落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (46)

2014-01-08 12:20:06 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (46)第5章 NPO法人「炭」の事務局長 
足尾銅山と、炭焼き谷の伝説




 「昔は炭焼きの職人が何人もいて、谷と里山からは煙のたなびきが何本も見られた。
 今でもすこし歩けば、炭焼き窯の跡の土盛りや、小屋の残骸などが見つかる。
 炭焼き窯の周りは、いつもきれいに下刈りされていて歩きやすかったが、
 今は、そうした場所も荒れ果てて、様子も一変している。
 高さ10mほどに育った松や杉などの針葉樹が、何本も倒れている有様だ。
 炭の原料とされた広葉樹の、計画的な活用という循環のバランスが崩れたせいもあるだろう。
 林業も随分と下火になり、人の手が入らなくなったせいで、森の荒廃というものは、
 ずいぶんと深刻になってきたようだ」


 『もう少し呑まんか、美人の講師さん』と作次郎老人が一升瓶を持ち上げます。
『はい。喜んで』と、清子の隣りで打ち解けていた凛が、嬉しそうに茶碗を持って振りかえります。
囲炉裏を囲んで始まった宴会は、日がとっぷりとくれても一向に収まる気配をみせません。


 群馬県では「ヤキコ」と呼ばれる炭焼きによって、盛んに木炭の生産が行われてきました。
国内最大規模を誇った足尾銅山へ、大量の精錬用の木炭を供給しています。
明治から大正にかけての生産は、主に白い炭が中心でした。
総製炭量の約8割以上を占めていましたが、昭和に入る頃から木炭の需要が一気に急増し、
炭の大量生産と、低価格化競争がはじまります。


 こうした事態を背景に、常に量産が可能で、製鉄にも適した黒炭への生産の転換が図られます。
昭和元年に木炭検査所が設置され、技術指導や黒炭用の改良窯の普及活動が本格化をします。
その結果、昭和5年頃から黒炭の生産量が急増します。
昭和15年頃には白炭と同等か、それ以上の生産量までの成長を遂げます。
戦争中の昭和15年から20年にかけての資料は残っていませんが、戦時下での木炭需要を満たすために、
大量の黒炭が引き続いて生産されていただろうと、推測することはできます。
終戦を迎えると、再び白炭が生産量を延ばしますが、なぜか高度経済成長がはじまった
昭和35年頃から、ガスや石油の燃料などが台頭し、扱いやすい黒炭が
再び息をふきかえします。



 このようにして群馬における木炭生産の流れは、白炭から黒炭へと移行をして行きましたが、
生産者サイドとしては、必ずしも望んだ結果ではなかったようです。
黒炭は大量生産が可能である反面、単価が安く、大量に焼くためには窯の大型化が必要な上に、
窯の素材である粘土の調達にも費用がかかり、設備投資の面で大きな負担が求められます。
また、7日~10日に1度の割合でしか焼けず、稼働率があまり良くないというデメリットがあります。


 これに対して白炭は、単価が高く従来通りの石積み窯を使用し、窯の耐熱温度(耐久性)が高く
毎日のように、炭を焼くことが出来ます。
白炭は小量生産ですが継続的に生産ができるため、製炭サイクルの小回りが利き、
山村生活者にとっては最も適したといえる仕事のひとつです。
しかし、高度経済成長期に入ると木炭の需要が低下し、「ヤキコ」自体の廃業と合わせ、
製炭量は減少の一途を辿り続け、現在は昭和35年頃と比べ30分の1程度の量に落ち込んでいます。
当然の結果として、高い技術や知識を誇った炭焼きの伝承が、この時点で
完全に途絶えてしまったことを意味しています。



 炭焼きの手帳には、『山を買うより沢を買え』という格言が有ります。
「山見(ヤマミ)」と呼ばれ、炭焼き地の選定をする際についての、古くからの教えです。



 毎年窯を新しく設えるための場所の選定は、仕事の出来不出来を直接左右する
きわめて、重要な分かれ道となります。
「山見」には 1、植生 2、木の太さ 3、窯の設置場所 4、作業効率 5、運搬 
6、仕事量 といった、それぞれのポイントがあります。


 植生とは、炭として高値で取り引きされるナラやクヌギなどの多い場所を、
いかに選ぶかが重要になります。
また木々の生えている間隔のことを「キヤシ」と言い、これも大きな判断材料になります。 
木の太さは、 炭に適した太さとして直径15~20㎝。ただ太ければ良いという訳ではありません。
炭焼き窯の設置場所には、 資材の運搬経路や、水場の有無が重要な要素になります。
作業効率も、大切な要素のひとつです。
家と作業場との距離があり、作業効率が悪いとみなされた場合には現場に小屋を建て、
泊まり込んで作業をすすめます。「トマリヤマ」や「トマリガマ」と呼び、
夫婦で泊まり込む場合なども多かったようです。


 運搬経路の確保は大事です。 焼いた炭を山から下ろすことを「出し」と言い、
山奥での作業になることから効率の良い搬出経路を確保することが、たいへん重要なこととなります。
仕事量も見極めておかなければなりません。
現場の状況と、自分の技量をもとに、期間や製炭量、収入などの判断をします。
これらの条件に加え、窯へ炭材を集めやすい沢筋の選定や、消火や煮炊きに便利な沢の選定などが
極めて重要であることを、先の『山を買うより沢を買え』という言葉が如実に示しています。


 長期的な経営を視野に入れながら、作業効率と収益性を確保するために、
いかに「良い」沢地を見つけるかが、『ヤキコ』たちの腕の見せ所となります。
「炭焼き」とは、山林を熟知し、自分の技量や諸条件を加味した総合的な判断が要求される仕事です。



 「わしらが、まだ山で盛んに石を切り出していた頃には、
 こうした知識や技術や記憶を、体中に留めこんだ連中が、山には数多くいた。
 大間々(渡良瀬渓谷の入口)から、銅山があった足尾までの10里(40キロ)の山道は
 かつては、炭焼きたちが盛んに活動をした谷だった。
 V字の谷の谷底から、数え切れないほどの炭焼きの煙が立ち上ったもんだ。
 夫婦者で働いている炭焼きたちも多く、谷は、炭焼き仕事で日々に忙しかったが
 男女の睦(むつみ)事の面でも、いつもそれなりに忙しかったようじや。
 現に、この麓にある熊笹の湯は、いまだに子授かりの湯として崇められておる。
 ん・・・いかん、いかん。
 若く、美人の先生を前にしていたら、思わず話があらぬ方向へ
 脱線をしてしまいおった!いかん、いかん。わしも修行が足らん。あっはっは」






(47)へ、つづく

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