企画展を見終えたので、階下の対談会場へ。
お袋がいるので、エレベーター。
エレベーターへむかう際、熊倉先生とすれちがった。
あ~、お年を召されたなぁ。(そりゃそうだ、この前お目にかかったのは
2016年7月だ)
お話を聞くのは今回で4回目。
佐藤洋一郎さんは存じ上げていなかったのだが、農業系の学者さんだった。
そうそう、いきなり余談だが、佐藤先生がオンラインになったのが御令室がコロナに罹患し、濃厚接触者になったからだった。
御本人は極めてお元気だったが。
ようやく本題(^^ゞ
まずはお米の話から。
日本の水田は3000年ぐらい前からあるとのこと。
そりゃ、知らなかったなぁ。
陸稲(先生は焼き畑と言っていたが)は4000年ぐらい前からあるのではないかと、意見を開陳してくれた。
焼き畑は水田と違って、痕跡が残らないらしい。
水田というのは、高度な土木技術の結晶との説明もあった。
数年前まで実家の前は水田だったが、当たり前にある物だったので、そんなこと考えたことなかったと恥じ入るばかり(..;)
適度に水が流れる緩勾配があり、それでいて一枚の田んぼでどの位置でもほぼ同じ水位になっている。
確かに言われれば、目から鱗が落ちる。
熊倉先生が登呂遺跡はどうだと振ってみたら、佐藤先生曰く、登呂遺跡は発見当時は大きかったけど、県内でもっと大きなのがたくさん見つかっちゃったので霞んでしまったと。
熊倉先生、中学の遠足で来たことがあって、思い入れがあったらしいんだけど、撃沈。
マジですか、熊倉先生もビックリして「大きさは?」と問う。
そうしたら、1枚が四畳半ぐらいなんだって。
ほう、それでも四畳半が1万枚、と言うことは75反、そりゃすごいなぁ。
でもね、同時に全て田んぼを耕作していていたわけでなく、休耕田がかなりあったそうだ。(講談師ばりだよ、笑)
その理由はまだ分からないとのこと。
米はどこから来たかとの問いには、半島ルートだけではなく、大陸から直ルート、柳田国男提唱の海上ルートと複数あったのではないかと。
こう言うことを言うと、考古学者から猛反発を食らうと笑っていた。
しかし、現在パラダイムシフトしているようで、単一ではなく複数並列が主流になってきていると熊倉先生もフォローしていた。
お二人とも、アカデミズムの中にいながら、パラダイムの外にはみ出すのをいとわない。(だから話が面白い)
大唐米(だいとうまい)の話も面白かったなぁ。
そもそも大唐米というのは知らなかったんだけど、インディカ米の早生品種らしい。
それは年貢の対象にならなかったそうで、それを畦に植えて食べていたそうだ。
それと大唐米の稲わらがスサとして上等と記録があるとのこと。
スサとは壁土(荒壁)に入れる補強材。
へえ~、そうなんだ。
そうそう、お茶の話も記録しておかないと。
お茶は平安時代に入ってきたんだけど、当時のお茶は団茶で日本人の嗜好に合わなくて、衰退。
鎌倉時代に改めて栄西禅師がお持ち帰り。
このおじさんね。
喫茶養生記でお茶が広まった。
今日はここまでね。