落合順平 作品集

現代小説の部屋。

赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (23)

2017-01-06 18:36:40 | 現代小説
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (23)
 街場の芸者



 会津若松市に東山温泉とは別に、街場の芸者衆が居た。
しかし。時代とともに、数がめっきり減って来た。
いま芸者として待機しているのは、実質的に、たった1人きりという状態。
それが春奴お母さんのかつての戦友、市奴その人。


 街場の中にも、置屋があった。
粋なお姉さんたちが着飾って待機している。
声が掛かるたび、市内の料亭やお座敷へ、艶やかな姿で足を運ぶ。
街の中に普通に待機している芸者衆のことを、街場の芸者という。
こうした芸者衆の姿は、会津が誇る貴重な文化財と言っても過言ではない。


 街場の芸者も減っているが、温泉地の芸者も例外ではない。
昭和30年代のなかば。只見川における電源の開発事業が盛んだった頃、
東山温泉に、200名を超える芸者衆が居た。
夜毎大いに盛り上がり、まるで小原庄助さんのような男たちが、
どんちゃん騒ぎを繰り返していた。
そんな芸者衆も徐々に姿を消し、今ではもう20名あまりしか残っていない。



 近年。商工会議所を中心に、芸者衆を残そうと『守る会』が組織された。
昼のお座敷や、女性だけの食事会などに、芸者さんが来て踊ってくれる
割烹のプランなどを編み出した。
あの手この手を尽くし、何とか存続を図っていこうと活動している。


 芸者の衰退には、いろいろな理由が絡み合っている。
時代が変り、芸者衆にお金を使うという気風が失われたことがそのひとつ。
景気が悪くなり、芸事に魅力を感じない人も増えてきた。
魅力的な芸者さん(スター)が出てこないことにも、原因がある。



 どうあれ衰退傾向に、歯止めはかからない。
「芸者」という文化を、後世に残していくのは簡単なことではないだろう。
正月や祝いの宴から、芸者衆の華やかな踊りが消えていくのは、やはり
どこかに寂しいものがある。


 生き残れるだろうかこの先を、会津の芸者衆は・・・
顔をあわせた途端。戦友の市さんと春奴お母さんのあいだで何故か
そんな暗い会話が始まってしまう。
『お母さん。せっかくのお座敷ですから・・・』豆奴が、あわてて春奴の袖を引く。
春奴母さんがようやく、しんみりし過ぎている空気に気がつく。



 「そうや。春奴母さんと、くだらない愚痴話に興じている場合やおまへん。
 悲運の白虎隊と、会津磐梯山の東山温泉へ、ようこそ起こしやす。
 この子かいな。
 あんたが育てる、20年ぶりの新弟子っちうのは」



 いきなり市さんが、正面から清子を見据える。
年の頃なら50歳前後。衰えの様子が窺えるものの、外観といい物腰といい、
凛とした風情が、市奴から漂っている。



 (こちらはたしか、市左衛門さんと名乗るお母さんの戦友のはず・・・・
 でもこうしてまじかに拝見すると、どこからどう見ても年季の入ったお姐さんです。
 ということは、やはり、男性名を持った女性ということになるのかしら?)


 じっと市さんに見つめられている清子が、対応に戸惑っている。
頭の中が、猛烈な勢いで混乱しているからだ。



 「おや。よく見るとどことなく、小春の若い頃によく似ているわねぇ。この子。
 なんだい。あたしを見て、面食らっているのかい?
 疑っているような目つきだねぇ。
 まるで鳩が豆鉄砲を食らったような目をしているよ。
 あたしを、男か女か、戸惑っている様子だねぇ。
 ははは。それなら心配はない。あたしゃ女じゃない、正真正銘の男だよ。
 なんだい春奴母さんは、事情を説明しておいてくれなかったのかい。
 それはまた、ずいぶん気の毒なことをしました。可哀想に」



 しかしこうして見るかぎり、目の前に座っている市奴の姿はどこから
どう見ても、品良く年を老いてきた、芸妓にしか見えない。
市の口元が、優しくニコリと微笑んだ瞬間、『えっ!あたし以上に色っぽい!』
と思わず清子が身震いを覚えている。
市奴の美しい唇が、妖艶に動きはじめた。



 「話すと長くなります。
 とりあえず、道筋を整理いたしましょう。
 あたしが芸妓になる時、大変お世話になった恩人、それが春奴母さんです。
 後を追って湯西川へやってきた豆奴とは、同期の桜です。
 小春は、あたしが春奴姉さんからお預かりした、子飼いの芸妓です。
 ではまず、あたしが何故、春奴母さんと戦友なのかという話からいたしましょう。
 いまから20数年前にさかのぼります。
 あたしを男と知りながら、共犯者になったからです。
 戦友というより、当時の鬼怒川の花柳界を見事にあざむいた首謀者と、
 共犯者という間柄になるのでしょうか?。
 うふふ」



 (24)へ、つづく


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