っていうところだろう!


5、シーズン以上に画面が暗くて悠の顔がぜんぜん見えないの、なんで!?

 シーズン1・2の画面の暗さは、あくまでも色調の範囲の狭さであって、物がよく見えないというストレスはなかったかと思うのですが、『最後ノ審判』は特に切子聖園内シーンの照明が弱いですよね。あれ、劇場で見ていたら確実に私は眠くなっていたと思います。それで、ネオアルファの断末魔で目が覚めてガックリくるパターンだよ、絶対あれは!!


6、映画の時間上、ムクの洗脳が解けるのが急すぎて御堂園長の運営方針じたいが貧相に見える。

 まんま、そういうことです。
 ムクもムクで、そのくらいは想定内なんじゃないの?と思っちゃいますけどね。それを見ちゃうくらいでショック受けてたら、おすまし顔で卒園なんてできないだろ。でも、確かに自分の身になってみたら、せっかく命をささげてるのに、おのこしされるのはイヤですよね。私も、食べ物はちゃんと最後まで食べることにしよう。


7、切子聖園の「儀式」の呪文歌が、映画『ドラキュラ』(1992年)のサントラ曲に似ていてうさんくさい。

 これも、まんま。
 ていうか、『最後ノ審判』を観るような人って、ほぼ100%それまでのシーズン1と2も観ている人ですよね。じゃあ、アマゾンになるのに儀式なんてぜんぜん必要ないってことはもうわかっちゃってるわけで、ああいった茶番以外の何物でもないやり取りを延々と見せられるのは、かったるいですよね。
 あれは、御堂園長の雰囲気づくりのための演出なのだろうか……作詞も園長!? 趣味、悪!!


 ……とまぁ、今回もいろいろぐじゃぐじゃ言わせていただきましたが、ラストの、愛する人を残し、ひとりバイクでいずこへともなく去っていく悠の後ろ姿は、仮面ライダーとしか言いようのない完璧なショットになっていたと思います。小林太郎さんのエンディングテーマも、ちゃんと原典『アマゾン』エンディングの「ダダダ!」をおさえていて最高だったし。

 とにかく惜しむらくは、限られた100分間に濃密な展開を詰め込み過ぎて設定の破綻が目立ったこと。かといって、全13エピソードのシーズン3にすれば、それはそれで薄まり過ぎただろうし……難しいもんですね!
 ただし、悠と仁の対決と、正攻法なチームワークでアマゾンを倒す志道駆除隊の最後の戦いを劇場版で描き切ったのは、素晴らしいファンサービスになったと思います。なにげに、ナイフと己の肉体だけでわけのわかんないアマゾンに近接戦を挑む高井望さん、やっぱり最強だわ……

 命のやりとり、本当に生きるための闘い。数々の感動を与えてくれた『仮面ライダーアマゾンズ』シリーズ、どうもありがとうございました。
 みんなも、食べ物は残さず食べよう!! EAT,KILL ALL!!

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