落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (113)美しい指先

2015-08-27 11:01:01 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(113)美しい指先




 認知症の早期発見は、難しい。
発症した本人による、『取り繕い』にも注意が居る。
もの忘れがあるにもかかわらず、本人がそのことを自覚したまま誤魔化す場合が有る。
他者に悟られまいと、自然をよそおい取り繕ってしまうからだ。



 「いま何歳ですか?」と問われても、「最近は歳も気にしなくなってきました」
と無難に切り返すのも、そうしたことのあらわれだ。
そうした場合。専門の医師でも、それが症状なのかどうか診断が難しくなる。
すずの場合、それが顕著なまでに表れている。



 失われていく記憶や感覚を、他人に知られたくない。
他人とのやり取りの中で、自分の弱みを露呈したくないという本能がはたらく。
他人には、自分の弱みを見せたくない。すずの場合まさに、それに該当する。



 人にはみな、自分を守ろうとする本能(自己防衛本能)を持っている。
自分の評価を下げたり、自分の能力が低下したことを、素直に認めなたくない傾向を持つ。
認知症の人にも、当然こうした本能は残っている。
責められたり、叱られたりすることを極端に嫌う。自分の失敗を、認めようとしない。
不利な状況を巧みにかわそうとする。などなどの傾向が自然に生まれてくる。



 物を忘れていくことは、本人にはどうにもできない。
認知症の初期は、自分の物忘れに気が付くと、食い止める手立てはないかと
いろいろな対策をはじめる。
忘れたくないことを何度も確認してみたり、メモを貼るなどの対策をとる。
だが次第に、メモをしたことさえ忘れてしまう時が来る。
物忘れの進行は、やがて、思考が回らない症状を生み出していく。
その結果。最後には、自分で自分自身をコントロールすることができなくなる。
いっそうの深み、泥沼の中へ落ちていく。



 (すずは、いま、いったいどの段階にいるのだろう・・・)



 テーブルの上にタブレットを置いた勇作が、メモを書き続けている
すずの手元を覗き込む。
すずの指先は、いつ見ても美しい。
美しい指の動きを見るたびに勇作は、いつもそう感じる。
爪にネイルを入れているわけではない。
美しさを保つためのマッサージや、手入れをしているわけでもない。
だが、すずの指の動きはいつみても美しい。
おそらく。和裁という仕事の中で培ってきたものだろう。
働く指は美しい。すずの指先の動きを見るたびに、勇作はいつも同じ想いを胸にする。


 「どうしたの?。
 メールも読まず、わたしの指先ばかりを見つめて、変な人ねぇ。
 せっかく場所を空けてあげたのよ。
 読めばいいのに。わたしに、つまらない遠慮なんかしないで」


 (まずい・・・)足元を見透かされた勇作が、あわててタブレットを取り上げる。
(そうだよな。すずの美しい指先なんかに、見とれている場合じゃない・・・)
メールを読まなければと、あわててページを開けていく。
冒頭に、古い写真が添付されている。
北陸のどこかの温泉へ行ったときに撮った、家族の様な一枚だ。
幼い美穂が、真ん中に立っている。
その両側ですずと勇作が、満面の笑顔でお互いを見つめている。



 『わたしの原点、大好きな一枚』と添え書きが、書いてある。
(お前さんの原点は、俺じゃねぇ。などといまさら反論しても、あとの祭りか。
実際。可愛かったもんなぁ、この頃のお前さんときたら。
目の中に居れても、痛くなかっただろう、たぶん・・・
本気でお前さんのあたらしい父親になってやってもいいと、考えたくらいだものな。
だが仕事の都合上、俺は、そういう訳にいかなかった・・・)



 「母の認知症は、もう間違いないと思います。
 認知症の症状が見受けられるようになって、一年とすこし。
 初期の段階は、正常と症状の間のグレーゾーンを行ったり来たりすると言われています。
 接し方を間違えると、認知症の進行を進めてしまう場合があります。
 言い方を変えれば、接し方に気をつければ悪化を止める(遅らせる)ことや、
 時には、改善することも可能です。
 以下。認知症初期に関する資料を添付しました。
 認知症の初期の頃は、本人が自分の異常を一番感じています。
 戸惑いや、恐怖心が渦を巻いている状態です。
 崖っぷちギリギリのところを、不安一杯で歩いているような気持ちでしょう」


 以下。『認知症の症状があなたの家族に出た時、あなたはどう対応しますか』
と題された、長い論文が続いている。
 
 
(114)へつづく

 

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

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