25日(日)、「房総のむら・風土記の丘資料館」で 《第2回考古学講座》 がありました。日本大学芸術学部客員教授・深大寺顧問の「金子啓明」氏による講演。 ≪関東の白鳳仏、「龍角寺」の「薬師如来像」と「深大寺」の「釈迦如来像」を中心とした話≫ でした。白鳳仏は伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、眉から鼻に伸びる線やふっくらとした若々しい顔などを特徴としています。奈良県・「山田寺」の「薬師如来像」とも共通点が見られました。それぞれ畿内(飛鳥地方・藤原京・斑鳩など)の工房で鋳造されたものと考えられています。
◎ 千葉県栄町の「龍角寺」は709年に創建されました。「銅造薬師如来坐像」の頭部は飛鳥時代後期(白鳳期)の作となります。元禄5年の火災の後、頭部だけが残って体部は再鋳されました。
◎ 調布市の「深大寺」は733年に創建されました。「銅造釈迦如来倚像」は飛鳥時代後期(白鳳期)の作となります。火災により金メッキは剥がれてしまいましたが、全身が残っています。「倚像」(いぞう)とは台座に腰掛けている姿の仏像の事をいいます。
◎ 奈良県の「山田寺」は641年から造営開始されました。「銅造薬師如来像」は「興福寺」の僧兵に強奪されてしまいました。その後、「興福寺」・「東金堂」の火災により頭部だけが残り、「興福寺」に所蔵されていました。
「龍角寺岩屋古墳」は典型的な畿内型の終末期古墳であり、畿内中枢との密接な関係があったとみられています。この古墳を築いた印旛地方の豪族が畿内の有力者と結びついて仏教をいち早く取り入れ、一族の寺(氏寺)として「龍角寺」を建てたものと思われています。「龍角寺」は建物は焼失して残っていませんが、「三重塔」の心礎(塔の中心を通る柱の基礎)が残っています。「伽藍配置」は金堂と塔の位置が「法隆寺」と反対になっています。奈良県の「法起寺」と同じです(法起寺式)。
龍角寺の銅造薬師如来坐像(体部は火災後の再鋳) / 深大寺の銅造釈迦如来倚像
龍角寺の仏頭 / 山田寺の仏頭(興福寺・所蔵) / 龍角寺の伽藍配置(法起寺式)
◎ 千葉県栄町の「龍角寺」は709年に創建されました。「銅造薬師如来坐像」の頭部は飛鳥時代後期(白鳳期)の作となります。元禄5年の火災の後、頭部だけが残って体部は再鋳されました。
◎ 調布市の「深大寺」は733年に創建されました。「銅造釈迦如来倚像」は飛鳥時代後期(白鳳期)の作となります。火災により金メッキは剥がれてしまいましたが、全身が残っています。「倚像」(いぞう)とは台座に腰掛けている姿の仏像の事をいいます。
◎ 奈良県の「山田寺」は641年から造営開始されました。「銅造薬師如来像」は「興福寺」の僧兵に強奪されてしまいました。その後、「興福寺」・「東金堂」の火災により頭部だけが残り、「興福寺」に所蔵されていました。
「龍角寺岩屋古墳」は典型的な畿内型の終末期古墳であり、畿内中枢との密接な関係があったとみられています。この古墳を築いた印旛地方の豪族が畿内の有力者と結びついて仏教をいち早く取り入れ、一族の寺(氏寺)として「龍角寺」を建てたものと思われています。「龍角寺」は建物は焼失して残っていませんが、「三重塔」の心礎(塔の中心を通る柱の基礎)が残っています。「伽藍配置」は金堂と塔の位置が「法隆寺」と反対になっています。奈良県の「法起寺」と同じです(法起寺式)。
龍角寺の銅造薬師如来坐像(体部は火災後の再鋳) / 深大寺の銅造釈迦如来倚像
龍角寺の仏頭 / 山田寺の仏頭(興福寺・所蔵) / 龍角寺の伽藍配置(法起寺式)
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