少し前、人間そっくりのサイボーグが将来できるのではないか、という話があったように記憶しています。(もしかしたら、もう出来てるのでしょうか?)
その時、私はひそかに高齢になって体の自由が利かなくなったら、妻○木君に似たイケメンサイボーグに世話してもらえたらなあ、なんて夢想してました。そのために、しっかり今仕事をしてお金を貯めなきゃ、なんて真剣に一時思ったものでした。
で、この本の筆者は、その考えは本当に夢想でしかない、と断言されています。 (-"-)
コンピューターがいかに発達しようと、大量のデータを一瞬にして処理できるようになっても、人間の代わりにはなれない、と。
そうでしょう、絶対そうだと思ってました!
心(クオリア)は、どんなに精巧に作ったコンピューターであっても作ることは不可能だと。
この難しい問いに、西洋の人間機械論で答えておられます。キリスト教を始め一神教を信じる西洋人は人間が持つさまざまな機能を機械に置き換えて解き明かす考え方を持っている(いた)。だから、機械の究極の姿はサイボーグになるのだ、と。
確かに、フライデーを始め、洋画には人間に似た機械がよく登場するような気がします。
それにしても、心はどこにあるのでしょうか?
少し前は心霊現象などが流行っていましたが、私は今では心は脳の高度な働きの一つだと思っています。頭脳だけの働きではなくて、体中全体の感覚機能が総合的に働いて、それが脳で集約されているのでは?なんて、考えています。だから、夜中に起きてお手洗いに行くのが怖くなくなりました。(笑)
集合知ですが、これはSNSなどを駆使して非常に多くの人の意見をネット上でやり取りして、そこからある一定の解答あるいは方向性を見出そうということらしいです。これから政府がしようとしているネット選挙などのことなのでしょうか。
そこで、筆者はコンピュータが解答を出すのではないということをよく考えなければならない、と。
あくまで主体は人間であって、コンピューターがある種の答えを導き出すと考えるのは大きな過ちの元!だと言われているようです。
暗黙知という人間独自の知性(知恵)はコンピュータには持てない。それは、職人技であったり、文化などに根付いている目で見ることができない知恵。人間は昔からこの知恵を働かせて発展してきた。コンピューターはそのような知恵は持てないのだ、と。
その根拠として、人間は本来一人の中で完結している「閉鎖システム系」であるのに対し、コンピュータは中身がどの機械であろうと転送できる「開放系システム」であるから。一人一人が見ている世界は全て違い、それを真の意味で共有することは不可能である。どのように言葉などをつくしても、その人の心の中を完全にわかることはできない。
コンピュータの一つの行きつく先がサイボーグなんでしょうかねえ。キリスト教の強い西洋では、人間を作ることは神様だけに許されることという、強い倫理観があるのでは?
人間に似たサイボーグが登場する映画はたくさんありますが、「ブレードランナー」という少し前の映画では、サイボーグ人間と普通の人間が混在していきる世界を描いています。お互いにサイボーグなのか人間なのか、わからないという世界。
サイボーグたちが密かに人間を全て駆逐して、自分たちだけの世界を作ろうとするのですが、最後に人間には勝てない、と悲しむ(企てが失敗する)となります。
何故かって?サイボーグたちには歴史がないから
この本は、集合知というこれからのコンピュータの行きつく方向性を示唆しながら、実は人間特有の暗黙知について、深く考える機会を与えてくれました。
西垣 通 | |
中央公論新社 |