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「創造と破壊」への抗い:映画「プリキュアオールスターズF」感想

2023年09月18日 | プリキュア映画シリーズ
■「創造と破壊」への抗い:映画「プリキュアオールスターズF」感想


(公式パンフレット(豪華版)より)

まだ1回しか観賞しておらず、私の思い違いも多々あるかと思いますが「初めて見た時の感想」は大事だと思いますので、一旦吐き出してみる。

【創造と破壊】
率直に言って、今回の映画は鷲尾さんが繰り返しインタビューで言及し、(一部の)ファンの間で物議を醸した事柄に真っ向から切り込んでいたように見えます。
その第一は「創造と破壊」。

豪華版パンフレットにも掲載されているように、鷲尾さんは(主には男子プリキュア絡みの文脈で)「創造と破壊こそがプリキュアの魂だ」と述べられています。

「<プリキュア>“創造と破壊”の歴史から生まれた男子プリキュア舞台 鷲尾Pが語る誕生の裏側」
【引用】
『「ヒンズー教のシヴァ神の破壊は、創造を生み出すための破壊です。そういう発想なのかもしれません。破壊して、再構築していく。再構築するには、根っこがきちんとなければできない。根源となる素材を使って再構築していきます。その素材を考え、突き詰めて考えていけば、いろいろなことに挑戦してもプリキュアとして通用すると考えています」』
【引用終】

●「Dancing☆Star プリキュア公式サイト
【引用】
『なぜ男性キャストで舞台版プリキュア!? 皆様のお気持ちお察しいたします。答えは“創造と破壊”です』
【引用終】

ところが今回の敵・シュプリームは、「破壊」と「創造」のワードをそのまま口にし、実際に世界の破壊と創造を行っています。そしてプリキュアたちは「破壊と創造」を明白に敵視している。

プリキュアさん達は「創造」された世界を、確かに時には楽しんで旅はしていました。
ですが「こんな世界もいいね」とか「変わってしまったけど、これはこれでも良い」「この変化した世界で生きていこう」といった着地はしていません。
最終的に目指したのは「再生」です。元の世界を取り戻すために戦っている。

鷲尾さんもインタビューで述べているように「根源となる素材を使うか」の部分が違うといえば違うので、シュプリームの「破壊と創造」は、鷲尾さんの言う「創造と破壊」とは違うのでしょうけれど、映画の中ではそのような説明は特にはされていません。

また「両者は違うんだ」と説明が必要になるぐらいなら、最初から別の言葉を選べば良かっただけです。
たとえばシュプリームには「創造」ではなく「改変」とか「変容」と言わせるなど。

【プリキュアとは自立している存在】
同じくインタビューでは「自立」をプリキュアの要件として強調していました。

「初の舞台化でなぜ男子高校生プリキュア?鷲尾天×ほさかようが語り尽くす 既存概念の破壊こそがプリキュアのテーマ」
【引用】
『プリキュアシリーズの軸である「自分の足で凛々しく立つ」ことを、この作品の男子高校生たちも意識していれば、彼らはプリキュアだと思います。』
【引用終】

シュプリームは明らかに「自分の足で凛々しく立ち」、「自分らしく」自立している。
ですが私らの感覚では(劇中の表現としても)あれはプリキュアではない。

実際に映画でも語られたように、プリキュアとはむしろ「一人では弱い」存在です。それの何が悪いのか。だからプリキュアはふたりなんだ。
自分の弱さも他者の弱さも認めて、共に手を取り合い、助け合って主体的に問題に取り組むことの方が、プリキュアらしさに感じます。

この「自立」は、「(主には男子の)お助けキャラをあてにせずに、(主には女子の)自分たちだけで解決する」が発端の言葉だったと記憶しています。
「男子プリキュアを入れたい」となった時に、上記の「反論」が容易に思い浮かんだ故に、「お助けキャラをあてにせずに、自分たちだけで解決するならプリキュアだ」の強弁が先行してしまい、「弱さを認めた上で主体的に解決する」の要素が抜け落ちた「自立」という表現に行き着いてしまったんじゃなかろうか。

※「自立」といったニュアンスの表現自体は、男子プリキュアが取りざたされる2023年より前から使われてはいます。

「自立」に似通った表現で短く一単語にするなら、おそらく真に言いたかったのは「主体性(がある)」だと思われます。これならお遊びで創造と破壊をしているシュプリームには当てはまらない。

文意に配慮するなら、「自分の足で凛々しく立つ」ことは「主体性がある」と言えますし、読み手側の「自立」というまとめ方が間違ってる可能性はある。
今回この記事を書くために改めて検索しましたが、鷲尾さん自身は「自立」という単語は使っていません(すぐには見つからなかった)。
ただ本件に言及している他の方の発言では、しばしば「自立」という表現が使われています。

(鷲尾さんのインタビュー記事を紹介する投稿にて)加藤藍子🌍ライター・編集者
【引用】
『プリキュアの描く「自立」とは?という質問に対する鷲尾天さんの答えも、ぜひ。』
【引用終】

鷲尾さんは「自立」をプリキュアの要件として表現している、と読み取るのは不自然ではないはず。
そしてその「自立」が、今回の映画では敵の方に当てはまってしまっている。

「自立」とは「一人の力で全てをやり遂げる」ことは意味しないので、助け合ったとしても必ずしも矛盾はしていませんが、だったら最初から別の表現をした方が良かったのではなかろうか。

補足が必要になる紛らわしい表現を広報に使うのは、もうその時点で失敗です。

【プリキュアごっこ】
シュプリームは「プリキュアごっこ」に興じています。
プリキュアを自称し、プリキュアの真似っこをすれば、何かが変わると思い込んでいる。

男子プリキュアが登場した際に、「男子もプリキュアになっていいんだと認められた」のような感想をちらほら見かけました。
シュプリームの「プリキュアごっこ」は、これにNoを突き付けているように見えてしまう。
外側を表面的に真似てプリキュアだと言い張っても、それはプリキュアではないし、何も変わらない。

※「キュアウィングはプリキュアではない」といった話ではなく、「キュアウィングもプリキュアとして認められるんだから、プリキュアを名乗りさえすれば誰でもプリキュアだ」といった安直な発想が否定される、との意味。

※言うまでもなく、子供の無邪気なプリキュアごっこを否定する意図は一切ない。そういう話はしていない。これまでのプリキュア本編でも、無害な「偽プリキュア」を一々問題視するような無粋な描写はされていない。

しかもシュプリームは、それなりに「プリキュアっぽい」ことはしています。
特に変身バンクは悪趣味の極致。そして不都合なことに、「ぼくプリ」では変身シーンが「見どころ」として強調されています。

「初の舞台化でなぜ男子高校生プリキュア?鷲尾天×ほさかようが語り尽くす 既存概念の破壊こそがプリキュアのテーマ」
【引用】
『あとは…絶対変身しなきゃいけない(笑)。「変身してくる!」って舞台からハケるわけにはいかないと思っていますから、舞台上で変身できたらと考えています!(笑)』
【引用終】

変身シーンを再現しても、プリキュアではない。
更には妖精がいてもプリキュアではないし、敵を倒したり、必殺技っぽいのを出してもプリキュアではない。

じゃあ何があればプリキュアなのか?といえば、(前述の「手を取り合う」といった内面ではなく外面でいえば)「玩具を持っている」ことがその一つのように思えます。
馬鹿みたいな幼稚な指摘にも感じるかもしれませんが、メタ的には「玩具メーカー等の信任や期待を背負っている」、物語的には「己の拠り所の視覚化」などそれなりに大きな意味があります。
妖精の存在には気づいたシュプリームが、玩具(タクトやブレスや変身アイテム)に気づかなかったのは不自然といえば不自然で、プリキュアごっことしては中途半端です。自分の力しか信じないシュプリームには、道具を使う発想がなかったのかもしれず、これも「プリキュアらしさ」に繋がってきます。

※決着後のEDでは玩具らしきものを持っていますから、「敵の間は玩具なし」は意識した描写だったと思います。

そしてこれまた不都合なことに、「ぼくプリ」には今のところ玩具が出てこない。
誤解されたくないので強調しますが、私は、この映画が「ぼくプリ」批判を意図しているとは全く思わないです。
ただ「プリキュアらしさ」「プリキュアもどき」を描いたら、たまたま結果的に上記のようになってしまった。

これはとても「気まずい」話で、「ぼくプリ」さんにとってはハードルが非常に上がったんじゃなかろうか。

【まとめ】
上記の通り、今回の映画は「プリキュアとは何か」を扱った結果、この半年間で公式が発信してきた「プリキュアとは」に疑問符を突き付けたように見えてしまう。
意図してのことならもちろん、意図せずに結果としてそうなったのだとしても非常に気になる。

私がネットで見た範囲でいえば、映画は大絶賛されています。ファンが望む「創造と破壊」とは「全くの新規の要素」ではなく、「従来の要素の組み合わせによる新たな発見」のように見える。

私自身は、「創造と破壊」「自立していればプリキュア」はかなり疑問を抱いていて、今回の映画も実際に見るまでは「既存プリキュアが全否定されて終わる(それこそ「変わってしまった世界を受け入れて、新たな世界を生きていこう」のような)」を危惧していました。
なので制作サイドの意図はともかく、「創造と破壊」等を否定するかのような展開には非常にすっきりしたし、今回の映画のカタルシスの肝だとすら思った。

これを元に「だから男子プリキュアは失敗なんだ」「公式が否定した」のような馬鹿げたことを主張する気は全くありません。
とはいえ、この半年間で強調されてきた公式サイドの「言い分」が表面的には覆ってしまい、少なくとも「ぼくプリ」の位置づけはなかなか難しくなったんじゃないかな、と感じました。

最終的にシュプリームやプーカはプリキュア扱いされた(か不明瞭ですが抹殺はされていない)のですが、これまで鷲尾さんが繰り返し語ってきた要素を否定し、違う側面からのプリキュア認定だと、「今までの話は何だったんだ」となってしまう。
ましてや、そのインタビューの直接の先にある「ぼくプリ」としては、梯子を外された感がある。どうするんだろう?

【蛇足】
言葉を選ばず感じたままに言うなら「幾つもの世界を滅ぼした、至高を自称し、多様性を捻じ曲げる外世界からの侵略者との戦い」ってポリコレの外圧を想起します。それに対して20年間のアーカイブで応戦し、私達が私達であるために、今までの世界を守る戦いだったように思う。

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