獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第1章 その8

2022-12-08 01:13:44 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
■第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
□第5章 悪夢は消えた
□あとがき



文師のイメージが新体操の恩師に重なる
高校一年の春。
入学したばかりの私は、暮れなずむ体育館の入口で、石になったように動けずにいた。空間に舞うポールやなわ、一糸乱れず華麗に演技している選手たち。この新体操というスポーツを初めて見た時、鳥肌が全身を被いつくした。
一瞬にして新体操に魅せられた私は、自分も新体操をやってみたいと心の底から思った。
6月に入部した私は、1カ月ほどたって合宿所に入った。部員が8名。そして監督である女の先生との共同生活である。
厳しい先生だった。鹿児島の人間なら誰もが知っているような鬼監督だった。
すきま風が吹きすさぶ、今にもこわれそうな合宿所での生活。朝5時半起床。合宿所の掃除、体育館の掃除、体育教官室の掃除等を八人の部員で分担して行う。朝食をとったら、5キロメートルのランニング。そして授業がはじまる直前まで練習。急いで制服に着がえ授業をうける。授業が終わるとすぐに練習開始。3、4時間の練習のあとは一目散に合宿所に帰り、また掃除、洗濯、炊事、お風呂の用意。食事のあとは日誌をつけて勉強をして10時消灯。
これが一日の生活リズムであり、それは一年中続けられた。365日、一日の休みもなくである。日曜日もない。お盆もない。お正月もない。
練習では、少しでもミスがあれば、先生の平手打ちがとんでくる。誰かがミスすれば、何度でもやり直し。ノーミスまで練習は続けられた。合宿生活では、お花の飾り方や掃除の仕方に心がこもっていないとどやされた。心がないから、根性が腐っているから、演技も汚くなるんだとまた怒られる。
厳しいなんてもんじゃない。たたかれ、けられ、泣かない日はなかった。とにかく、先生の指導についていくのが精いっぱいで、ほかの何にも目をやるヒマがなかった。
先生は真剣だった。命をかけているようにさえ見えた。だから私たちも真剣だった。
「二位もビリも一緒」
と先生は言った。
ただ勝つことだけを目的に、私たちは闘っていた。来る日も来る日も、毎日が闘いだった。
大会本番前。
私たちは神に祈った。
「神様、私たちは一生懸命がんばってきました。だからどうぞ最後までミスなく演技できますように……どうぞお守りください」
いつもはあんなに恐い先生が、ウソのようにやさしくなった。
「私たちは他のどの学校よりも練習してきた。涙を流してきた。だから絶対に負けるはずがない。
できるヨ。みんな、できるヨ」
私たち一人一人の汗ばんだ髪の毛をなでてくれながら、先生はそう語りかける。私たちは、泣きながら「勝利」を確信するのだった。
(絶対に勝つ。絶対にできる。この先生のためにも絶対にがんばるんだ)
そして、誓いの通り私たちはパーフェクトな演技をした。
今まで流してきた苦労の涙は、今や喜びの涙ですべて洗われていく。私たちは、たくさん苦労すれば苦労した分だけ、いやさらにその何倍も、喜びというかたちで報われることを知った。
素晴らしい、自分たち白身納得のいく演技ができた時、あと欲しいものは何もなかった。この喜び、この感動さえあればいいと思った。そして、あんなに厳しい生活、練習だったはずなのに、
(よし、もう一度最初からがんばろう)
と決意していた。
こんな感動を味わえるんだったら、どんな苦労もいとわない、そう思えるようになった。先生は、この喜びを知ってほしいと、私たちを鍛えてくださったんだ。苦しみのあとに、大きな喜びがあることを知っていたからこそ、私たちに厳しくしてくださったんだ。
(先生、ホントにありがとう)
結婚もせず、私たちの栄光のために、自分のすべてを投げうって歩んでいる先生。私たちは、そんな先生に絶対的信頼をおいた。先生がこれだけ、私たちのために尽くしてくれるなら、私たちは自分のため以上に、先生のためにがんばりたい。歯をくいしぼって、先生の願いに報いたい。そう思った。
先生は、自分を超えて、私たちのために生きてくれた人だった。
私はいつしか、その素晴らしい恩師と再臨主・文師の姿を重ね合わせていた。
六千年間、神を裏切り続けた人間。イエスでさえ果たすことができなかった使命を文師がにない、世界の救いのため、人類の救いのために、血と汗と涙を流しておられるという。
自分のすべてを捨てて、人類のために生きているというのだったら、信じることができると思った。
(先生を信じてついていったように、文師を信じていこう)
それからというもの、私は、文節の苦難の道のりを聞かされるたびに、涙するようになった。


真冬の水行をこなす
私の生活は少しずつ変化していった。
蕩減条件と呼ばれる計画をたてて、それを実施していかなければならない。この蕩減条件を重ねていくと、時が満ちた時に勝利への道が開かれるのだという。私の場合はM先生がたててくれた。
1、水行 右肩22杯、左肩21杯
2、御言(みことば) 4ページ読む
3、お祈り4分
・この条件を40日行うこと

目的は、「神の心情、事情がよくわかりますように、そして、国母としてアジアの母として持つべき心情を教えてください」ということだった。意味はよくわからなかったが、私には何か重要な使命があると常々言われていた。
“御言”とは、神からの言葉という意味で、原理議論や文先生の説教集等を指すということもわかってきた。
この条件をやれば、神の心情がどんなものだったのかがわかるのか、それさえもわからなかったが、とにかくやらなければと思った。
水行は、夏場は気持ちがよかったが、冬場は勇気がいった。
冬の真水は切れるように痛い。その一杯目は、息を止め、「エーイ!!」と勢いをつけて大量にぶっかける。心臓がとびだすんじゃないかと思うほどビクツとするが、間をおくとまた勇気がいるので、続けて浴びせかける。神経が切れそうで、冷たくて苦しくて仕方がない。
そんな時は、神を思い、文先生のことを思う。
(文先生はこんな苦しみじゃなかった。死ぬほどの拷問も、神のため、人類のために乗り越えてこられたじゃないか。たかが、ちょっと冷たいごときで弱音なんか吐いていられない)
11、12と浴びるうちに、冷たいとか痛いとか、そんな感覚はなくなっていく。
原理議論を読むのも、私にとっては大変なことだった。
夜遅く仕事から帰ってきて、雑用におわれる。夜中の一時くらいから、この条件をやっていたので、睡魔との闘いである。もし寝てしまって一日でも条件をやらないと、条件失敗ということで3倍にして条件をやり直すことになる。ましてや原理議論を理解することは至難のわざであり、言葉をおぼえるだけでも大変だった。
そして、お祈り。
神に一日の報告をする。今日一日の自分をふりかえり、より公的に生きたのか、私欲に生きたのかを考える。様々な言動、そして心の中に芽生えた小さな悪なる想いまでチェックした。
声を出して大声で祈ること、時間を区切って祈ることはなんとなく不自然な感じがしたが、聖書の中の人物が、ことごとく条件に失敗してきたという教えを思うと、こんな小さな条件でもみくびってはならない、がんばらなければ……と思った。

 

献金も修行のうち
40日過ぎれば、次の条件をたてる。条件をたててがんばらないと、サタンに狙われるから……と、間をおかないように言われた。
この世では、神側とサタン側の熾烈な闘いが行われている。サタンは実に巧妙で、いつもいつも神側から引きずり落とそうとしている。神側の考えで、神側の言動をしていくことが、唯一守られる手段なのである。
しかし、今私自身が思っていることが神側の考えなのかどうかは、私自身ではわからない。自分の行動、やろうとしていること、考えをアベル(上司的役割) に報告、連絡、相談することが必要なのだと教わった。
神の元へ帰るためには、アベルを通してしか帰れないのだという。私にとっての直接のアベルはM先生であり、私はカインの立場にたっていた(カインとアベルは聖書に登場する兄弟。カインがアベルを殺した)。
ある日、またM先生に呼ばれ、新しい条件を言い渡された。
その中で、「罪の清算のために、万物条件をたてなさい」という指示があった。自分の判断でいいから、献金をしなさいということである。
あなたには国を超えてやらなければならない使命があるというM先生の言葉をうけて、私は、自分にとっては大金と思える額の献金をした。
M先生は、献金を手にし、ニッコリと笑って「よく、がんばりましたネ」と言ってくれた。
多くの先祖たちが、少しでも救われる道が開かれるなら、それでいいと思った。もし私がしぶれば、何か悪いことが起こるような気がした。
その後も、講義を受け、家ではお祈りをするという生活が続いていった。
1989年も終わりに近づいたある日、私は、「反対牧師の素顔」というビデオを見た。
既成のキリスト教会から言わせれば、統一原理は解釈できないものであり、自分たちの信徒がどんどん奪われていくので反対するのだという。いずれも左翼系の人々であるというし、サタンが彼らに働いているのた。反対運動の中心的人物である浅見定雄や村上密、森山諭、和賀真也、川崎経子、本間テル子らの各氏が紹介されている。ビデオが伝える、鎖や薬を使って信仰を失わせるという手段に怒りをおぼえ、おそろしさを感じた。
それからというもの、私は共産党という名とキリスト教の名を聞くと、背中がゾクッとするようになった。

 

(つづく)

 


解説
第1章では、山崎浩子さんが旧統一教会と出会い、入信するまでがていねいに描かれています。

「献金も修行のうち」
これが、部外者には分かりにくいところです。
どうして統一教会の信者は、あれほど高額の献金を受け入れるのか。
山崎浩子さんの文章を読むと、信者の心の中を少しうかがい知ることができます。


獅子風蓮