獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第2章 その6

2022-12-14 01:49:44 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
■第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
□第5章 悪夢は消えた
□あとがき



もう覚悟を決めるしかない
「山崎さんですネ」
「はい」
(来たな。さあさあ、いったい誰とくっつけてくれるんだァ?)
私はプツとふきだすリアクションまで用意して、次の言葉を待った。
「えーと、山崎さんが統一教会に入信されていて、今度ソウルオリンピックスタジアムで行われる合同結婚式に参加されるという話は本当ですか?  すでに写真もとっておられるということなんですけど……」
「エッ!?」
私は聞き返した。質問が聞こえなかったわけではない。取材の目的がこのことだったとは思いもよらなかったのだ。
(そうか、このことだったのか)
・ソウルオリンピック→ソウルオリンピックスタジアムのことか。
・おみやげ→お見合いのことだろう。
・証拠の写真→そう、すでにマッチング用の写真もとってある。
胸の鼓動が速くなった。
記者が同じ質問をくり返している。
「はい」と言うべきか、「いいえ」としらばっくれるべきか。
「はい」と答えれば、大変な騒ぎになるのは目に見えている。でも「いいえ」と答えればウソになる。
これで、私は仕事も地位も名誉も失うことになるかもしれない。しかし、この今ある仕事も地位も名誉も、神様が与えてくださったものである。もし、神とメシアを証することで、それらを失うんだったら、それも仕方ない。
ほんの数十秒の間の決断だった。
記者の二度目にくり返された質問が終わったとき、私は「はい」と答えていた。
「ホントですかあ?」
きれいにハモッた声。メモ帳をぐっと引き寄せ、ペンを握りしめた記者たちの瞳の輝きは増した。
「発売日はいつなんですか」
「6月25日です」
「そうですか。25日……」
猶予はあと2日……。
1992年6月22日の夜の出来事だった。


騒ぎは発売日の前日から始まった
教会の人にもこの件は伝えたが、二日間という時間は、あまりにも少なすぎた。新体操スクールにだけは、迷惑をかけたくない。
共同経営でスクールを運営しているため、相手の企業N社にも報告しておかなければならない。
23日は、N社のスクール代表の人と、そしてスタッフの一人に話をするのが精いっぱいだった。
なぜ、私が、こんな奇異な結婚にふみきったのかを説明するためには、統一原理を一から話さなければならない。
一人3時間ぐらいの説明では、わかってもらうことができないのはもちろんだが、騒ぎになる前に話をしておきたかったのだ。
本当はもっと前に話をしようと何度も思った。このことは、T子の他には誰も知らないことだった。話したい人はいっぱいいた。伝えたい人はいっぱいいた。いつかはバレてしまうのだから、しっかりと説明したいと思っていた。けれど、そのチャンスを先延ばしにしているうちに、こんなことになってしまった。
翌24日は、知人のお葬式のため鹿児島にいた。ちょうど高校時代の恩師にも会えるから、明日には騒ぎになることも言っておきたかった。けれど、なんせお葬式である。悲しみにくれている恩師たちを前にして、とてもそんな話などできなかった。
(今日、帰ったら電話しよう)
最終便で東京へ戻ることになっていたので、時間が来るまで、鹿児島へ行った際にはいつもよくしてくださる先生のところで休憩をさせていただいていた。そこへ母校からの電話である。
「ア、山崎さん、今ね、なんとかちゅう、どこかわからんけど、山崎さんがどこにいるかってすごい勢いで聞きに来たのよ。何かあったの?」
「そうですか、すみません。エー、ちょっといろいろあって」
私はすぐに事務所に連絡を入れた。
「もう騒ぎになってるヨ」
友人でもあり、同じ事務所の社員でもあるT子の言葉だった。
「そう。とにかく今日はしゃべんないから」
読みが甘かっだ。25日発売ということは、その前日には見本があがっていることになる。24日にはテレビ局などが情報をつかめる仕組みだったのか。
さして動揺はしなかった。
遅かれはやかれ、騒ぎは訪れるのだ。でも、どれだけの規模でそれがふりかかってくるのか、私にも見当がつかなかった。


大混乱をきたした事務所
鹿児島空港に着くと、テレビクルーがいる。
(あれは、きっと私だな)
案の定、私の姿をみつけて追いかけてきた。いろいろと質問されたが、私は口を貝のように閉ざした。
飛行機の中でも、単独取材を申し込まれる。
でも一社に答えても、どうせ次々と取材の波は押し寄せるだけだ。答えるなら、全社に答える。答えないならいっさい答えない。この姿勢はくずきないようにしようと思った。
羽田空港の到着ロビーは、数えきれないぐらいの報道陣でごったがえしていた。
途切れることなくフラッシュがたかれる。
マイクが突きつけられる。
カメラマンたちは、私に狙いを定めたまま後ずさりしていくので、壁に激突したり、イスの足につまずいたりしている。他のお客さんのことなんか、おかまいなしである。
その波にもみくちゃにされながらも、私はいたって冷静だった。
心をどこかにおいてきたように、何の驚きも、何の怖さも感じなかった。今くりひろげられている騒ぎの様子を、同時に高いところからながめながら歩いているような感じだった。
浴びせかけられるリポーターたちの質問を無言のままにやり過ごした私は、事務所の車に乗り、用意されたホテルへと直行した。
(さて、これからどうしよう)
ホントは、心は決まっていた。これだけ騒ぎになった以上、きちっとみんなの前で話をしなくてはならない。
このまま逃げまわったとしても、憶測がとぶだけだし、私の想いとまったく違った情報が電波をうめつくすのは、本意ではなかった。
いつ、どこで……どのように……?
事務所は、テレビ局、雑誌社、様々なところからの問い合わせで混乱をきたしていた。
古くからお世話になっている芸能マネージャーからも、私を心配する連絡が入っているという。
「記者会見だけはするな。信仰は本人の自由なんだから、する必要がない。もし、記者会見をすれば、芸能界で生きられなくなる」
という話だった。
もとより私は芸能界で生きている人間ではなかった。たとえ、信仰を公にすることで芸能関係の仕事がなくなっても、たいしたことではないと思った。
ただ気がかりなのは、新体操スクールのことだ。私自身はどうなっても、私のことでスタッフやスクールに迷惑がかかるのは忍びなかった。
もし、山崎浩子という名前がつくことで、スクールを離れていく人がいだとしたら、私の方が身を引かなければと思った。
(これがイサク献祭か)
私はそう思った。聖書の中の人物、アブラハムは神に捧げた万物献祭において、失敗してしまったので、結果的にいちばん愛する息子イサクを燔祭(はんさい)として捧げなければならなかった。神はその時、アブラハムの深い信仰を知り、祝福を与えたのであった。
何よりも誰よりも神を愛し、自分のいちばん大切なものを神に捧げようとする気持ちがあってこそ、神はその信仰を認めてくれるのだという。
私のいちばん大切な新体操の指導ができなくなったとしても、今、アブラハムと同じ想いで、イサク献祭をしなければならない。

 

 


(つづく)

 


解説
第2章では、山崎浩子さんが旧統一教会と出会い、その教義にのめり込む様子がていねいに描かれています。

週刊誌に嗅ぎ付けられて……


獅子風蓮