アイラブ桐生 第4部
(56)最終章 「放浪の果てに」(3)その1
順平さんは京都でも老舗に数えられる、染物屋の跡継ぎ息子です。
源平さんとは近所同士で、小学校にあがる前からの遊び友達で、同級生の間柄です。
中学を卒業してから、すぐに金箔師の修業に入った真面目な源平さんとは正反対に
順平さんは、祇園にいりびたりで、遊び三昧の日々を過ごしました。
「勉強はおろか、仕事もまったくせえへん。
それでいて祇園にいりいびたりで、遊び三昧でほうけておった。
俺がお千代と所帯を持ち、娘が生まれた頃になっても、
こいつは、まだ遊ぶほうけている有り様だった。
まだ祇園には、「学校行きさん」が沢山いたころの話だ。」
学校行きさんというのは、
祇園から中学校へ通いながら舞妓の修業を始めた少女たちのことです。
「仕込み」や、「おちょぼ」などとよばれ、10代前半の少女たちのことを指しています。
小学校を終わったばかりの少女たちが、祇園では舞妓の修業を始めるのです。
舞妓の生命線は『おぼこさ・幼さ』に尽きますので、必然的に少女たちの時代が
祇園では『旬』になります。
「そんなかの一人に、いまの小春がいた。
最初は目立たなかったが、「学校いき」の頃から、こいつが
なにかにつけて、よく面倒をみていた。
まるで妹のように、なにかにつけて世話もやいていたようだ。
小春は筋がよく、舞も三味線も器用にこなして、舞妓になっても評判になり、
あっというまに祇園いちといわれる、売れっ子舞妓に成長をした。
小春は、器量も良かったが、心根はもっと良かった。」
小春姐さんの艶やかな赤い唇と、妖艶でいながら、なぜか涼しささえ感じさせる
あの、凛とした美しい目元を思い出しました。
すらりとした華奢な外見とともに、優雅な身のこなしがとても印象的に残る、
和服が似合ういかにも京都らしいおちついた美人です。
「年中走り回っていた「おちょぼの時代」の小春に、こいつは妙に優しかった。
最初は年の離れた妹くらいにしか思っていなかったのだろうが、
小春の方がいつもまにか、勘違いをしていたようだ。
舞妓から芸妓になると、あの当時は、旦那の話が持ち上がる。
いくら芸妓で一生を過ごすと言っても、花街で生き抜いていくためには
心強い後ろ楯ともいえる、旦那の存在は不可欠だ。
それは、祇園に限らず、花街で生きている女なら、みんな
暗黙のうちに了解をしている、生きていくうえでの『しきたり』だ。
ところが、小春の場合だけがそうは、事が進まなかった・・・・
いくら勧められても、小春は旦那をつくらない。
祇園いちの人気芸妓とあれば、引き受け手はあまたに殺到をしてたはずなのに、
いくら良い話が舞い込んできても、頑として小春は首を縦には振らなかった。
なにかにつけて小春の面倒を見ていたお千代が心配をして、
ついに、膝詰めで問い詰めたことが有る。
『小春ちゃん、あんた、芸妓が旦那を持たずにどうしはるん?』
っとな。」
そこまで一気に説明した源平さんが、そこまで語って一息をつきます。
コップに酒を自らつぎ込むと、それをまた水のように一気に飲み干してしまいました。
「そしたら、小春の奴、なんと返答をしたと思う。
驚いたことに、すでにもう、小春はそん時からこいつにゾッコンだった。
何を勘違いしはったんだろう・・・・と、お千代も途方にくれてしまった。
俺もそれを聞いて、心底びっくりした。
まさに、ヒョウタンから駒だ」
ドンと置かれた源平さんのコップへ、二杯目となる酒を、
苦笑しながら順平さんが注いでいます。
「それからだぞ。この二人に難儀がはじまったのは。
考えてもみい。
勉強もせえへんで仕事もほったらかしたまま、
実家の金にまかせて相変らず祇園で、遊び三昧の日々だ。
そのあげく、当然のこととして親からは、ほかされることになる。
それもまた、ごく当たり前と言える仕打ちで、誰が聞いてもそう言う羽目になる。
親からの絶縁状がこいつに届いて、実家の家業が傾く前に、
放蕩息子は、家から追い出されることになった。
こいつが、30歳半ばの時だ。
そん時の小春は、20歳をすこし過ぎたばかりで、
芸妓としての人気は、絶頂期だった。
器量は良いし、芸はなんでもこなせて、そのうえ気だてが良い。
京都の五花街を探したって、これほど条件の整った芸妓はめったにいない。
こんな甲斐性なしのこいつには、小春もたいして別れることに、
未練も何も持たないだろうと、実は、俺もお千代もタカをくくっていた。
ところがだ、必ず帰ってくるから俺を信じて待っていろと、
たった一言だけを言い残して、こいつは京都から、
あっというまに、さいならをした!」
2杯目のコップ酒もまた、源平さんは一息で飲み干してしまいました。
※京都には、島原、上七軒、祗園甲部、祗園東、先斗町、宮川町の
6つの花街が存在し、「六花街」と称されて、京文化の一翼を担ってきました。
現在は、茶屋営業がなくなった島原を除いて5ヶ所となり、
「五花街(ごかがい)」と呼ばれています。
(56)最終章 「放浪の果てに」(3)その1
順平さんは京都でも老舗に数えられる、染物屋の跡継ぎ息子です。
源平さんとは近所同士で、小学校にあがる前からの遊び友達で、同級生の間柄です。
中学を卒業してから、すぐに金箔師の修業に入った真面目な源平さんとは正反対に
順平さんは、祇園にいりびたりで、遊び三昧の日々を過ごしました。
「勉強はおろか、仕事もまったくせえへん。
それでいて祇園にいりいびたりで、遊び三昧でほうけておった。
俺がお千代と所帯を持ち、娘が生まれた頃になっても、
こいつは、まだ遊ぶほうけている有り様だった。
まだ祇園には、「学校行きさん」が沢山いたころの話だ。」
学校行きさんというのは、
祇園から中学校へ通いながら舞妓の修業を始めた少女たちのことです。
「仕込み」や、「おちょぼ」などとよばれ、10代前半の少女たちのことを指しています。
小学校を終わったばかりの少女たちが、祇園では舞妓の修業を始めるのです。
舞妓の生命線は『おぼこさ・幼さ』に尽きますので、必然的に少女たちの時代が
祇園では『旬』になります。
「そんなかの一人に、いまの小春がいた。
最初は目立たなかったが、「学校いき」の頃から、こいつが
なにかにつけて、よく面倒をみていた。
まるで妹のように、なにかにつけて世話もやいていたようだ。
小春は筋がよく、舞も三味線も器用にこなして、舞妓になっても評判になり、
あっというまに祇園いちといわれる、売れっ子舞妓に成長をした。
小春は、器量も良かったが、心根はもっと良かった。」
小春姐さんの艶やかな赤い唇と、妖艶でいながら、なぜか涼しささえ感じさせる
あの、凛とした美しい目元を思い出しました。
すらりとした華奢な外見とともに、優雅な身のこなしがとても印象的に残る、
和服が似合ういかにも京都らしいおちついた美人です。
「年中走り回っていた「おちょぼの時代」の小春に、こいつは妙に優しかった。
最初は年の離れた妹くらいにしか思っていなかったのだろうが、
小春の方がいつもまにか、勘違いをしていたようだ。
舞妓から芸妓になると、あの当時は、旦那の話が持ち上がる。
いくら芸妓で一生を過ごすと言っても、花街で生き抜いていくためには
心強い後ろ楯ともいえる、旦那の存在は不可欠だ。
それは、祇園に限らず、花街で生きている女なら、みんな
暗黙のうちに了解をしている、生きていくうえでの『しきたり』だ。
ところが、小春の場合だけがそうは、事が進まなかった・・・・
いくら勧められても、小春は旦那をつくらない。
祇園いちの人気芸妓とあれば、引き受け手はあまたに殺到をしてたはずなのに、
いくら良い話が舞い込んできても、頑として小春は首を縦には振らなかった。
なにかにつけて小春の面倒を見ていたお千代が心配をして、
ついに、膝詰めで問い詰めたことが有る。
『小春ちゃん、あんた、芸妓が旦那を持たずにどうしはるん?』
っとな。」
そこまで一気に説明した源平さんが、そこまで語って一息をつきます。
コップに酒を自らつぎ込むと、それをまた水のように一気に飲み干してしまいました。
「そしたら、小春の奴、なんと返答をしたと思う。
驚いたことに、すでにもう、小春はそん時からこいつにゾッコンだった。
何を勘違いしはったんだろう・・・・と、お千代も途方にくれてしまった。
俺もそれを聞いて、心底びっくりした。
まさに、ヒョウタンから駒だ」
ドンと置かれた源平さんのコップへ、二杯目となる酒を、
苦笑しながら順平さんが注いでいます。
「それからだぞ。この二人に難儀がはじまったのは。
考えてもみい。
勉強もせえへんで仕事もほったらかしたまま、
実家の金にまかせて相変らず祇園で、遊び三昧の日々だ。
そのあげく、当然のこととして親からは、ほかされることになる。
それもまた、ごく当たり前と言える仕打ちで、誰が聞いてもそう言う羽目になる。
親からの絶縁状がこいつに届いて、実家の家業が傾く前に、
放蕩息子は、家から追い出されることになった。
こいつが、30歳半ばの時だ。
そん時の小春は、20歳をすこし過ぎたばかりで、
芸妓としての人気は、絶頂期だった。
器量は良いし、芸はなんでもこなせて、そのうえ気だてが良い。
京都の五花街を探したって、これほど条件の整った芸妓はめったにいない。
こんな甲斐性なしのこいつには、小春もたいして別れることに、
未練も何も持たないだろうと、実は、俺もお千代もタカをくくっていた。
ところがだ、必ず帰ってくるから俺を信じて待っていろと、
たった一言だけを言い残して、こいつは京都から、
あっというまに、さいならをした!」
2杯目のコップ酒もまた、源平さんは一息で飲み干してしまいました。
※京都には、島原、上七軒、祗園甲部、祗園東、先斗町、宮川町の
6つの花街が存在し、「六花街」と称されて、京文化の一翼を担ってきました。
現在は、茶屋営業がなくなった島原を除いて5ヶ所となり、
「五花街(ごかがい)」と呼ばれています。
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