中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

秋篠寺

2011-10-28 13:45:44 | 身辺雑記

 般若寺(コスモス寺)を出て、秋篠寺を訪れた。 

 

 秋篠寺は私にとっては想い出のある寺で、そもそもは父が学生時代にここを訪れたことがあったのか、古い写真の裏に詠んだ句が記されていて、それでこの寺に惹かれたのだが、私の学生時代は広島で過ごしたので、訪れる機会はなかった。結婚後しばらくして妻と一緒に訪れたのだが、もう50年ほども昔のことで、当時は鄙びた感じで訪れる人の姿はほとんどなかった。受付には木の板が掛けてあり、それを木槌で叩くと、係りの僧が出てくるのというのが気に入った。妻と静かな境内をゆっくり歩いたことや、この寺の本堂にあった、仏像の一つの技藝天像に非常に感動を覚えたことが思い出される。 

 

 境内は今回は昔に比べるとだいぶ整備されていたが、この寺門(東門)は質素である。 

 

  

 

 門から入る。緑が美しい。楓が多いので紅葉が見事だろう。

 

  

 

香水閣(こうずいかく) 霊水が湧いている。明治維新までは、この井戸で汲まれた水が宮中行事に使われたとのこと。日頃は門が閉じられている。毎年6月6日には公開されるとのこと。

 

 

 

金堂跡。厚く生えたコケ(蘚類)が美しい。 

 

 

 

 

 

 

 

この寺は宝亀7年(776年)に、光仁天皇の勅願により善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている。宗派はもとは法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあったが、現在は単立(独立した宗教法人)で、山号はない。 

 

 本堂(国宝)。創建時には講堂として建立されたが、保延元年(1135年)に兵火によって一山の伽藍がほとんど消失した中で残り、鎌倉時代に大修理を受けて以来、本堂と呼ばれている。本尊は薬師如来(重文)。

 

 

 

 

伝・技藝天像。像高205.6センチメートル。本堂仏壇の向かって左端に立つ。瞑想的な表情と優雅な身のこなしは見飽きない。頭部のみが奈良時代の脱活乾漆造で、体部は鎌倉時代の木造による補作。「技藝天」の彫像の古例は日本では本像以外にほとんどなく、本来の尊名であるかどうかは不明とされている。残念ながら堂内は写真撮影禁止なので、技藝天像の写真は、販売されているものをスキャンした。

 

 

 

技藝天は女人で、衆生の吉祥と芸能を主催し、諸技諸芸の祈願を納受したまうと言われていて、その出生については次のような伝えがある。

 

「あるとき天上で、大勢の天女たちに囲まれて音楽や踊りを楽しんでいた大自在天王(シバ神)の髪の生え際から忽然と一天女が生まれ出た。その容姿端麗なことはもとより、技芸に秀でていることは、並みいる天女たちの遠く及ぶところではなかった。居合わせた天人天女たちは一斉にその勝れた才能を称えて、この天女を技藝天と呼んだ」

 

鐘楼

 

 

 

 大元堂。大元帥明王を安置する。秘仏で6月6日のみ公開される。憤怒の形相をしている。軍事組織での「元帥」という肩書きの由来と言われている。 

 

 

 

   

 

 開山堂。開山(創立者)の像や位牌を祀る。秋篠寺の開山は奈良時代の法相宗の僧・善珠とされている。

 

 

 

 

 

 

 

 


昆虫雑記(4)クサカゲロウなど

2011-10-27 09:53:43 | 身辺雑記

 小学生か中学生だった頃のある晩、部屋の電灯の笠の縁に、小さい植物のようなものがあるのを見つけた。細い2センチくらいの糸の先端に小さい卵形の粒が付いているのが何本か固まって「生えて」いた。その時に既に知っていたのか、後で知ったのかは覚えていないが、それは「うどんげ」だった。 

    インタネットより 

 「うどんげ」は優曇華と書き、法華経に書かれた伝説の花で、3千年に一度如来が来るとともに開花するというものだが、私が見たものはもちろんそんな尊いものではなく、クサカゲロウという昆虫の卵だ。 

                                                                                                 インタネットより 

 クサカゲロウは夜行性で灯火に集まる。成虫が草色の体色をしているからとか、臭い匂いを出すからという説があり、 草蜉蝣とも臭蜉蝣とも書かれる。 私は残念ながら成虫は写真でしか知らないし、卵を見たのも1回きりだが、今でもその時のことを懐かしいような気持ちで思い出す。

  

 「かげろうの命」と言うと、人の命のはかないことの喩えだが、この「カゲロウ(蜉蝣)」はクサカゲロウではなく、水辺を飛びまわり、交尾・産卵を終えると数時間で死ぬと言う、まことにはかないもので、モンカゲロウなどいろいろな種類がいる。 

                           インタネットより  

   

もっとも幼虫は水生で、水中で23年過ごすから、他の昆虫に比べてとくに短命ということはない。この仲間は昆虫の中では、トンボの仲間とともに古い系統と言われていて、昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられているそうだ。渓流では、カゲロウの幼虫は魚類の餌として重要で、羽化した成虫も、水面で盛んに捕食されるから、渓流釣りの餌として、幼虫や成虫がよく利用されている。また、フライ・フィッシングの疑似餌や毛鉤のモデルとしてもよく利用される。私は釣をしないが、テレビがあった時に、釣り専門のチャンネルをとこどき視ていて、フライ・フィッシングは面白いと思ったし、とくに釣り人がカゲロウを模した擬似鉤をつくる巧みさに感嘆したものだ                              

  カゲロウという名がつくものには、ウスバカゲロウ(薄羽蜉蝣)がある。 

  Wikipediaより  

 この幼虫は「アリジゴク」として知られている。中学生の頃、ちかくの八幡神社の倉庫に行くと、その縁の下の乾いた砂地のあちこちに小さなすり鉢上の穴がある。   

  Wikipediaより 

 そこにアリを落としてやると、穴の底で何か黒っぽいものが動いて、アリに向けてパッパと砂をかける。アリは穴の斜面を登って逃げようとするが、ただでさえ滑りやすいのに砂をかけられるから、やがて底に落ちるとその黒いものに砂の中に引き込まれ、やがて元のように静かになる。アリの悲鳴が聞こえるようなこのいささか残酷な光景を、少し怖い思いをしながら眺めていたものだった。蟻地獄とはよく名付けたものだ。怖々と穴を掘り返すと、大きな角のような顎を持った奇怪な虫が出てくる。それを砂の上に置くと、尻のほうからすばやく潜っていき姿を消してしまう。それからどうやってすり鉢状の穴を作るのかは見届けたことはなかった。 

  Wikipediaより 

 次男はこのウスバカゲロウのことを「薄馬鹿下郎だ」と言って笑ったが、このたび亡くなった北杜夫さんが『どくとるマンボウ昆虫記』の中で言っているそうだから、その受け売りだったのかも知れない。

 

  

  

                                


おごり

2011-10-25 09:11:16 | 身辺雑記

 私が読んでいる新聞に「特派員メモ」というコラム欄があり、世界各地に派遣されている特派員が寄せる記事はなかなか面白い。最近「英語を強制 おごるなかれ」と題するニューヨークのK特派員のコラムが載っていた。

 

 国連本部前の公園であった、今年のノーベル平和賞の受賞者となったイエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32)の記者会見で、米国の大手放送局の記者達が「英語でしゃべって。じゃないと放送できない」と声を張り上げたという。「英語は得意ではありません」と当惑する彼女に、米国人記者は「片言でいい」と食い下がった。カルマンさんは悩んだ末に「正確に伝えたい」ということで母語のアラビア語で話し、通訳が一文ずつ英訳したので、米国人記者達から溜息が漏れたそうだ。どうしようもない人物だとでも思ったのか。

 

 会見後K特派員は米国人記者達に「失礼ではないか」と尋ねると、猛反発された。「英語は世界共通語だ」とか、「彼女が英語で話す映像は、世界中で放送される」と言うのだ。K特派員は「異論はないが、英語を強制する姿には『自分たちが世界標準』というおごりを感じる」と書いている。カルマンさんがアラビア語で話したのは、母国イエメンの人々を励ます意味もあったとK特派員は後で関係者に聞いたとのことだが「カルマンさんの思いに、米国人記者たちも気づいてほしかった」と記事は結ばれていた。

 

公の場で「片言でもいいから」と英語で話すことを強制するのは、記者達のおごり以外の何ものでもない。記者達の使命は、発言者の考えを正確に伝えることだろう。片言の不完全な英語で発言者の真意が理解されるのか。何語であれ、発言者の母語で話すのを正確に英語に通訳すれば十分ではないか。カルマンさんと米国人記者達の品性、知性の差は歴然としている。

 

 国連で使用されている公用語は6言語で、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語に、1973年にカルマンさんの母語のアラビア語が追加された。また公用語としての英語は、米国人記者達の多くが話しているだろうアメリカ英語ではなくイギリス英語だ。米国人記者達は、自分達が話すことば、アメリカ英語(英国人からするとスラングだ)が世界標準と思っているのかも知れない。洋の東西を問わず、マスコミの記者には、知性が低く、狭い視野とおごりが身についてしまっている者がいるらしい。

 

 

 


カメキチ

2011-10-22 21:39:52 | 身辺雑記

 昔の教え子で、千葉県の印旛郡のある町に住んでいるS君から電話があった。この正月に電話があってからのことだから9ヶ月ぶりだ。挨拶めいたことや、ちょっとした近況などを交わしてから、「それで何なの?」と尋ねると「いや、ご無沙汰してるからちょっと話したくなって」ということで、何となく嬉しくなり、その後いろいろ話した。

 

 S君は私が高校の教師になった時に最初に教えた学年の生徒で2年生だった。教師になりたてで大いに張り切っていたし、この学年の生徒達も親しく接してくれて、私にとっては想い出が多い。「70になりました」と言ったので「へえ、もうそうなるか」と、私より8歳年下の学年だから、もうそれくらいになるだろうと思っていたが、改めて言われるとずいぶん歳月がたったものだと感慨深かった。

 

教え始めてしばらくしてS君は私のいる生物準備室にやって来た。先任の教諭が「カメキチだ」と紹介してくれた。話を聞くとカメが大好きで、家の池に何匹も飼っているとのことだった。当時は今のように外来種のミドリガメなどはなく、クサガメや、今では少なくなったイシガメなどを飼っているようだった。S君は年生の時には生物クラブに入っていたそうだが、クラブの雰囲気に馴染まずやめてしまったと言った。

 

S君が私のところへ来た理由は、カメの遺伝の研究をしたいということだった。私はカメのことは知らないから、生まれて何年くらいたてば成熟するのか、個体によってどんな特徴があるのかなどいろいろ尋ねたが、成熟までにかなりの年月がかかるようだし、個体ごとの目に付くような特徴もないようだから、遺伝の実験には向かないなと答えた。彼はさほど気落ちした様子もなく納得したが、そのあとはカメについていろいろ話をした。どういう契機でカメに興味を持ったのかは忘れてしまったが、とにかくかなりのカメ好きであることはわかった。

 

私は「カメキチ」は「亀吉」という愛称かと思ったのだが、どうやら「本キチ」「山キチ」「車キチ」の類の「キチ」だったようだ。以来彼は準備室や生物クラブ員達がいる生物実験室にたびたび出入りするようになり、私も折々「カメキチ」と呼んで親しくなったが、生物クラブに入ることなく、やがて卒業して行った。卒業後は折に触れて連絡もあり、消息はよく分かっていたし、結婚前には婚約者を連れて我が家を訪れてきたこともある。大学を卒業してからは、自営で男物のスーツの輸入生地を販売していて、上等のカシミヤのセーターやマフラーを贈ってくれたこともあったが、もう引退した。

 

それでも年月がたつにつれて会うこともなく、時折電話の遣り取りをするくらいだった。彼は年賀状は出さない主義なので、私にも寄越さないが、元旦かその2、3日後くらいには電話をくれるから、疎遠になることはなかった。5、6年前にその学年の学年同窓会があったときにわざわざ出てきた。同窓会の前日には彼と仲が良く、私も結婚式に出たことがあるK君と3人で食事した。高校生の頃には色白だったのが日焼けして逞しくなっていた。その後にあった昨年の同窓会にも出てきて、やはりK君と食事した。相変わらずカメを飼っているようだし、アルバイトで公共の仕事の草刈りもやっている、テニスもしているとのことで感心した。

 

 電話では、今はカメの他に50センチくらいのウナギも3匹飼っているとのことで、相変わらずのカメキチだ。草刈りもテニスも続け、毎日5千歩のウォーキングもしていると言う。元気なことだ。体力が落ちてきて、毎日外出には杖を頼りにしている私とは大違いだが、卒業生がいつまでも元気でいるのは嬉しいことだし、卒業して50年以上もたつのに、ふと思い出して電話してくれることは教師冥利に尽きるものだ。

 

   

 

                  イシガメ(インタネットより)

 


あの子達

2011-10-22 13:29:22 | 身辺雑記

かつて担任したサナエから電話があった。同じクラスだったマリコが福岡に引っ越すので、その前に食事しようということだった。こういう話はもちろん大歓迎なのですぐに承知した。当日は大阪の梅田で待ち合わせることにしたが、約束の場所に行くと他にユウコととアケミの2人も来ていた。昼食はサナエの娘が関係しているホテルのバイキングでとることになった。

 

彼女達は45年前の高校1年の時に担任をした。学年に1クラスだけある商業科というクラスだった。商業科は戦後の新制度が発足して以来設置されていたが、普通科志望が強くなったこともあって、希望者が少なくなり、中学での進学指導の際に、希望していないのに無理に送り込むという傾向が強くなったので、その頃廃止という方針が出されていた。

 

それまでの商業科には時折問題のある生徒がいたし、教科内容も普通科と違っていたから、担任を希望する者は必ずしも多くなかったが、私はこの学校に勤めて以来10年以上たっていたのに商業科の担任をしたことがなかったし、その商業科が無くなるだろうということなので、担任を希望し、少々曲折があったが、叶えられた。

 

担任をしてみると、これがまたとても明るく性格のいい生徒達の集まりで、クラスの雰囲気は良く、他の教師から今年の商業科はいいと褒められることが多く、希望した甲斐があったと満足したものだ。もちろん問題行動のある生徒もいたが、クラスの雰囲気を乱すようなこともなかった。商業科というのはもともと女生徒のほうが多く、私のクラスも男子は10数名だったが、この男子生徒達が皆性格が良く、女生徒達ともけじめをつけて調和していた。

 

学年が始まった最初ホームルームの時間に、どこのクラスで模する自己紹介をさせたが、女生徒で「私はタイガースが好きです」と言うのが多く、土地柄でプロ野球の阪神タイガースのファンが多いのだろうと思い、ある子が「私はタイガースのトッポが好きです」と言った時には、阪神タイガースのトップバッターは誰だったかなと考えたものだ。後ですぐに分かったのだが、女生徒達が言ったタイガースとは、当時大流行していたグループサウンズの一つで群を抜いた人気があり、デビューから解散までの4年間、ビジネスとして成り立った唯一のグループサウンズとのことだ。そのメンバーの1人に、愛称「トッポ」がいたわけだ。メンバーの中の沢田研二や岸部一徳などは今も活躍している。どうりで女生徒達が騒いでいたはずだ。生徒の中にはメンバーの1人の愛称を取って「サリー」と呼ばれている子もいた。今思えばそんなこともよく知らず、的外れなことを考えた、およそ生徒達とセンスの合わないような担任だったが、生徒達は親しく接してくれた。

 

担任したのは1年生の時だけだったが、卒業後もずっと担任として接してくれ、クラス会の時には呼んでくれた。今も年賀状を交換している者は多い。教育委員会の事務局にいた時、ある年の末に買っていた年賀状が、ちょうどこのクラスの途中で切れてしまい、忙しいこともあってあとは出さなかったことがあったのだが、出さなかった生徒が、年賀状が来ないのは病気でもしているのかと心配して、それを受けた生徒から電話で問い合わせがあった。それからは何を置いても、このクラスの生徒達には出し忘れないようにしている。

バイキングの昼食では、4人ともよく世話をしてくれ3時間ほど楽しく過ごした。賑やかに談笑しているうちに、彼女達は来年60歳になると言うので、改めて驚いた。もう、いわゆるアラカンになっているのだが、とてもそうは見えない若い雰囲気で、45年前のあの子達がこんなになったかと思うと感慨ひとしおのものがあった。皆が還暦を迎える時のクラス会は私が祝ってやろうと約束しているので来年はその年になる。あの頃、タイガース大好き、多分一生好きなどと言っていたあの子達がもう60歳になる。今さら「あの子達」などと言うのもおかしいようなのだが、私にとってはやはり「あの子達」なのだ。その気持ちは45年前からずっと続いている。幸せなことだと思う。

 

 

 


少女、女の子

2011-10-21 09:46:43 | 身辺雑記

 いつものJRの駅構内のエキナカスーパーの喫茶室に行き、本を読んだ。私の左隣の席には2年生くらいの男女の高校生がいた。床にバッグを投げ出していたから学校帰りらしい。もう午後7時を過ぎている頃だった。   

 

 高校生のカップルなど最近珍しくもないし、その2人は小声で話していたので、とくに気にすることもなく本を読んでいたが、しばらくすると私の隣の女の子の方が何やらがさがさする。ちょっと煩わしかったので顔を上げると、その女の子はテーブル越しに手を伸ばして、前にいる男の子の髪の毛をしきりに撫でている。顔を見るとその子は少し顔を傾げて、男の子をじっと見つめながら髪の毛を触りまわしている。男子は別にうるさそうな様子もなく黙って触られるままにしている。いつまでもがさがさしているので、いささか落ちつかなくなり、読書を止めて店を出たが、出掛けに2人の顔を見てもまったく気にしないで、自分たちの世界に没頭している様子だった。 

 

 家に帰って、ふと島崎藤村の『初恋』を思い出した。改めて調べてみると、この詩は明治28年(1895)に刊行された『若菜集』所収のもので、私が好きな詩で四連からなり、その最初は、 

 

   まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

 で始まる。そしてその第三連は

  わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情けに酌みしかな

 

 と言うもので、今ならなんでもないようなものだが、その当時は「わがこころなきためいきの/その髪の毛にかかるとき」はあまりにも官能的で初恋の初々しさにそぐわないと言う批判があったようで、藤村自身もそう思ったらしく、後に定本版の「藤村文庫」の中では削除されていると言う。私が見た高校生たちの仕草などは、当時ならとんでもないふしだらな行為とされるだろう。

 

   まだあげ初めし前髪の」とあるが、前髪を上げるのは江戸時代なら12、3歳くらいだが、この詩に詠われているのは結婚適齢期前の15、6歳の「少女」だったのではないか。ちょうど私が見た女子高校生くらいの年齢ではないかと想像する。しかし私が見た子はこの詩から想像されるような初々しい恥じらいのあるものではなく、「少女」と言うにはそぐわないように思う。まあ「女の子」と言うくらいのところではないか。今は掃いて捨てるほどいる。 

いったい「少女」と言うのは何歳くらいの女の子を指すのだろう。私が大学生の頃は「少女」と言うと高校生くらいをイメージしたもので、それには「清純」、「清潔」、「清楚」などのイメージを重ねていたように思う。だから小学生などは「幼女」と言うくらいの感覚だった。それが今では「少女」と言うと、小学校の上級生から中学生あたりを想像する。  

 と言って「女の子」の範囲も広がっていて、20代半ばくらいまでを含むようになっているようで、256にもなって「女の子」でもあるまいと思うのだが、そんなものらしい。下の方がませて、上の方が幼稚になっているのだろうか。 

 

 どうも老人臭い感想になってしまうのだが、私は高校生くらいの女の子は、藤村の詩にあるようなものであってほしいし、私が大学生の頃に心に描いていたイメージのような存在であってほしいと思う。時代遅れか。 

 http://www.youtube.com/watch?v=Xg2q_CcGIIw

 

 

 


般若寺

2011-10-18 21:15:14 | 身辺雑記

 Hg君達いつもの顔ぶれで、奈良にある般若寺、通称「コスモス寺」に行った。

  

般若寺は東大寺の北側に位置している真言律宗の寺院で、飛鳥時代に創建された。平安末期に平重衡による南都焼き討ちに遭い荒廃したが、鎌倉時代に再興された。当時は9つの門で囲まれ、七重塔もある大寺院だったが、その後は戦乱などのため栄枯衰退を繰り返した。明治になると廃仏毀釈によって仏教の寺院の破壊が進み、般若寺も荒廃した。昭和の戦後になってようやく復元修理が行なわれて現在の姿となった。

 

境内に入るとコスモスが咲き乱れてなかなか風情はあるが、寺全体としてはかつての威容を偲ばせるものではない。コスモスはメキシコ原産で、日本には明治20年ごろに渡来したようだから、もちろん創建当時や鎌倉時代、江戸時代にはコスモス寺というようなものではなかったが、いつ頃誰が発案したのかは調べていたが分からなかった。少なくともそれほど遠いことではないだろう。今は「関西花の寺二十五ヶ所」の一つになっている。境内のコスモスは10種類、約10万本と言われる。

 

  

 

楼門(二階建てで上部に屋根をもつ門)。鎌倉時代に再建されたもので、国宝。楼門遺構では日本最古のものとされている。

 

  

 

 

 

  

 

 十三重石寶塔。鎌倉時代。日本最大の石塔。重要文化財。後方の建物は  一切経蔵。鎌倉時代。重要文化財。

 

   

 

 

 

 本堂。江戸時代。奈良県文化財。

 

 

 

  堂の前にあるのは鎌倉時代の石灯籠。般若寺型、文殊型と言われる名灯篭とのこと。 

 

 

 鐘楼

 

 

   

 西国三十三ヶ所観音石仏。元禄時代のもの。どれも柔和な表情で、中には愛らしいものもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


漢方薬

2011-10-18 10:40:50 | 身辺雑記

 漢方、漢方薬と言うと、何とはなしに中国の医学、薬という気がしていていたが、これは私の認識不足で、漢方(漢方医学)とは「古代~近世まで、大陸から断が続的に伝来する経験医学を独自に体系化した、日本固有の医学である。特に江戸期には黄金時代を迎え、この時代の成果の多くが中国に逆輸出され、近年、現代中医学が形成される上で大きな影響を与えた」とある(Wikipedia)。

  

中医学とは西洋医学(西医)に対する中国の医学という意味で、中国での呼び方である。日本語の漢方薬に相当することばは、中薬と言い、漢方薬店に相当するのは中薬店と言う。私はそれを知らなかったので、中国ではよくガイドに「漢方薬店に行きたい」と言ったが、分かってくれていた。西安の李真は、昔の人は漢方と言ったでしょうと言っていたが、これは中医学が確立する以前の日本の漢方医学の影響があった頃のことだろう。要するに漢方は日本で発達した医学で、西洋医学(蘭学)が入ってくるまでは、これが普通だった。

  

私は漢方薬に傾倒しているほどではないが興味、関心があって、いくつは毎日か時々服用している。毎日服用しているのは「六味地黄丸」と言うものだ。もうだいぶ前から飲んでいるが、体の弱った機能を補い元気をつけ、ことに、足腰や泌尿器など下半身の衰えに最適で、一般的に体力の低下した中高年に用いることが多いと言う。前立腺肥大症や糖尿病にも適応するそうだ。 効いているかと尋ねられると返答に困るのだが、まあそれなりに体力は維持できていると言うところだろうか。今飲んでいるのは、昨年西安で買ったもので、日本では漢方薬はちょっと高いが、中国ではとても安い。六味地黄丸の成分は、地黄(ジオウ) 、山茱萸(サンシュユ) 、山薬(サンヤク) 茯苓(ブクリョウ) 、沢瀉(タクシャ) 、牡丹皮(ボタンピ) 6種で、このような自然の草木からとったものを「生薬(しょうやく)」と言う。

 

   

風邪かなと思ったときに飲むのは「葛根湯」で、これは私にはとても効くと思っている。そのせいか、もう何年間も風邪を引いたことはほとんどない。肩凝りにも効く。葛根は葛の根を干した生薬で発汗作用・鎮痛作用があるとされ、日本薬局方に収録されている。江戸時代には免許がなくても医師になることができ、中にはずいぶん怪しげな者もいて、どんな病気にも葛根湯を煎じて与えるので「葛根湯医者」と揶揄された。李真は、息子が風邪を引いたときには「板藍根」という薬を飲ませるそうだが、よく効くと言った。

 

  

  葛 

  板藍根

食べ過ぎて胸焼けしたり、胃もたれした時には、「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」を飲む。陀羅尼助(だらにすけ)とは日本古来の民間薬で、いわゆる漢方薬ではない。黄檗(黄柏オウバク)を主成分にしたもので、製法はオウバクの皮を数日間煮詰めて延べ板状にする。非常に苦いもので 僧侶が仏教で唱えられる呪文である陀羅尼を唱えるときに、これを口に含み眠気を防いだことから陀羅尼助と呼ばれたが、和薬の元祖とも言わrれ、1300年前(7世紀末)に疫病が大流行した際に作られたと伝承されている。修験山伏の持薬でもあったそうだ。前にHg君の家で奥さんが、小分けした陀羅尼助丸を分けてくれようとした時に、Hg君が「そんなもん、効かへん、効かへん」と一笑したが、私にはとても効果がある。寝る前に胃もたれしていても飲むと一晩で治る。Hg君には効き目がなかったのか、民間薬を信用していないのかも知れない。

 

   

   奈良県吉野で

日本には漢方専門医も漢方薬専門店もあまり見かけないが、精製した漢方薬の錠剤や散薬はどこの薬局にも売っている。中国にはどこにも大きな中薬店があるが、私は店内に漂う薬草(生薬)の香りがとても好きだ。だいぶ前に西安に行った時にひどく肩が凝り、気分が悪くなったので、西安中医院に行ったことがあるが、担当の医師はと手も親切に治療してくれたし、治療費は驚くほど安かった。

  中国の作家の魯迅は当時の古い中国医学を嫌悪していたが、その頃の中国医学は呪術的な怪しげなものでもあり、魯迅の父親はそのために亡くなったようだから、なおさら憎んでいたのだろう。今でも漢方、漢方薬と言うと、本当に効果があるのかと思う向きもあるようだが、長い歳月をかけて研究され、経験的に応用されてきたものだから、徒に軽んじることはない。西洋医学と漢方を併用して治療に当たっている医師や病院も少なくないようだ。漢方薬は西洋医学の薬のように即効性は少ないが、長期的に緩やかに症状を改善すると言われている。   

 

  

 


ネズミ

2011-10-16 13:30:21 | 身辺雑記

 長い間ネズミを目にしたことがない。以前はどぶなどで走っているのを見かけたことがあるが、少なくとも現在の家に来て約30年、家の中はもちろん、近辺でも見た記憶がない。

 

 昔は人家があればネズミは跳梁していた。私が幼い頃には、天井を駆け回るネズミの足音をしょっちゅう聞いたものだったし、柱などに齧った跡があったものだ。正月などは搗いた餅を部屋に置いておくと、いつの間にか齧られていて、母はその餅を食べる時には噛み跡を包丁で削っていた。食料の乏しい時代だったから。気持ちが悪いと捨てることはなかった。ネズミは家にいるのがあたり前の嫌われ者だった。

 

 ネズミは大まかに分けるとイエネズミとノネズミがある。普通人家やその近辺にいるのはイエネズミで、クマネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミの3種がいる。家の中を走り回っているのはクマネズミで、ドブネズミは下水などにいるが、下水管などを伝って家の中にも入ってくる。これらは体が大きく、英語でラットと言う。

 

 

                            クマネズミ

 

 

                            ドブネズミ

 

ハツカネズミはマウスと言うが、家の中にもいる小さいネズミだ。長男がまだ2歳くらいの時に、勝手に続く小部屋に座っていて、急に「チュウチュウがいたあ」と言って泣き出した。どうやらハツカネズミを見たらしい。ネズミはすばしこいものだが、ハツカネズミは特に敏捷で、あるとき生物準備室に入り込んだのを生物部員達が捕まえようと大わらわになって追い掛け回したが、まるで飛ぶように逃げ回ったので部員達は「スーパーマウス」と名付けた。捕まえたのかどうかは覚えていない。部員達は実験用にマウスを飼っていたが、これはアルビノという白いハツカネズミだ。部員達はマウスと言うと白いものだと思っていたようで、「スーパーマウス」のような野生のものは初めて見たようだった。

 

                          ハツカネズミ

 

 猫はネズミを獲るものとされているが、少なくとも今頃の飼い猫はネズミを獲ることはほとんどないのではないか。生物部員だったN君の、これも生物部員だった奥さんが、あるとき飼っている猫を叱ったら、翌日起きてみると枕元にネズミが置いてあったそうだ。どうやら叱られたお詫びらしいと笑っていた。我が家のミーシャは、セミやバッタを獲ったことはある。小さいスズメを獲ってきたこともあったが、まだばたばたしていたので逃がしてやった。おそらくミーシャはネズミを見たら怖気ついてしまうのではないか。「ネズミなどとることもなく猫は逝き」という川柳を見たことがあるが、ミーシャもその口だろう。

 

 ネズミを捕食するものにイタチやヘビなどがいる。幼い頃、天井裏で何か重いものを引きずるような音が聞こえた。しばらくするとチッチという、か細い声が聞こえたが、どうやらヘビが這っていってネズミを捕まえたらしい。家の中に入ってくるのはアオダイショウだ。

 

 

 

 ネズミを獲ってくれるのはいいが、アオダイショウはそれほど多くないから、どうしてもそれぞれの家でネズミ退治をしなければならない。ネズミを捕食すると言えば、前に雲南省の元陽の有名な棚田を見に行った時、農家の側に立っていたら、放し飼いにされた巨大な黒ブタが、これまた大きなネズミを捕まえて食べようとしていたのにはびっくりしたことがある。

 

私の父はネズミが入ってきそうなところを探して、板を打ち付けて塞いでいたが、そんなことをしてもネズミは齧って穴をあけて入ってくる。それでネズミ捕りの罠を仕掛ける。バネ式のものはネズミが仕掛けた餌をとろうとするとバネが跳ね返って押さえてしまうのだが、バネは強力でネズミは即死してしまう。血を吐いたりして後始末をするのが気味が悪い。それで金網で作った籠に餌を仕掛け、ネズミが入って食べようとすると蓋が落ちるようになっているのを勝手の土間などに置いておく。朝起きてみるとネズミがかかっているから、これを防火用水などに沈めて殺し、死んだら土に埋める。こうやってずいぶん獲ったものだが、何せネズミは繁殖力が強く鼠算式に増えるから、結局は人間の負けになる。

 

 

 よく見るとネズミは可愛い顔をしている。それで童画や漫画に描かれたりもするのだが、どうも私には不潔なように思われて嫌いだ。子どもの頃、どぶの水に濡れたドブネズミを見たせいかも知れない。大学時代に外部の先生を招いてネズミの解剖実習があったが、ネズミネに触るのが嫌だったし、必修ではなかったので欠席した。

 

 ネズミの話をすると切りがないから、このあたりでやめておこう。

 

  *写真はいずれもインタネットから。


学歴

2011-10-15 10:08:42 | 身辺雑記

 ある小学校で新任の担任教師に、1人の母親が担任の出身大学はどこかと尋ねた。担任が答えると、それでは私の方が学歴が上ですねと母親は言ったそうだ。これはHr君から聞いた話だが、大阪市で小学校の教師をしていた彼の妹から聞いたようだ。大阪にはモンスターペアレントが多いらしいが、この母親は底抜けのバカではないか。同じような話を私も育委員会の学校教育担当の課にいたときに聞いたことがある。ある小学校で、ある母親が先生たちより私のほうが学歴が上だと言ったというのだ。

 

学校の教師は4年制大学卒が大部分だ。母親も大学卒なのだろう。それなのに私の方が学歴が上だと言うのは、先生より私の方が「良い」大学を出ていると言いたかったのだろう。実際私が教育委員会にいたときに聞いた話の母親は、このあたりではちょっと知られているある私立女子大学の出身だったようで、それがどうしたと言うんだと思い、軽蔑したものだ。このような母親達は「学歴」だけで教師より優位に立っていると思い込み、もし子どもが問題を起こしても教師の言うことは素直に聞かないだろう。何よりもそのようなつまらぬことで先生よりお母さんの方がいい学校を出ているのよなどと家庭で話題にしたら、子どもの心は歪むだろう。

 

「学歴」とは個人にとってそれほどたいした勲章なのだろうか。中卒、高卒であろうと、いわゆる世間で言う2流、3流大学卒業であろうと、それがどうだと言うのか。学歴はひけらかすものではあるまい。どこを卒業していようと、その後のその人の生き方、人生への向かい方で評価されるのではないか。そのようなあたり前のことも分からず、先生より私の方が学歴が上だと思い、口にする卑小さは度し難い。こういうのを「頭が悪い」と言うのだろう。教育は受けてもどれに見合う教養も知性も得ることはなかったのだ。

 

学歴と言えば、いやな思いをさせられたことがある。ある50年輩の女性と話をしたとき、その女性が高校の教師をしていたことがあると聞いていたので、「○○さんは高校にお勤めだったのですね。」と尋ねると彼女は、「私、京大なんです」と言った。私も高校の教師だったので共通の話題でもあるかと思って尋ねたのだが、それを聞いて鼻白んでしまって、国語か社会の教師であったようだが、後は話を続ける気がしなくなった。彼女にとっては、高校教師であっても京大卒なんだということが誇り、と言うよりも自慢だったのだろう。話していても何か高いところから物を言っているような、自分の賢さをひけらかすようなところがあって、ちょっと馴染めない人柄だったが、どんな教師だったのだろう、勉強があまりできない生徒にはどのように対していたのだろうなどと思ったものだ。