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全国城めぐり宣言 第46回 「羽前国 飯塚館」資料編

2023年08月20日 09時15分05秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 飯塚館とは

 飯塚館(いいづかだて)は、現在の山形市飯塚町に存在していた城郭。
 南北朝時代から江戸時代初期にかけて羽前国の村山地方を中心に支配していた羽州探題・最上家の本拠地である山形城の西に位置する、200m四方の平城である。築城、廃城年代ともに不明。現在は完全に宅地・農地化しており、城郭の遺構は見られない。

 現在の飯塚地区は、山形市の西に位置する。世帯数約1200戸、人口約3300名の町で、特にキュウリの生産に力を入れている農家が多い。飯塚館の城域は地区の東側「上飯塚」にあたる。

 最上家第11代当主・最上義光(1546~1614年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて出羽国内において勢力を拡大し、出羽国南部(羽前)をほぼ統一する最上家の最大版図を築いた。義光は慶長年間(1596~1615年)に、晩年まで山形城とその城下町の拡大に注力し、山形城の城域は三ノ丸まで拡張された。その面積は235ha となり、日本国内の城郭では5番目、東北地方では最大の広さを誇った。
 最上家は当時、現在の村山地方を中心に多くの支城を構えており、それらは「最上四十八館」と称されていた。しかしその実態はよく分かっておらず、義光の時代には48を超える支城を統括していたと考えられる。飯塚館もまた、山形城の西を守る支城として機能していたと思われる。

 現在、飯塚館の主郭があったと思われる中心地には「日森ヶ岡稲荷神社」が残っている。祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。明治三(1870)年に「村社」に列せられ、上飯塚地区の産土神として崇敬されてきた。現社殿は、大正十(1921)年6月に発生した大火で焼失した後、昭和三(1928)年に再建されたものである。
 日森ヶ岡稲荷神社の創建年代もまた、飯塚館と同じく不明である。南北朝時代から戦国時代にかけて左沢(あてらざわ)城(現・大江町)を領した左沢家の武将で、のちに最上義光に仕えた日野将監定重(?~?)の屋敷神が社の元との説もあるが、永正十八(1522)年銘の「湯殿山大権現」石碑も残り、江戸時代には「崇山権現」として崇拝されていた。

 また、飯塚館内の「鬼門」にあたる北東区域には、現在「めしつか稲荷」が残っている。この社は飯塚館が存在した当時からあったものと思われるが、成立年代については飯塚館ともども不明である。大正十年の大火で日森ヶ岡稲荷神社と同様に焼失したが、のちに再建される。現在の社祠は、2000年に建立されたものである。
 「飯塚」の地名の発祥となったと伝わるこのめしつか稲荷の祭神は、日森ヶ岡稲荷神社と同じく倉稲魂神。「めしつか」の由来は、社に供えられた握り飯が常に塚のように積まれてあったという伝説に由来する。

 現在、飯塚館の水堀の南側に位置する場所に「鶴塚」と呼ばれる竹藪がある。この塚は以下の伝説に由来する。昔、親孝行のタケという娘が崇山権現へお参りした帰りに白羽の矢で射られた鶴を拾った。タケに相談された飯塚の庄屋は、「これはタケの親孝行に免じ、崇山様が下された恵みの鶴である。一切の責めは私が負う。」と請け合い、タケが重病の父親に鶴の肉を食べさせると、父の病気はたちまち回復した。のちに山形藩の役人が鶴を探しに来たが庄屋はあわてずに、白羽の矢も鶴の骸も屋敷の隅に埋めてその上に竹を植え、タケとその家族を守ったという。その竹藪が、現在の鶴塚であるとされる。
 この伝説が史実を元にしているとするのならば、かつて飯塚館だった土地もしくはその一部は、江戸時代、1622年の最上家の改易後には庄屋屋敷に再利用されていたということになる。

 山形城三ノ丸の「飯塚口」とされていた地点(現・山形市春日町)と、現在の地名「山形市飯塚口」とは距離的にかなり離れている(約2km )。
 山形城三ノ丸の「飯塚口」は、山形県立図書館収蔵の『最上時代山形城下絵図』(作成年代不明)に、三ノ丸の十一ヶ所の出入門のひとつとして説明されている。
 しかし、奥平家が山形藩主となった時代(1668~85年)の城郭図『正保城絵図』(国立公文書館収蔵)によれば、飯塚口は「本鍛冶町口」と呼称されている。これは、この一帯がもともと最上家時代に鍛冶師が多く集住していた地区であったところが、義光の慶長年間の城下町拡張にともない、山形城を挟んで反対側に位置する馬見ケ崎川(旧水路)の北に移されたためであるとされる。その当時、本鍛冶町の民家は西の飯塚村までほぼ繋がっていたといわれている。
 また、昭和時代に春日町にあった商店の証言として、この地域は昔、飯塚村の方向から山形市中心地に来た勤め人が帰りに通った道で、店に立寄ることも多かったという記録がある。
 以上のことから、山形城三ノ丸の「飯塚口」は、飯塚地区ではないものの「飯塚館に向かう出入口」として呼称されていたようであるが、確定的な裏付け史料は残っていない。また、山形城三ノ丸の外堀の西側に飯塚村の村有地の桑畑があり、桑葉の売上金が村内で分配されたり仏堂の維持費に当てられていたという記録が残っていることから、飯塚村に縁のある土地柄から「飯塚口」と呼ばれていた可能性もある。

 館の北に、曹洞宗寺院の揚柳寺がある。楊柳寺の本尊は室町時代の作とみられる「十一面観音像」(木造座像 秘仏)で、飯塚村内外から幅広い崇敬を集めており、山形藩主・堀田相模守正春(1715~31年)の母・清水氏が元文四(1739)年五月にとばり(垂れ布)を奉納している。
 寺伝によれば、楊柳寺は元禄年間(1688~1704年)の創建とされるが、延文二(1357)年の刻銘のある板碑もあり、最上家が羽州探題として山形城を築城した時代から何らかの宗教施設が存在していたと思われる。

 また、飯塚地区の西にあたる「下飯塚」区域には、薬師如来と日光・月光両菩薩による薬師三尊像を彫った石仏と、薬師如来の瑠璃光浄土を仏敵から守る十二神将の木像12体を祀る仏堂「ジュウニンツァマ(十二様)」がある。
 ここもまた、飯塚館と同様に創建当時の姿や年代については不明だが、飯塚地区の中心が上飯塚の飯塚館に移るよりも前の14世紀以前に成立したと思われる。
 口伝によると、かつて飯塚の住人は十二様堂から川を挟んだ南に位置する「元屋敷」地区に暮らしており、その鬼門にあたる北東に屋敷神として十二様を祀り敬っていた。しかし元屋敷が村の西にある須川の洪水などで住みにくくなったために、その東である現在の上飯塚地区に移り住み、元屋敷地区は一円田畑と化し、十二様堂だけが残ったのだという。それ以降、十二様堂は土地の所有者が世話するのみとなっていたが、十二様堂を崇拝して上飯塚から下飯塚に戻り住んだり分家を出す者も現れたため、明治時代末頃には2~30軒の集落となり、土地の名は十二様堂の前に集まったために「十二神将前」から「十二の前」に変化し、今日に至っている。

 飯塚館の堀の北を通り、上飯塚と下飯塚を結ぶ村道(現在の県道271号線の北に位置する)は、かつて「馬道」と呼ばれており、江戸時代は無論のこと、中世の飯塚村成立時から使われていた。
 現在もこの馬道沿いには、江戸時代末期の安政三(1856)年に建立された安産と子供の安全を祈る石造の子安観音像と、馬の供養と通行の安全を祈願する馬頭観音の石塔が残っている。

 飯塚館と楊柳寺の東を通る小道は「横道」と呼ばれ、南は上山までも通じており、キリシタン信者や宣教師たちが人目を避けて往来していたと言われ、「キリシタン道」や「バテレン道」と呼ばれていた。また、飯塚村には客死した旅の宣教師を葬った「異人塚」があるという伝説がありながらもその場所は不明であったが、1966年にこのキリシタン道と県道271号線の交差する地点の北側から凝灰岩製の六面の石塔が出土し、彫像からキリシタンの遺物であると判明した。この石塔は現在、揚柳寺の境内に祀られている。

 かつて飯塚館の西(下飯塚や元屋敷の南)には、湧水による500坪(1600平方メートル)ほどの沼「がづご沼」があり、飯塚館の西の守りであると同時に貯水池としても利用されていた。がづご沼の水深は浅く、底無し沼状の泥の中には沈んだ流木とがづご(マコモ)の根がからまり合い、なかば谷地のような状態であったという。この付近には湿地や沼地が多かったが、1970年代の耕地整理によって姿を消した。現在は、がづご沼の南東に設置されていた、沼の水神を祀る水神塔のみが残されている。

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