日本の近代化に翻訳は欠かせなかった。隣国中国が西洋諸国にアヘン戦争で負けて土地を割譲した、という事実に慌て、また日本も開国をせざるを得なくなり、負けないためには敵を知るのがベスト、という考えからあっという間に西欧諸国の知識を吸収し始めた。明治の初めの頃である。
それが現在の多くの土台となっている翻訳ものだ、というのがこの本の主張。
日本の精神的土台となっている儒教文化を中国から取り入れ、それこそ漢文は日本中に氾濫していて、読み下し文なる独特の方法まで編み出して読んでいたという下地が出来上がっていたから、西洋のものもほとんど抵抗なくたくさんのものを取り入れようとした。抵抗なく、というよりは貪欲に吸収した、と言う方が当たっているかもしれない。
面白いと思ったのは、中国から様々なものを取り入れた時は、仏教や儒教など宗教が一緒に取り込まれて、日本人の精神的な土台まで影響を受けたけれど、西洋から知識を取り入れた時はキリスト教はあまり入ってこなかった、と言う点。もちろん江戸時代にキリシタン禁止令がひかれていたからだと思うけれども、宗教と深くかかわっている文化を吸収するときにキリスト教を切り離して文化だけを取り込むのは至難の業だったかも。
ある意味、西洋文化に対する見方が皮相的と思えるのは、この宗教の理解がかけているからかもしれない。理解だけでなく、生活に深く関わっている精神的支柱を体感しなければよくわからないことも多いのではないか。
と言っても、私がキリスト教を信じているわけではない。
だけれども、精神的裏付けのない文化は弱く、人間が脆弱になるのではないだろうか。憲法で宗教と政治の完全分離が謳われて久しい。それは真実だと思う反面、アメリカの大統領が就任式で聖書の上に手を置いて、私は神に誓って大統領と言う職を誠心誠意全うします、というような意味のことを誓うのを見ると、アメリカの文化はキリスト教だと改めて気づき何だか軽いめまいを感じるほど、うらやましいと思ってしまうこともある。
話が随分それてしまったけれど、そういうことを考えさせられる本です。翻訳と一口に言ってもオリジナルの言語は、当たり前ですがさまざまな言語であり、日本は明治の初期にいいとこどりをしようとしたような印象を受けさえします。それにしても、それくらい言語に達者な人がたくさんでてきたというのも幸運でした。
また、中国は尊敬する国だったのに、アヘン戦争後全くその位置が変わり、中国は革命後数年前まで存在感が薄くなってしまっていましたね。新興国の一つになってしまい、日本は尊敬する国がなくなって困ってしまっていたのでしょうか。そこにアメリカが入り込んでいたのか?うーん、ちょっと違うような気がする。
去年、GDPで日本を抜き世界第二位になった中国は、新しい国としてまた日本から尊敬される国になるのでしょうか?私にとっては、中国はまだまだ謎の国ですが、アメリカと中国の間にあって日本はうまくかじ取りができるのかどうか、安全保障の面からも息子たち将来世代が安心して住める国になってほしいと思います。
今日はちょっと固い内容になってしまいました。
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