映画『羅生門』(1950年8月 88分 大映)
『羅生門(らしょうもん)』は、1950年の日本の映画である。芥川龍之介の短編小説『藪の中』(1922年発表)を原作とし、タイトルや設定などは同じ芥川の短編小説『羅生門』(1915年発表)が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。
同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法のひとつとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では「羅生門効果」などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。
当時、東宝を離れ映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』(1949年)を撮影した大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、橋本忍による、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚本化した作品『雌雄』を思い出した。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足し、タイトルも『羅生門』に改められた。
大映首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また、黒澤はこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。
同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケハン、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8名のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉感的女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。
羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は史実の平安京羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からなかったため寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口33メートル、奥行き22メートル、高さ20メートルで、柱は周囲1.2メートルの巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。本作のオープニングタイトルにも使用された羅生門の扁額は、高さ120センチ、幅215センチあり、字は大映や東映作品で題字などを手がけた宇野正太郎が書いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃している設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ。1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ。」と愚痴をこぼした。
撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと黒澤を訪ねた。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい。」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めた。黒澤の説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。
撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケ撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。黒澤は宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。
7月17日から光明寺でロケーション撮影を開始したが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。
黒澤は本作で、サイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画の撮影手法を研究した。
宮川は、「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい。」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使庁の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎる点で劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。
宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、森の中のシーンでは光量が変化しやすい撮影に対応して光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は進駐軍が持っていた露出計を手に入れて初めて使用した。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は、地上数メートルの高さに野球用のネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。
また本作では、カメラを直接太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽を撮影するとフィルムを焼くと考えられタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。
三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。
黒澤は、俳優の本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリで古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ。」と指摘した。評論家の佐藤忠男は、「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた。」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画を見た時に、クロヒョウが画面に現れたために驚いた京が両手で顔を隠した仕草を、そのまま真砂の演技に取り入れた。
本作は人間不信をテーマとした物語ではあるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。しかし、このシーンは公開後に国内外から取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けた。
本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの『ボレロ』(1928年発表)調の音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で『ボレロ』のリズムが思い浮かんだからだという。そのためラヴェルの故国フランスでは余りにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル作品だと主張して事なきを得た。
本作は、1950年度の大映製作作品の興行成績第4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところを、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容だったため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンでは第5位にランクされた。
同年末、ヴェネツィア国際映画祭から出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ=ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。
しかし大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイさんの理解ある配慮によるもの」と述べている。
1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、本作は多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。アメリカのエンタメ雑誌『バラエティ』の記者は、「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ。」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、名前を混同して報告していた。
9月10日の授賞式で、本作はグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけて金獅子像を受け取らせた。
本作のグランプリ受賞は、太平洋戦争の敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立(ともに1949年)などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。フランスのリヨンに留学していた小説家の遠藤周作は、「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである。」と書いている。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカ、イギリス、イタリアの映画会社と契約を結んだ。
この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』(1951年)や衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて社の経営は疲弊したとされている。
黒澤自身は、映画雑誌『キネマ旬報』1951年10月上旬号の談話において、本作のグランプリ受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心の表れではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材を採った作品で賞を獲るべきだと主張している。
本作における、同じ出来事を視点を変えて繰り返して描く物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった。 アラン=レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961年)の複雑な話法は本作からヒントを得ているという。この手法は他にも、スタンリー=キューブリック監督の『現金に体を張れ』(1956年)、クエンティン=タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』(1992年)、トム=ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』(1998年)などで用いられている。
本作は、リメイク作品も何作か作られた。アメリカの劇作家マイケル=ケニンとフェイ=ケニンは本作の舞台をアメリカ西部に置き換え、1959年にブロードウェイで舞台化した。この戯曲は1960年にシドニー=ルメットの演出によって TVドラマ化され、1964年にはマーティン=リット監督で『暴行』(主演・ポール=ニューマン)として映画化された。
おもな受賞一覧
1950年度ブルーリボン賞脚本賞(黒澤明、橋本忍)
1950年度毎日映画コンクール女優演技賞(京マチ子)
第12回ヴェネツィア国際映画祭(1951年)金獅子賞(黒澤明)
第24回アカデミー賞(1952年)名誉賞(現在の国際長編映画賞)
第25回アカデミー賞(1953年)モノクロ映画部門美術監督賞(松山崇、松本春造)ノミネート
あらすじ
平安時代の京の都。羅生門(史実の平安京羅城門ではない)で、3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり 焚き木売りのこと)と旅法師は、ある事件の参考人として出頭した検非違使庁からの帰途だった。2人は実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始めた。
3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言するのだが……
おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
多襄丸 …… 三船 敏郎(30歳)
真砂 …… 京 マチ子(26歳)
金沢 武弘 …… 森 雅之(39歳)
杣売り …… 志村 喬(45歳)
旅法師 …… 千秋 実(33歳)
下人 …… 上田 吉二郎(46歳)
巫女 …… 本間 文子(38歳)
放免 …… 加東 大介(39歳)
おもなスタッフ ※年齢は映画公開当時のもの
監督 …… 黒澤 明(40歳)
企画 …… 本木 荘二郎(36歳)
原作 …… 芥川 龍之介『藪の中』、『羅生門』
脚本 …… 黒澤 明、橋本 忍(32歳)
撮影 …… 宮川 一夫(42歳)
音楽 …… 早坂 文雄(36歳)
美術 …… 松山 崇(41歳)
録音 …… 大谷 巌(31歳)
助監督 …… 加藤 泰(34歳)
記録 …… 野上 照代(23歳)
製作・配給 …… 大映
≪本文マダヨ≫
『羅生門(らしょうもん)』は、1950年の日本の映画である。芥川龍之介の短編小説『藪の中』(1922年発表)を原作とし、タイトルや設定などは同じ芥川の短編小説『羅生門』(1915年発表)が元になっている。 平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及しているが、ラストで人間信頼のメッセージを訴えた。
同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法のひとつとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では「羅生門効果」などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が特徴的で、光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを引き出している。
当時、東宝を離れ映画芸術協会を足場に他社で映画製作をしていた黒澤は、『静かなる決闘』(1949年)を撮影した大映から再び映画製作を依頼され、次作を模索していたところ、橋本忍による、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚本化した作品『雌雄』を思い出した。しかし、それだけでは長編映画にするには短すぎたため、橋本はシナリオを書き足すも黒澤は気に入らなかった。黒澤は2人で書き直そうと提案するが、橋本は体調を崩して参加できず、黒澤は熱海の旅館「観光閣」に一人籠もってシナリオを書き直した。黒澤は『雌雄』のエピソードに杣売りの証言と、同じ芥川の短編小説『羅生門』のエピソードを加え、さらにラストで杣売りが捨て子を貰い受けるというエピソードを付け足し、タイトルも『羅生門』に改められた。
大映首脳部は、内容が難解なこの企画に首をひねった。この企画に興味を示した本木荘二郎は首脳陣を説得するため、1950年の年明け早々に大映製作担当重役の川口松太郎と市川久夫の前で本読みをした。まだ企画が通ってもいない脚本の本読みをプロデューサーがするのは異例だったが、本木の劇的な抑揚を付けた本読みは川口たちの心を動かし、製作の許可が出た。また、黒澤はこの企画を渋る経営陣に「セットは羅生門のオープンセットが1つ、他に検非違使庁の塀、あとはロケーションだけ」と説得して会社を安心させた。大映社長の永田雅一はこの決定に深く関与しておらず、本作のプロデューサーも製作部長の箕浦甚吾が担当した。
同年の初夏、黒澤一行は大映京都撮影所入りし、木屋町の旅館「松華楼」に宿泊した。黒澤は松華楼を拠点にして、羅生門のオープンセットの完成を待ちながら、撮影打ち合わせ、ロケハン、リハーサルなどの準備に取りかかった。配役は8名のみで、黒澤は三船敏郎や志村喬など一緒に仕事をしたことのある俳優で固めるつもりだったが、大映は興行的に難しい作品を売りやすくするため、当時肉感的女優として売り出していた京マチ子を真砂役に起用することを提案した。本作に出演したかった京は眉を剃り落してメーキャップテストに現れ、その熱意に打たれた黒澤は京の出演を決めた。
羅生門のオープンセットは、美術監督の松山崇の設計により、大映京都撮影所内の広場600坪に25日間を費やして建設した。羅生門は史実の平安京羅城門を元にしているが、羅城門の構造が分からなかったため寺院の山門を参考にして建てた。そのセットは間口33メートル、奥行き22メートル、高さ20メートルで、柱は周囲1.2メートルの巨材18本を使い、「延暦十七年」と彫られた瓦を4000枚焼いた。本作のオープニングタイトルにも使用された羅生門の扁額は、高さ120センチ、幅215センチあり、字は大映や東映作品で題字などを手がけた宇野正太郎が書いた。あまりにも大きなセットになり、屋根までまともに作ると柱が支えきれなくなるため、屋根の半分を崩して荒廃している設定にした。企画時にセット1つで済むと聞かされていたため、大映重役の川口松太郎は「黒さんには、一杯喰わされたよ。1つには違いないが、あんな大きなオープンセットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ。」と愚痴をこぼした。
撮影が始まる前、助監督の加藤泰(チーフ)、若杉光夫(セカンド)、田中徳三(サード)の3人は脚本がよく解らず、説明を求めようと黒澤を訪ねた。映画のテーマを説明するのを嫌う黒澤は「よく読めば解るはずだ。もう少し脚本をよく読んで欲しい。」と言うも、3人は引き下がらずに重ねて説明を求めた。黒澤の説明に若杉と田中は納得するも、加藤だけは納得がいかず、黒澤の説明に執拗に食い下がったため、黒澤も気分を害した。撮影現場でも2人は険悪で、黒澤がチーフ助監督がすべき仕事を志村喬に任せたため、これに激昂した加藤は現場に来なくなり、黒澤も彼を現場から外した。
撮影は7月7日から8月17日まで行われた。オープンセットは大映京都撮影所内に作られた羅生門と検非違使庁の庭のみで、それ以外はロケ撮影が行われた。森のシーンは奈良市奥山の原生林と長岡京市の光明寺の裏山、川ふちのシーンは木津川べりで撮影した。黒澤は宮川の撮影技術を「百点だよ。キャメラは百点! 百点以上だ! 」と高く評価した。
7月17日から光明寺でロケーション撮影を開始したが、この撮影は羅生門のオープンセットと並行してスケジュールが組まれ、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門のシーンを撮影した。雨の羅生門のシーンでは、門が煙るほどの土砂降りの雨を降らせるため、3台の消防車を出動させて5本のホースを使用した。その時に雨がバックの曇り空に溶け込まないようにするため、水に墨汁をまぜて降らせた。
黒澤は本作で、サイレント映画の持つ映像美にチャレンジし、視覚的なストーリーテリングに頼ることにした。黒澤はサイレント映画の美しさを考え直し、純粋な映画的手法を生かす方法を探すため、1920年代のフランスのアヴァンギャルド映画の撮影手法を研究した。
宮川は、「黒と白で、グレーのないような、コントラストの強い絵を撮りたい。」と提案し、これに応じた黒澤は検非違使庁の庭を白、羅生門を黒、森の中を白と黒で撮るというイメージを固めた。宮川はこれまで得意とした、グレーの微妙なニュアンスで表現したローキー・トーンの画調を放棄し、黒と白を基調として中間のグレーを抑えるハイキー・トーンを採用した。さらにフィルムは当時主流のコダックフィルムを使わず、コントラストが出過ぎる点で劣っていた国産のフジフィルムをあえて使用した。
宮川はこれまで勘を頼りに撮影してきたが、森の中のシーンでは光量が変化しやすい撮影に対応して光と影のコントラストの強い映像を作るため、宮川は進駐軍が持っていた露出計を手に入れて初めて使用した。また、強力な電気照明を持ち込めない暗い森の中で安定した光量を確保するため、宮川は「鏡照明」という手法を考案した。これは木の間からもれる太陽光を8枚の大鏡でリレーのように反射させて光を当てるという技法で、レフ板よりも太陽光を直接使ってコントラストの強い画調を作ることができた。さらに宮川は、地上数メートルの高さに野球用のネットを張り、その上に枝葉を適当に散らし、長い竹竿でそれを調節しながら、俳優の顔に木の葉の影がうまく当たるようにし、登場人物の精神状態を木の葉の影の微妙な変化で表現した。
また本作では、カメラを直接太陽に向けるという大胆な撮影を行った。当時は太陽を撮影するとフィルムを焼くと考えられタブーとされていたが、黒澤は多襄丸と真砂が接吻するシーンで、2人の接吻越しに太陽を入れるように注文した。宮川は2メートルの高さの台に2人を乗せ、カメラは地面を掘った穴から仰角で撮影し、2人の接吻のアップ越しに木の葉の間をもれる太陽を入れた。宮川は杣売りが森の中を歩くシーンでも、モンタージュ用に木の葉の間をもれる太陽のショットを撮影している。
三船演じる多襄丸が武弘を縛り付けたあとに真砂のもとへ駆けていくシーンでは、多襄丸の走りにスピード感を出すため、カメラを中心に円を描くように三船を走らせた。宮川はカメラが三船と等距離になるよう、カメラから延ばしたロープを三船に縛り付け、カメラごとぐるぐる回りながら撮影した。
黒澤は、俳優の本能むき出しの野性味ある動きや表情を引き出そうとした。黒澤はリハーサルの合間に16ミリで古いアフリカ探検映画を見せ、藪の向こうからライオンがこちらを見ているショットがあると、「おい三船君、多襄丸はあれだぜ。」と指摘した。評論家の佐藤忠男は、「三船敏郎は多襄丸役で、旧来の時代劇の様式化された演技とは全く違う動物的精気のあふれるような本能的な荒々しい動きを見せた。」と指摘している。さらにクロヒョウの出る映画を見た時に、クロヒョウが画面に現れたために驚いた京が両手で顔を隠した仕草を、そのまま真砂の演技に取り入れた。
本作は人間不信をテーマとした物語ではあるが、ヒューマニストである黒澤はラストに杣売りが羅生門に捨てられていた赤ん坊を拾って育てるというオリジナルのエピソードを付け足し、救いとして人間への信頼を取り戻そうとする結末にした。しかし、このシーンは公開後に国内外から取って付けたようなヒューマニズムで不自然ではないかという批評を受けた。
本作の音楽は早坂文雄が作曲した。真砂の証言シーンでは、ラヴェルの『ボレロ』(1928年発表)調の音楽を作曲している。これは黒澤のアイデアで、そのシーンの脚本を書いている時に、頭の中で『ボレロ』のリズムが思い浮かんだからだという。そのためラヴェルの故国フランスでは余りにも酷似しているとして物議を醸し、ラヴェルの楽譜の出版元からも抗議の手紙が寄せられたが、早坂のオリジナル作品だと主張して事なきを得た。
本作は、1950年度の大映製作作品の興行成績第4位となる成功を収め、通常は週替わりで封切られるところを、大映系列館のすべてで2週間以上続映された。当時としては刺激的な内容だったため、インテリ層に支持されて都市部でヒットした。しかし、映画批評家の評価はあまり良くはなく、この年のキネマ旬報ベスト・テンでは第5位にランクされた。
同年末、ヴェネツィア国際映画祭から出品依頼が届き、日本映画連合会は同映画祭出品の日本の窓口だったイタリフィルム社長のジュリアーナ=ストラミジョーリに選考を任せた。ストラミジョーリはすべての候補作を見て、本作が出品作にふさわしいと判断した。
しかし大映は出品に興味を示さず、字幕作成費を負担するのも渋ったため、ストラミジョーリは自分で字幕を作成し、自費でフィルム代や送料を負担して出品した。黒澤は自伝で、映画祭出品は「ストラミジョリイさんの理解ある配慮によるもの」と述べている。
1951年8月23日にヴェネツィア国際映画祭で上映されると、本作は多くの映画関係者やジャーナリストに衝撃を与えた。アメリカのエンタメ雑誌『バラエティ』の記者は、「監督が素晴らしい。全て屋外で撮影されているが、カメラワークが完璧だ。」と報告したが、当時は黒澤や三船も知られていなかったため、名前を混同して報告していた。
9月10日の授賞式で、本作はグランプリにあたる金獅子賞を受賞したが、黒澤は出品されたことすら知らず、日本から関係者は誰も出席していなかった。それどころか授賞式には日本人すらいなかったため、映画祭関係者はヴェネツィアの街で受取人にふさわしい人を探し回り、たまたま観光で訪れていたベトナム人男性を見つけて金獅子像を受け取らせた。
本作のグランプリ受賞は、太平洋戦争の敗戦で打ちひしがれていた日本人にとって、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、古橋廣之進の競泳世界記録樹立(ともに1949年)などとともに希望と自信を与える出来事となった。また、敗戦国の国民として肩身が狭い思いをしていた海外在住の日本人にも大きな喜びを与えた。フランスのリヨンに留学していた小説家の遠藤周作は、「ベニス映画祭で日本の作品がグランプリをとったというニュースほど、留学生を悦ばせたものはなかった。彼等が木と紙の家にしか住まず、地面の上に寝るとしか考えていない日本人の創造力が本当はどういうものかをこれによって証明できたからである。」と書いている。受賞後、大映には欧米各国の配給会社から買付け申し込みが殺到し、アメリカ、イギリス、イタリアの映画会社と契約を結んだ。
この受賞以来、日本映画には各国映画祭から出品要請が相次ぎ、日本映画の配給を要望する海外の映画会社も増えた。日本映画産業も海外市場に目を向けるようになり、「輸出映画」という言葉が業界用語となった。永田率いる大映も、受賞以降は海外市場開拓を積極的に進めるようになり、吉村公三郎監督の『源氏物語』(1951年)や衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などの海外受けを狙う芸術路線の大作映画を送り出し、そのうち数本が賞を受賞したものの、社運を賭けた大作主義に走り過ぎて社の経営は疲弊したとされている。
黒澤自身は、映画雑誌『キネマ旬報』1951年10月上旬号の談話において、本作のグランプリ受賞について、西洋人のエキゾチックなものに対する好奇心の表れではないかと指摘し、もっと日本の現実的な題材を採った作品で賞を獲るべきだと主張している。
本作における、同じ出来事を視点を変えて繰り返して描く物語手法は、海外で「ラショーモン・アプローチ」と呼ばれ、非線形アプローチや多視点のテクニックによる映画が作られるきっかけとなった。 アラン=レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961年)の複雑な話法は本作からヒントを得ているという。この手法は他にも、スタンリー=キューブリック監督の『現金に体を張れ』(1956年)、クエンティン=タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』(1992年)、トム=ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』(1998年)などで用いられている。
本作は、リメイク作品も何作か作られた。アメリカの劇作家マイケル=ケニンとフェイ=ケニンは本作の舞台をアメリカ西部に置き換え、1959年にブロードウェイで舞台化した。この戯曲は1960年にシドニー=ルメットの演出によって TVドラマ化され、1964年にはマーティン=リット監督で『暴行』(主演・ポール=ニューマン)として映画化された。
おもな受賞一覧
1950年度ブルーリボン賞脚本賞(黒澤明、橋本忍)
1950年度毎日映画コンクール女優演技賞(京マチ子)
第12回ヴェネツィア国際映画祭(1951年)金獅子賞(黒澤明)
第24回アカデミー賞(1952年)名誉賞(現在の国際長編映画賞)
第25回アカデミー賞(1953年)モノクロ映画部門美術監督賞(松山崇、松本春造)ノミネート
あらすじ
平安時代の京の都。羅生門(史実の平安京羅城門ではない)で、3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり 焚き木売りのこと)と旅法師は、ある事件の参考人として出頭した検非違使庁からの帰途だった。2人は実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始めた。
3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言するのだが……
おもなキャスティング ※年齢は映画公開当時のもの
多襄丸 …… 三船 敏郎(30歳)
真砂 …… 京 マチ子(26歳)
金沢 武弘 …… 森 雅之(39歳)
杣売り …… 志村 喬(45歳)
旅法師 …… 千秋 実(33歳)
下人 …… 上田 吉二郎(46歳)
巫女 …… 本間 文子(38歳)
放免 …… 加東 大介(39歳)
おもなスタッフ ※年齢は映画公開当時のもの
監督 …… 黒澤 明(40歳)
企画 …… 本木 荘二郎(36歳)
原作 …… 芥川 龍之介『藪の中』、『羅生門』
脚本 …… 黒澤 明、橋本 忍(32歳)
撮影 …… 宮川 一夫(42歳)
音楽 …… 早坂 文雄(36歳)
美術 …… 松山 崇(41歳)
録音 …… 大谷 巌(31歳)
助監督 …… 加藤 泰(34歳)
記録 …… 野上 照代(23歳)
製作・配給 …… 大映
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