赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (39)
恭子と清子と日傘
「この足袋。意外と履きやすいわねぇ。これ、サイズはいくつなの?」
「9文半、です」
「9文半?。センチに直すといくつになるの?」
「22.5 cmです。その上のサイズは23.0cmで、 9文7分と呼びます」
「へぇぇ。専門的な呼び方があるんだねぇ。
で、さぁ。なんでこはぜが5つもついているの。
足首の部分が深くなっているから履きやすいけど、裏地の様子も
なんだか、普通の足袋と少し違うみたい。
なんともいえない、いい履き心地があるわ」
「それ。日本舞踊用の、特別仕立てです」
「ふぅ~ん。で、あんたは、もう日本舞踊を踊れるの?」
「見よう見まねで、奴さんなら舞えます」
「あんた、歳はいくつ?」
「15です。この春、中学を卒業しました」
「そうか、15か。あたしは、17。高校3年生で名前は、恭子。
大学を卒業したら、パパを手伝って、家業の酒蔵を継ぐと決めているの。
お母さんが亡くなったのは、あたしが7つの時。
それからは口うるさいおばあちゃんと、パパとあたしの3人暮らし。
わたしはこの喜多方で、歴史ある大和屋酒造の、10代目になるの」
「わたしは芸者見習いの清子です。こっちは、親友の三毛猫のたま。」
懐から顔を出しているたまの頭を、清子が撫でる。
6月半ばを過ぎた川原には、すでに、夏の気配が濃厚に漂っている。
長い竿を操っている鮎釣り師たちの背中が、水面の照り返しを受けて
キラキラと銀色に輝いている。
(暑くなりそうですねぇ・・・・)
清子が日傘をパタンとひろげる。
『はい』ともう一本。恭子に向かって日傘を差し出す。
『あら。あたしのために、わざわざ日傘を用意してくれたのかい?』
嬉しそうに恭子が目を細める。
そんな恭子へ清子が小さく頭(かぶり)を振る。
「いいえ。恭子さんは色が白いから、これを持って行きなさいと、
市さんが渡してくれました。
ウチはまだ、そこまでの配慮はできません。
見習い中の身ですから」
「そうでもないさ。たまを懐に入れたり、日傘を2本も持ってきたり、
足袋まであたしに分けてくれたり、あんたも相当な世話焼きだ。
じゃ、あたしのお気に入りの食堂へこれから案内するから、
そこでラーメンを食べようか」
「願ってもありません。着いていきますお姉さん」
「うふふ。お前ったら、なんだか、いちいち可愛いね。
よし。着いといで。
喜多方のラーメンはどこで食べても、美味しいよ。
あっ、たまには無理がある。スープは熱々のうちが一番旨いからね。
猫舌のお前には、無理があるなぁ」
喜多方市のラーメンは昭和の初期、「源来軒」が、中華麺に近い
「支那そば」を打ち、屋台を引いたのが原点。
当時は敗戦の影響による食糧難の時代だった
そんな中。「支那そば」は喜多方の市民にとって、すばらしいご馳走になった。
そしてその味は、あっというまに市民生活の中へ浸透した。
源来軒から、支那そば作りを継承する人間が増えていく。
多くの食堂で、支那そばがメニューとして出されるようになる。
こうした流れから現在でも、多くのラーメン店が「○○ラーメン」という屋号を
使わず、昔ながらの「○○食堂」という表記をしている。
喜多方ならではの、流儀といえる。
喜多方市は蔵とラーメンの街として、全国に知られている。
きっかけは「蔵」の写真展示会。
市内で写真店を営んでいる金田実氏が、四季を通して喜多方の蔵の写真、
500枚ほど撮影した。
東京で写真展を開催したことで、「蔵のまち喜多方」が
全国に浸透するきっかけを生んだ。
1975年(昭和50年)。NHKが「新日本紀行」で「蔵のまち喜多方」を
全国に紹介した。このことでついに人気に火がついた。
おおくの観光客たちが、蔵とラーメンと酒蔵の町へやってくるようになった。
(40)へ、つづく
落合順平 作品館はこちら
恭子と清子と日傘
「この足袋。意外と履きやすいわねぇ。これ、サイズはいくつなの?」
「9文半、です」
「9文半?。センチに直すといくつになるの?」
「22.5 cmです。その上のサイズは23.0cmで、 9文7分と呼びます」
「へぇぇ。専門的な呼び方があるんだねぇ。
で、さぁ。なんでこはぜが5つもついているの。
足首の部分が深くなっているから履きやすいけど、裏地の様子も
なんだか、普通の足袋と少し違うみたい。
なんともいえない、いい履き心地があるわ」
「それ。日本舞踊用の、特別仕立てです」
「ふぅ~ん。で、あんたは、もう日本舞踊を踊れるの?」
「見よう見まねで、奴さんなら舞えます」
「あんた、歳はいくつ?」
「15です。この春、中学を卒業しました」
「そうか、15か。あたしは、17。高校3年生で名前は、恭子。
大学を卒業したら、パパを手伝って、家業の酒蔵を継ぐと決めているの。
お母さんが亡くなったのは、あたしが7つの時。
それからは口うるさいおばあちゃんと、パパとあたしの3人暮らし。
わたしはこの喜多方で、歴史ある大和屋酒造の、10代目になるの」
「わたしは芸者見習いの清子です。こっちは、親友の三毛猫のたま。」
懐から顔を出しているたまの頭を、清子が撫でる。
6月半ばを過ぎた川原には、すでに、夏の気配が濃厚に漂っている。
長い竿を操っている鮎釣り師たちの背中が、水面の照り返しを受けて
キラキラと銀色に輝いている。
(暑くなりそうですねぇ・・・・)
清子が日傘をパタンとひろげる。
『はい』ともう一本。恭子に向かって日傘を差し出す。
『あら。あたしのために、わざわざ日傘を用意してくれたのかい?』
嬉しそうに恭子が目を細める。
そんな恭子へ清子が小さく頭(かぶり)を振る。
「いいえ。恭子さんは色が白いから、これを持って行きなさいと、
市さんが渡してくれました。
ウチはまだ、そこまでの配慮はできません。
見習い中の身ですから」
「そうでもないさ。たまを懐に入れたり、日傘を2本も持ってきたり、
足袋まであたしに分けてくれたり、あんたも相当な世話焼きだ。
じゃ、あたしのお気に入りの食堂へこれから案内するから、
そこでラーメンを食べようか」
「願ってもありません。着いていきますお姉さん」
「うふふ。お前ったら、なんだか、いちいち可愛いね。
よし。着いといで。
喜多方のラーメンはどこで食べても、美味しいよ。
あっ、たまには無理がある。スープは熱々のうちが一番旨いからね。
猫舌のお前には、無理があるなぁ」
喜多方市のラーメンは昭和の初期、「源来軒」が、中華麺に近い
「支那そば」を打ち、屋台を引いたのが原点。
当時は敗戦の影響による食糧難の時代だった
そんな中。「支那そば」は喜多方の市民にとって、すばらしいご馳走になった。
そしてその味は、あっというまに市民生活の中へ浸透した。
源来軒から、支那そば作りを継承する人間が増えていく。
多くの食堂で、支那そばがメニューとして出されるようになる。
こうした流れから現在でも、多くのラーメン店が「○○ラーメン」という屋号を
使わず、昔ながらの「○○食堂」という表記をしている。
喜多方ならではの、流儀といえる。
喜多方市は蔵とラーメンの街として、全国に知られている。
きっかけは「蔵」の写真展示会。
市内で写真店を営んでいる金田実氏が、四季を通して喜多方の蔵の写真、
500枚ほど撮影した。
東京で写真展を開催したことで、「蔵のまち喜多方」が
全国に浸透するきっかけを生んだ。
1975年(昭和50年)。NHKが「新日本紀行」で「蔵のまち喜多方」を
全国に紹介した。このことでついに人気に火がついた。
おおくの観光客たちが、蔵とラーメンと酒蔵の町へやってくるようになった。
(40)へ、つづく
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