gooさんの提供するプリキュアフォーマットが新しくなりました。
いつの間にやらビートさんにも対応。
個人的にはメロディさん派ですけれど。最近、ビートさんに気持ちが傾きかけ…。
(それもこれも、ラブギターロッドCMのせいだ)
で、登録すると自動的にホームページがgooさんになる。
解除も出来るけど、せっかくだからそのままにしてるので、ネットにつなぐたびにgooさんを見ることになります。
こうして情報源をプリキュアさんに支配されるのです。怖い怖い。
そんな中、目についた記事。
■「知っている」が学ぶ心を妨げる
[引用]
企業で研修を行うと、たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、いわば成績表のようなもので、良い評価であれば励みにし、意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。いずれも見るのは楽しみです。しかし、そんな中で残念な感想というのがあります。それは例えば―――
「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「実際の業務には使えない」……といった類のものです。
[引用終]
まぁ私見を言うなら、記事で書かれていることは的外れもいいところだと思う。
知ってることを何度も繰り返されても時間の無駄だ。
大学受験のために塾にいったら、延々と九九の暗唱をさせられる状況を想像してみるといいです。
「知っていることが学びの妨げになる」も糞もない。
時間と金の無駄以外の何物でもないでしょう。
うちの会社でもこの手の講習は何故か多い。
よくあるのがこんな感じの構成。
・講師が薄っぺらい説明をする(概ね「読めば5分で分かる」程度のことを1時間かけてだらだら語る)
・受講者でグループを作って話しあう
・話しあった結果を発表する
・薄っぺらい講評がある(「色々な考えがありますね」「決まった正解はありませんので答えの解説はしません」程度の内容)
あからさまに時間の無駄です。
読めばわかる程度の情報を得るのに、講師料を払う意味は無い。
グループで「ディスカッション」とやらをしても、結局は同レベルの受講者が集まってるのだから得られるものはなし。
それどころか学習の意味では害悪だとすら思います。
間違った意見を述べる人が居ても、それを論破する時間がないし、昨日今日会ったよその人相手にそこまでする義理もないので、訂正されないまま共有されてしまう。
(例えば「職場でコミュニケーションを推進するにはどうすればいいか」→「積極的に飲み会に誘う。飲めない人も続ける内に慣れるから無理にでも連れて行く」とか。こういう人は、普通にいる)
しかも大抵の場合、設問がどうとでも解釈がブレるものが多く、日本語の定義を詰めてるだけで終わりがちです。
書いていない前提を使ってる来る人も珍しくないので(「設問ではこう書いてあるが、私の信念に反するのでこういう設問だと解釈しました」とか。これも普通にいる)、スタートラインにすら立てないケースが多い。
そして恐らく、そうやって結論が出ないことを、講師としては想定している。
彼らとしては「議論が盛り上がった」とでも結論付けたいのでしょうが、中身はスカスカです。
表面的に綺麗な「効能」はよく言われます。
「他の人と話し合うことで刺激になった」とかそういうの。
上記のように、まぁ無意味です。
形式によりますが、講習に参加すれば、講師費用で数十万・受講者の日当数日分の費用で同じく十万単位かかります。
だったら同じ費用で、旅行のパッケージツアーにでも申し込んだ方が効果的なんじゃないでしょうか。
普段会わない他の人と出会う機会が生まれますよ。
あるいは講師がいてもいなくても変わらないのだから(主目的は他の人との交流なのですから)、社内で他の部署の人とグループディスカッションでもすればいい。
講師に支払っていた費用を、参加した受講者にプレゼントすればモチベーションもアップ。有意義な講習になるでしょう。
最低でもこれらの単純な案に勝てる程度の学習効果がなければ、無駄として切って捨てるべき。
記事を見る限り、ご大層な格言をお題目として唱えるのが好きな方のようで…。
だったらその格言をプリントアウトして配布して終了で良いですね。講義は無駄。
その格言を現実に適用するにはどうすればいいか、が大事なのに。。
結局のところ、一生懸命に九九を暗唱させられても無意味なんですよ。
肝心なのは、その九九が、どう役に立つのか。
現実に直結した応用でも、高度な数学の理論への発展でもいいですが、そこから先が大事なのであって、暗唱させられ続けても仕方がない。
…というかそもそも「格言」こそが、「何となく言葉にしたら納得してしまって思考を止めてしまう」典型例のような気がするのですけれど。
記事中にある「菫の花かと思った瞬間に考えるのを止める」というのも、奇妙な内容に思えます。
人間は、単語として定義されていないものは認識できない特徴がある。
よく言われるのが色で、様々な詳細な色の表現を知っている人とそうでない人では認識に大きな差が出ます。
例えば「アイアンブルー」「あいいろ」「あいいけねずみ」「あいさびいろ」といった単語を知らなければ、全部「青っぽい色」でしかない。
犬種を知らなければ全部「犬」だし、「菫」を知らなければ全部「草」ですよ。
その後に「考えるのを止めるかどうか」という点で言えば、「単なる草」と認識してる方が、よほど考えないでしょうに。
(元々この言葉を言われた方は芸術家のようですので、同じ菫であっても微妙に色合いが違うので同一存在ではない、とかそういう世界の人なんでしょう。
九九で言うなら「同じ『ににんがし』であっても、イントネーションの違いにより同じものは一つとしてない」とかそういう基準の人たち。
芸術家や哲学者の語る「格言」をそのまま適用しても意味がない)
私も会社でこの手の講義を受けさせられるたびにボロクソに書いてるけど、一向に改められない。
非常に不思議です。
予備校に高い金を払って行ったところ、「既に知っている九九の暗唱のみ」「生徒同士で答えを検討してください。解説はしません」という講師だったら、「無駄」と判断するのが当然のはず。
「つまらない講習であっても向上心があれば得るものがある」というのも真ではありますが、金と時間を投入して何故そんな非効率なことをする必要があるのか。
「これこれの理由で無駄である」という結論を「得た」あとは、この手の講習はばっさりと止めるのが「講習の有効活用」だと思う。
【蛇足】
「格言」が全く役に立たないとまでは思わない。
ただ個人の境遇によって当たり外れが大きいので、心に響かなかった格言はどう解説されても肚に落ちない。
講師の自己陶酔しながらのご高説垂れられても身にならない。
何と言っても高い金と貴重な時間を割いてるんです。
格言集をポンと渡されて「心に響いたものを座右の銘にしましょう」程度に勝てない講習に、用はないんです。
いつの間にやらビートさんにも対応。
個人的にはメロディさん派ですけれど。最近、ビートさんに気持ちが傾きかけ…。
(それもこれも、ラブギターロッドCMのせいだ)
で、登録すると自動的にホームページがgooさんになる。
解除も出来るけど、せっかくだからそのままにしてるので、ネットにつなぐたびにgooさんを見ることになります。
こうして情報源をプリキュアさんに支配されるのです。怖い怖い。
そんな中、目についた記事。
■「知っている」が学ぶ心を妨げる
[引用]
企業で研修を行うと、たいてい主催の人事部(人材育成担当)は受講者(社員)に事後アンケートを取ります。そのアンケート結果は、研修プログラムの開発者であり講師である私にとっては、いわば成績表のようなもので、良い評価であれば励みにし、意見やクレーム・批評のようなものがあれば改善要求書ととらえて参考にします。いずれも見るのは楽しみです。しかし、そんな中で残念な感想というのがあります。それは例えば―――
「わかりきった内容のことが多かった」
「どこかで聞いたような話だった」
「1日拘束されてやるほどの情報量がなかった」
「理論的に目新しいものではない」
「実際の業務には使えない」……といった類のものです。
[引用終]
まぁ私見を言うなら、記事で書かれていることは的外れもいいところだと思う。
知ってることを何度も繰り返されても時間の無駄だ。
大学受験のために塾にいったら、延々と九九の暗唱をさせられる状況を想像してみるといいです。
「知っていることが学びの妨げになる」も糞もない。
時間と金の無駄以外の何物でもないでしょう。
うちの会社でもこの手の講習は何故か多い。
よくあるのがこんな感じの構成。
・講師が薄っぺらい説明をする(概ね「読めば5分で分かる」程度のことを1時間かけてだらだら語る)
・受講者でグループを作って話しあう
・話しあった結果を発表する
・薄っぺらい講評がある(「色々な考えがありますね」「決まった正解はありませんので答えの解説はしません」程度の内容)
あからさまに時間の無駄です。
読めばわかる程度の情報を得るのに、講師料を払う意味は無い。
グループで「ディスカッション」とやらをしても、結局は同レベルの受講者が集まってるのだから得られるものはなし。
それどころか学習の意味では害悪だとすら思います。
間違った意見を述べる人が居ても、それを論破する時間がないし、昨日今日会ったよその人相手にそこまでする義理もないので、訂正されないまま共有されてしまう。
(例えば「職場でコミュニケーションを推進するにはどうすればいいか」→「積極的に飲み会に誘う。飲めない人も続ける内に慣れるから無理にでも連れて行く」とか。こういう人は、普通にいる)
しかも大抵の場合、設問がどうとでも解釈がブレるものが多く、日本語の定義を詰めてるだけで終わりがちです。
書いていない前提を使ってる来る人も珍しくないので(「設問ではこう書いてあるが、私の信念に反するのでこういう設問だと解釈しました」とか。これも普通にいる)、スタートラインにすら立てないケースが多い。
そして恐らく、そうやって結論が出ないことを、講師としては想定している。
彼らとしては「議論が盛り上がった」とでも結論付けたいのでしょうが、中身はスカスカです。
表面的に綺麗な「効能」はよく言われます。
「他の人と話し合うことで刺激になった」とかそういうの。
上記のように、まぁ無意味です。
形式によりますが、講習に参加すれば、講師費用で数十万・受講者の日当数日分の費用で同じく十万単位かかります。
だったら同じ費用で、旅行のパッケージツアーにでも申し込んだ方が効果的なんじゃないでしょうか。
普段会わない他の人と出会う機会が生まれますよ。
あるいは講師がいてもいなくても変わらないのだから(主目的は他の人との交流なのですから)、社内で他の部署の人とグループディスカッションでもすればいい。
講師に支払っていた費用を、参加した受講者にプレゼントすればモチベーションもアップ。有意義な講習になるでしょう。
最低でもこれらの単純な案に勝てる程度の学習効果がなければ、無駄として切って捨てるべき。
記事を見る限り、ご大層な格言をお題目として唱えるのが好きな方のようで…。
だったらその格言をプリントアウトして配布して終了で良いですね。講義は無駄。
その格言を現実に適用するにはどうすればいいか、が大事なのに。。
結局のところ、一生懸命に九九を暗唱させられても無意味なんですよ。
肝心なのは、その九九が、どう役に立つのか。
現実に直結した応用でも、高度な数学の理論への発展でもいいですが、そこから先が大事なのであって、暗唱させられ続けても仕方がない。
…というかそもそも「格言」こそが、「何となく言葉にしたら納得してしまって思考を止めてしまう」典型例のような気がするのですけれど。
記事中にある「菫の花かと思った瞬間に考えるのを止める」というのも、奇妙な内容に思えます。
人間は、単語として定義されていないものは認識できない特徴がある。
よく言われるのが色で、様々な詳細な色の表現を知っている人とそうでない人では認識に大きな差が出ます。
例えば「アイアンブルー」「あいいろ」「あいいけねずみ」「あいさびいろ」といった単語を知らなければ、全部「青っぽい色」でしかない。
犬種を知らなければ全部「犬」だし、「菫」を知らなければ全部「草」ですよ。
その後に「考えるのを止めるかどうか」という点で言えば、「単なる草」と認識してる方が、よほど考えないでしょうに。
(元々この言葉を言われた方は芸術家のようですので、同じ菫であっても微妙に色合いが違うので同一存在ではない、とかそういう世界の人なんでしょう。
九九で言うなら「同じ『ににんがし』であっても、イントネーションの違いにより同じものは一つとしてない」とかそういう基準の人たち。
芸術家や哲学者の語る「格言」をそのまま適用しても意味がない)
私も会社でこの手の講義を受けさせられるたびにボロクソに書いてるけど、一向に改められない。
非常に不思議です。
予備校に高い金を払って行ったところ、「既に知っている九九の暗唱のみ」「生徒同士で答えを検討してください。解説はしません」という講師だったら、「無駄」と判断するのが当然のはず。
「つまらない講習であっても向上心があれば得るものがある」というのも真ではありますが、金と時間を投入して何故そんな非効率なことをする必要があるのか。
「これこれの理由で無駄である」という結論を「得た」あとは、この手の講習はばっさりと止めるのが「講習の有効活用」だと思う。
【蛇足】
「格言」が全く役に立たないとまでは思わない。
ただ個人の境遇によって当たり外れが大きいので、心に響かなかった格言はどう解説されても肚に落ちない。
講師の自己陶酔しながらのご高説垂れられても身にならない。
何と言っても高い金と貴重な時間を割いてるんです。
格言集をポンと渡されて「心に響いたものを座右の銘にしましょう」程度に勝てない講習に、用はないんです。