落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第22話

2013-03-29 05:47:04 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第22話
「マズローの欲求段階説」




 時計が1時を回りました。
テーブルに両手をついて勇作が、ゆっくりと立ち上がりました。
響が背中へまわって、勇作の揺れる身体を支えます。

 「響。そこのタクシー乗り場まで送ってやれ。
 俺も片付けて店を閉めたらそぐに二人の後を追う。頼んだよ」



 頼まれた響も、実は足元はおぼつきません。
お互いに支え合うような形で、ふらつきながら表へ出ます。
外へ一歩踏み出した瞬間、4月前の夜気の冷たさに思わず響が身震いをしました。


 「お嬢さんは学生でも稀なほど、
 実に質の良い、探究心をお持ちのようです。
 人の話を、正面から受け止めて、姿勢を正して丁寧に聞くうえに、
 なるべく吸収をしようと言う、そんな熱意が私にはしっかりと見えました。
 そういった道や、職業に進もうと考えたことなどはなかったのですか」

 勇作が、響にとっては意外なことを口にしました。
「いいえ、考えたことは一度もありません・・・・(質の良い探究心? 何の事だろう)」
即座に応えたものの、響の頭の中はその言葉の意味を反芻(はんすう)しています。


 「疑問をひたすら探究をする、研究者のような嗅覚のことです。
 たくさんの学生たちをみてきましたが、あなたのそれはすこぶる良質のもののようです。
 アメリカ合衆国の心理学者で、アブラハム・マズローという人が
 自己実現理論(じこじつげんりろん)という学説で、それをうちたてました。
 『人間とは、自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、
 人間の欲求を、5段階の階層で理論化しました。
 「マズローの欲求段階説」と称されています。

 
  食欲や性欲などをはじめとする、生存に関するものから、
 『大金持ちになりたい』『賞賛を得たい』、『一つの道を極めたい』などなど、
 人間は、実にさまざまな欲求に基づいて行動をしていると考えられています。
 マズローによって階層化された欲求とは、
 生理的欲求・安全欲求・愛情欲求・尊敬欲求・自己実現欲求の5つです。


  一つ目の『生理的欲求』とは、人間が生きていくために最低限必要な、
 生理現象を満たすための欲求で、食物、排泄、睡眠など、個体として生命を
 維持するために必要な基本的な欲求などのです。


  二つ目の『安全欲求(安定性欲求)』とは、
 誰にも脅かされることなく、安全に安心して生活をしていきたいという欲求のことです。
 雨や風をしのぐための住居を欲するというものから、戦争などの
 争いごとのない環境で過ごしたいという欲求までが、これらに含まれます。
 食べるものに不自由しなくなると、次は安心して食事や睡眠を取れる場所が欲しくなる
 という意味がふくまれています。

  三つ目は、『愛情欲求』です。
 所属欲求や社会的欲求といわれるもので、集団に属したり、
 仲間から愛情を得たいという欲求です。
 寝食が満たされると、誰かにかまってほしくなるのが、人間です。


  四つ目は、『尊敬欲求』で、承認欲求とも言われています。
 他者から、独立した個人として認められ、尊敬されたいという欲求のことです。
 今度は、かまってもらうだけではなく、自立した個人として尊重されたくなるわけです。

  最後の五つ目が、『自己実現欲求』です。
 自分自身の持っている能力や可能性を最大限に引き出し、創造的活動をしたい、
 目標を達成したい、あるいは自己成長したいという欲求のことです。
 社会的に成功を収めた人が、社会貢献活動をする理由は、実はここにあります。



  人間は満たされない欲求があると、それを充足しようとして
 行動(欲求満足化行動)をおこすとされています。
 そうした上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、
 より高次の欲求へと、段階的に移行するものとされています。
 ・・・・例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、
 病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、
 一時的に段階を降りて、その欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、
 再び元に居た欲求の段階へ戻る、とされています。
 このように、段階は一方通行ではなく、
 双方向に行き来するものであるとも定義がされています。
 また、最高次の自己実現欲求のみが、一度充足したとしても
 より強く充足させようと志向するし、行動をするという特徴もあるようです。


  ・・・・どうですか、お譲さん、何か心に響くものがありましたか?
 あなたなら、もうなにかに気がついたと思います。
 たまには、ゆっくりと自分自身を見つめてみたらどうですか。
 自分でも、意外な発見がけっこう有ると思います」



 蕎麦屋『六連星』から、横へ路地をふたつほど抜けると
やがて本町通りに面している、タクシー営業所の裏手へと出ます。
丁度その辺りまで歩いたところで、後ろから来た俊彦が二人に追いつきました。
『酔っ払い同士にしては、足が速い』笑いながら追いついた俊彦が、
振り返った響へ上着を手渡すと、手にしたマフラーを寒そうな響の首筋へ巻き付けます。
無精ひげの勇作が目を細め、その様子を嬉しそうに眺めています。


 
 「トシさん、今日はすっかりご馳走になりました。
 自慢の蕎麦も堪能させてもらいましたので、またこころおきなく、
 いつもの、原発労働者に復帰をしたいと思います。
 さて、聡明なお譲さん。またいずれお逢いをいたしましょう。
 おふたりとも、三月半ば過ぎとはいえ、夜はまだまだ冷え込みます。
 私はここらで大丈夫ですので、もうお引き取りください。
 本当に、ありがとうございました」


 笑顔の勇作が、タクシーの営業所へ消えていきます。
見送っていた響がくるりと振り返ると、いち早く(最初から目をつけていた)、
温かそうで充分な大きさのある俊彦のコートの中に、身体を丸めて潜り込んでしまいました。
驚きながらもしっかりと受け止めた俊彦が、コートを大きく広げ直すと、
あらためて、すっぽりと響の全身を包み込みます。
ぐるぐる巻きにされたマフラーの間から、目だけを出した響きが
嬉しそうに俊彦を見上げています。



 「ねぇ、トシさん。もしかしたら・・・・
 私のために、わざわざ准教授の勇作さんを呼んだのですか?
 あんなに嬉しそうに、たくさんの講義を私にしてくれたんだもの。
 感謝しなくっちゃね」


 「さあてな・・・・。俺は、なにも知らんぞ」

 
 「そう。・・・・ねぇ、トシ。
 子供がいるとしたら、男の子と女の子の、どっちが好き?」


 「響みたいな女の子以外なら、いつでも大歓迎する」


 「なんだぁ・・・・聞いて損した。
 私ったら自ら、墓穴を掘ってしまったわ。聞くんじゃなかった」


 「なんだ、それじゃ不満か?」

 「だってぇ・・・・」


 「いや、お前さんみたいな娘がいたら、
 たぶん・・・・俺もきっと楽しかっただろうと、確かに思う」

 「本当?」


 「武士に、いや・・・・男に、二言は無い」




 
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赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (55)尾根の道と夏まで残る雪渓
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