つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(112)すずの、あたらしい習慣
すずが老眼鏡を取り出した。
古布で作った愛用の巾着から、厚めのノートも取り出す。
「いつもの習慣。書き始めてもう、2年近くになるかしら。
今日有った出来事を順番に全部思い出すの。間違えないよう、順番通りにメモします。
それが今日一日、わたしが無事に生きた証(あかし)です。
いつの日か必ず、全部忘れちゃう日が、間違いなくやって来る・・・
不安なのよ、それが。
だからこうして、思い出せなくなったその日のために、毎日メモを取っておくの」
老眼鏡をかけたすずが、今日一日の出来事を思い出している。
すべてのことをちゃんと思い出せているのかどうか、それは本人以外、分からない。
しかしすずはこうして、習慣として毎日、自分の一日と向かい合っている。
老眼鏡をかけたすずの横顔は、おだやかだ。
長年の日記を普通につけているような、そんな落ち着いた所作と雰囲気が漂っている。
枕元へ置いた勇作のタブレットから、着信音が響く。
一人娘の美穂から、メールが届いた。
記憶障害に関する、長い論文がようやく届いたようだ。
「どなたから?」
「女医をしているぼくの友人。君のひとり娘、美穂ちゃんからだ。
認知症に関するわかりやすい論文が有るので、あとで送ると昨日、約束をした」
「今日はわたしのほうも、いろいろと有りました。
いつも以上に時間がかかりそうです。
遠慮しないで、読んだらどう。それが届くのを、待ちわびていたんでしょ?」
「そうかい。じゃ遠慮しないでそうしょうか。
ねぇ。ここじゃ読むのに暗すぎる。そっちへ行ってもいいかい?」
「どうぞ」とすずが、テーブルの上を片づける。
壁際に作られたテーブルは、食事用のスペースとしては狭すぎる。
食事のためのテーブルは別に、ベッドの下に収納されている。
朝のコーヒーを飲むときや、読書のためにと、椎名が特別に備え付けてくれた。
至近距離で見るすずの顏とおだやかな表情は、どうみても、健常者そのものだ。
多恵と恵子と別れて以降。はじめて、すずと2人で過ごしたことになる。
その中ですずの認知症を疑うような出来事は、ひとつも見つけることが出来なかった。
昔からよく知っているすずが、勇作の目の前に普通に居た。
ノートを覗き込んだ勇作が、「あれ?」と小さな驚きの声をあげる。
昔からすずの文字は、流れる様に美しい。
美しかったすずの文字が、画期的にさらなる進化を遂げていた。
「メモを書くために、ボールペン習字をならいました。
身体に染み込んだものは、忘れないってよく言うでしょ。
あるピアニストが認知症になったそうですが、家族の顔がまったくわからなくなった
にもかかわらず、ショパンを見事に弾き切ったそうです。
必死で頑張っているのよ、これでも。あたしなりに」
うふふとすずが、老眼鏡の下で小さく笑う。
認知症はゆるやかにすすみながら、記憶を失っていく病気だ。
その人の持っている記憶が、根こそぎ失われてしまうわけではないが、
進行し始めた病いはやがて、おおくの領域を破壊していく。
喪失する領域は時間とともに広がっていく。
いつの日か、すべての記憶を喪失する瞬間がおとずれてしまう可能性もある。
いま目の前でメモを書いているすずに、異常はまったく見られない。
物忘れと、必死でたたかっている力みも感じられない。
ノートに書き込まれていくボールペン文字も、見るからに美しい。
いつものすずが、いつものように、丁寧にノートに文字をかいている。
認知症も最初のうちは、癌などと同じように静かに進行していく。
歯周病や、骨がもろくなっていく骨粗しょう症などもサイレント・ディジーズ(静かな病気)
と呼ばれている。
うつ病も同様に、本人が気がつかないうち静かに進行していく病いだ。
勇作が早期退職を決めた、57歳の春。
すずはいつもと異なる、自分の脳の働きに気が付いた。
「加齢によるただの物忘れ、だけではさなそうです」そう気が付いた瞬間から、
すずの軽度認知障害(MCI)とのたたかいが、幕を開けた。
(113)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(112)すずの、あたらしい習慣
すずが老眼鏡を取り出した。
古布で作った愛用の巾着から、厚めのノートも取り出す。
「いつもの習慣。書き始めてもう、2年近くになるかしら。
今日有った出来事を順番に全部思い出すの。間違えないよう、順番通りにメモします。
それが今日一日、わたしが無事に生きた証(あかし)です。
いつの日か必ず、全部忘れちゃう日が、間違いなくやって来る・・・
不安なのよ、それが。
だからこうして、思い出せなくなったその日のために、毎日メモを取っておくの」
老眼鏡をかけたすずが、今日一日の出来事を思い出している。
すべてのことをちゃんと思い出せているのかどうか、それは本人以外、分からない。
しかしすずはこうして、習慣として毎日、自分の一日と向かい合っている。
老眼鏡をかけたすずの横顔は、おだやかだ。
長年の日記を普通につけているような、そんな落ち着いた所作と雰囲気が漂っている。
枕元へ置いた勇作のタブレットから、着信音が響く。
一人娘の美穂から、メールが届いた。
記憶障害に関する、長い論文がようやく届いたようだ。
「どなたから?」
「女医をしているぼくの友人。君のひとり娘、美穂ちゃんからだ。
認知症に関するわかりやすい論文が有るので、あとで送ると昨日、約束をした」
「今日はわたしのほうも、いろいろと有りました。
いつも以上に時間がかかりそうです。
遠慮しないで、読んだらどう。それが届くのを、待ちわびていたんでしょ?」
「そうかい。じゃ遠慮しないでそうしょうか。
ねぇ。ここじゃ読むのに暗すぎる。そっちへ行ってもいいかい?」
「どうぞ」とすずが、テーブルの上を片づける。
壁際に作られたテーブルは、食事用のスペースとしては狭すぎる。
食事のためのテーブルは別に、ベッドの下に収納されている。
朝のコーヒーを飲むときや、読書のためにと、椎名が特別に備え付けてくれた。
至近距離で見るすずの顏とおだやかな表情は、どうみても、健常者そのものだ。
多恵と恵子と別れて以降。はじめて、すずと2人で過ごしたことになる。
その中ですずの認知症を疑うような出来事は、ひとつも見つけることが出来なかった。
昔からよく知っているすずが、勇作の目の前に普通に居た。
ノートを覗き込んだ勇作が、「あれ?」と小さな驚きの声をあげる。
昔からすずの文字は、流れる様に美しい。
美しかったすずの文字が、画期的にさらなる進化を遂げていた。
「メモを書くために、ボールペン習字をならいました。
身体に染み込んだものは、忘れないってよく言うでしょ。
あるピアニストが認知症になったそうですが、家族の顔がまったくわからなくなった
にもかかわらず、ショパンを見事に弾き切ったそうです。
必死で頑張っているのよ、これでも。あたしなりに」
うふふとすずが、老眼鏡の下で小さく笑う。
認知症はゆるやかにすすみながら、記憶を失っていく病気だ。
その人の持っている記憶が、根こそぎ失われてしまうわけではないが、
進行し始めた病いはやがて、おおくの領域を破壊していく。
喪失する領域は時間とともに広がっていく。
いつの日か、すべての記憶を喪失する瞬間がおとずれてしまう可能性もある。
いま目の前でメモを書いているすずに、異常はまったく見られない。
物忘れと、必死でたたかっている力みも感じられない。
ノートに書き込まれていくボールペン文字も、見るからに美しい。
いつものすずが、いつものように、丁寧にノートに文字をかいている。
認知症も最初のうちは、癌などと同じように静かに進行していく。
歯周病や、骨がもろくなっていく骨粗しょう症などもサイレント・ディジーズ(静かな病気)
と呼ばれている。
うつ病も同様に、本人が気がつかないうち静かに進行していく病いだ。
勇作が早期退職を決めた、57歳の春。
すずはいつもと異なる、自分の脳の働きに気が付いた。
「加齢によるただの物忘れ、だけではさなそうです」そう気が付いた瞬間から、
すずの軽度認知障害(MCI)とのたたかいが、幕を開けた。
(113)へつづく
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