主にオートバイ。時々クルマ。
なんだかんだと永年のブログです。
風に向かう刻
日本の美、親の美とその功罪
生存確認がてら僕のblogをご覧下さる
大切な友人、及び知人の皆様は
薄々感づいておいでかと思われますが
”僕”という人間は
【道で向かい側からヒトが来たら、無意識に譲る】
タイプの人間なのです。
当人の中では、無意識でありますから
全く持って自然なことなのですが…
生きていると、【こういったコト】が間違いなんじゃないかと
つくづく思わされる事柄に常に遭遇するわけです。
当然ながら、局所的な意味ではなく
考え方としてのコトではありますが、一例をば。
本日などは、
駅の自動改札で両方から通行できるタイプのものがありまして。
・構内から出ようとしている僕が、改札まで2m。
・向かい側から来る、大学生風の男が4mぐらい。
双方の存在に気づいているようだが
無意識に、大学生風の若い男がどう動くのかを見つつ
歩みを停めました。
すると若い男、全く意に介す素振りもないまま
そのまま改札を利用し、僕の横を通過してゆきました。
つまり、こういうことです。
道を譲る僕が無意識ならば、
道を譲られる彼も、おそらく無意識なのだろう。
これが一番恐ろしいところなのですよね。
道徳、美徳、思いやり。
そんなものが日本の教育から消え失せて久しい感もありますが
まさに”其れ”を体現しているのが、こういった様々な事象です。
今回の一例に漏れず、
職場の出入り口でもそう、道路でもそう。
人間関係に於いてもそうですね。
最早、老若関係なく存在する現実です。
手前の話で恐縮ですが、我が偉大なる母は、
子供の頃からそういった”非道”を許しませんでした。
必ずしも、母自身がそういった人間ではなかったかもしれませんが
少なくとも、事の善悪は持ち合わせていたようで
・電車で子供が座ろうとしたら、立たせて他人に譲らせる。
・例え小遣いで買ったものでも、独り占めはするな、せざるを得ないならやめろ
・祖母を始め、現状が不自由で困っている人間が居たら必ず手伝え。(祖母は脳溢血でした)
など、実に多岐に渡ります。
思い起こすと、
・すべてに於いて、相手の痛みを解り対応出来る人間になれ。
というのが骨子だった気がします。
そういった心構えが、自らの全ての行動を正しいものとしてくれる。
そんな教育の中育ちました。
それが当たり前の事だったわけです。
結果としては、それが局地的な意味での【身分の優位】や、
【生物的な意味での優位】、【状況的な意味での優位】があれど
それでも相手の立場を先に考える人間になりました。
ですが…実に悲しいことですが、
今まで生きた僅か28年の中で実体験として感じること。
この現代日本で生きる以上は、それは美徳でもなんでもなく。
ましてや相手に真心が通じることもなく。
そんな事に心動かされる人間の方が、
却って異質な存在であるのだと気づきます。
それでも僕は曲げません、曲がりません。
仮にそれが現実であったにせよ、自らの信ずる義を否定出来ません。
自らの信義を曲げることは、己という存在を否定することだから。
正義なんて甘い言葉ではなく、
信念、となるのでしょうか。
バカでも良い、損でも良い。真っ直ぐ正直に生きたいものです。
皆様、ココロの道を譲っていますか?
心から憧れのバイク。
やっぱコレです。
(写真は2001年型NSR500 ロッシ仕様)
年式ごとの拘りはありますが
どんなに考えてみても、
自分の中でこの一連の型式を超えるバイクが存在しません。
今日も仕事から戻ると
画面の前に置いてあるコイツを眺めて
『やっぱ格好いいなぁ~』
なんて思いに浸るワケです。
更にタチの悪いことに、
見れば見るほど、コイツはVTR1000SP-1にそっくりでして…
というのも、VTR1000SP自体が多分に
NSR500の設計思想を投影して造られているからなんですよね。
RC211VイメージのCBR1000RRにはマネの出来ない事で、
ワークスRVFイメージの、VFRにもマネが出来ないコト。
シビれるなぁ…。
最悪な展開として、
◆バ○ク王→70幾万かの微金→VTR1000SP(程度悪)
なんて逆藁しべ長者にならないようにしないとです。