獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第4章 その3

2022-12-25 01:19:15 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
■第4章 暴かれた嘘
□第5章 悪夢は消えた
□あとがき



学歴コンプレックスから出た経歴詐称
私はもう、真の父母の御名によっては祈れなかった。神を信じているのであって、他の神々を信じていたはずではなかった。唯一なる神を信じていたはずだ。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」
私は神の声を聞いたような気がした。
それからというもの、私は、本当の意味で真剣に話を聞くようになった。
世間では大騒ぎになっていること、牧師さんのことをつけまわす車がいることなどを、姉や牧師さんから聞かされたが、今となっては誰にも邪魔されたくなかった。マスコミにも、統一教会にも。
もし、統一原理が間違いであるとしたら、私個人の問題ではなくなる。私は世間に対して、統一原理に太鼓判を押してしまったのだから。
私はとにかく多くの話を聞きたかった。
そして、原理講論、聖書、その他多くの資料をもとに話は進められていった。
何もかもがメッチャクチャだった。文鮮明師の美談も、統一原理のルーツも、真っ赤なウソだった。
文鮮明師は、1935年4月17日のイースターの時、イエスの霊が現れ、
「私のやり残したことをすべて成し遂げてほしい」
と啓示を受けた----というふうに私たちは教えられてきた。
しかし、その日はイースターではない。全キリスト教では、春分の日がきて満月の夜があって、そこから初めての日曜日をイースターとしている。その年の4月17日は日曜日ではなかった。
反対派がそれを指摘すると、それは統一教会が決めたイースターなのだという。まだ統一教会など形も何もなかった時代に、統一教会がイースターを決めるのも変な話だ。それ以来、統一教会では毎年4月17日をイースターとしているらしい。また、最近の講義においては、“イースターの時”という補足は削除されているようだ。
そんな細かいことに、いちいち目くじらをたてなくてもというだろうが、一事が万事そんな状態だった。反対派からのつきあげによってウソをつき、それがどうにも隠し通せなくなったら、最後に真実を話し、理由をこじつけるという手法だ。
文師の学歴だって、「早稲田大学理工学部電気工学科卒」となっていたり、「早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科卒(現在の早稲田大学理工学部)」となっていたり、()内の注釈がとれていたりと、語られる年代、講師によって様々だ。()内の注釈がとれたものが本当の学歴らしく、最近はそう言っているが、もちろん早稲田大学の理工学部とは何の関係もない。
別に私は、メシアは大学出じゃなくていいと思う。むしろ学歴なんか関係ないと思う。ただ、最初は大学出のような顔をして、卒業生名簿などを調べられ、ウソがつけなくなってくると、知らぬ間に経歴を変えていく。そのウソのつき方があまりにも滑稽でバカバカしかった。
メシアである文師の学歴は問わずとも、どんな経歴をたどってきたかは重要なことだ。メシアがどんな家に生まれ、どんな環境に育ち、どういう出会いがあってここに至るのかは「主の路程」として語り伝えられ、それだからこうなのだと結論づけられているのだから、それぐらい正確に話してほしいものだと思った。関係者の聞き間違いですまされるものではない。“誰か”がウソをつかなければ、この経歴詐称が生まれるはずはない。

 

次々と検証される新事実
私はふと勅使河原さんが言った言葉を思い出した。多くの愛着をこめて笑いながら口にしたのは、「お父様は、学歴コンプレックスがあるから」という言葉だった。
私や桜田淳子さんの相手を選ぶにあたっては、東大卒から先に探したということを、私は聞いていた。それでも東大出ではいなくて、私の相手の勅使河原さんは原研の会長が推薦したのだそうだ。そういう背景もあって彼はそう言ったのだろう。
彼が言うように、学歴コンプレックスから出たウソなのかもしれない。
今までのキリスト教では救われないと言いながら、既成キリスト教からの質問状に対して、「私たちは聖書を教典としています。文鮮明をメシアとは呼んでいません」などと平気でウソをついている資料をみた時、「キリスト教」という名がほしいだけの統一教会のやり方に腹が立って仕方がなかった。
なぜ堂々と、「聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書、(中略)不動のものとして絶対視してはならない」(原理講論より)と、「文鮮明はメシアである」と、既成キリスト教に向かって言えないのか。
他の多くのウソは、反対派の資料ではなく、統一教会から出している出版物によって明確になった。今までこうしてゆっくり見比べたことはなかったが、これでは話にならない。
そして、あまりにも、あまりにもいいかげんな聖書の引用、ねじ曲げ、つくられた美談。統一教会の表の顔と裏の様々な顔・顔・顔。
(いったい私は何を信じてきたというのだろう。神を証できる喜びを味わいながら生きてきたというのに、サタンの手先となって働いてしまったというのか)
布団の中で、泣きながら考え続けた。
(もし、そうだとしたら、私は大変なことをしてきてしまった。神様、ゴメンナサイ。神様……)
「どうして浩子さんは、文鮮明をメシアとして信じたの?」
「高校の時の恩師と重ねあわせて、同じように人のために生きている人だったら信じられると思って……」
「そう、じゃあ、その先生と文鮮明が同じような生き方をしているのか見比べてごらん」
美談がくずれ去った今、比べようもなかった。“為に生きる”と言いながら、何のためになってるんだろうと思った。
恩師はこんなウソつきじやない。もっと正直に生きている人だった。
私は自分が信じたものを真理とし、正しく検証することなく、他の人にすすめてきたのだ。私は、私自身の手によって、人の人生をも狂わせてしまったことになる。

 

思考回路はコントロールされていた
私は、ほとんど統一原理を間違いだと思うようになっていた。
しかし、すぐに決断はできなかった。
統一教会の信者たちのやさしさ、温かさ、真剣さにふれてきた私であった。
自分が間違っていたと認めることは何でもないことだった。けれど、私に接してくれていた教会の人たちを、否定することがなかなかできなかった。
慎重にしなければならない、そう思った。
が、聞けば聞くほど、あまりのいいかげんさに開いた口がふさがらなかった。
それにも増して、自分自身の無知、大バカさかげんにも腹が立って仕方がない。なんでこんな簡単なことが今までわからなかったのか、気づかなかったのか。
頭はパニック状態だった。
「仕方のないことなんですよ。あなたたちはマインド・コントロールされてたんですから。情報をコントロールされ、心をコントロールされていたんです。いったん、その思考回路にはまっちゃうと、なかなか、そこから抜け出せないんですよ」
牧師さんがそう説明してくれる。
私は統一教会から与えられる一方的な情報だけをうのみにしてきた。
たとえ、世間で統一教会に不利な情報が流されたとしても、すぐに連絡が入り、「それには、こういう深い意味があった」とか、「あの人はこんなに悪いことをしてきた人だから、あの言葉は信じられるものではない」という言葉にかき消されてきた。
私に接してくれていたあの人たちは、真実を知っていながら嘘を言っていたのか、それとも嘘を真実だと思って話していたのか、何もかもがわからなくなり、また信じられなくなった。
「浩子さん、あなたは自分自身でこの道を選んだといいましたよね。でも、それはあなたの意思のようにみせかけてはいるけど、ホントはあなたの意思じゃないんです。あなたには、この道を選ぶしか道がなかったんです」
私は統一原理に出会った頃のことから、少しずつ記憶をたどり始めた。
(統一原理なんか聞かなきゃよかった)
と、何度思ったことだろう。この道は決して楽な道じゃないことはわかっていた。でも父の犠牲によって先祖の犠牲によって、私がこの道を知ったというのなら、つらくても行かなければと思った。私一人が犠牲になることで、先祖や子孫が、そして氏族が救われるのなら、私はこの道を行かなければならないと思ったのだ。
「もし、堕ちたら大変です。七代がのろわれ、堕ちた人はみんな悲惨な末路をたどっています」
そういう言葉を何度聞いたことだろう。私一人が責任を果たさない、神やメシアを裏切ることにより、自分はおろか、先祖や子供たちまで悲惨な結末に陥れることになる。
怖かった。信仰をなくすことが怖かったのだ。
この道は、自分の意志で選んできたと思っていた。けれど、それは選択肢のない選択だった。
話を聞いた以上、あと戻りができない出口のない道を歩くしかなかった。自分が責任を果たさないことに多くの恐怖を与えられ、行く道はひとつしかなかったのだ。私にはこの道しか残されていなかったのである。
自分一人が信仰を持ち続けることにより、世界までもが救えると、すべての重荷をしょったつもりで歩いてきたのではないか。

 

 

(つづく)

 


解説
第4章では、山崎浩子さんが“拉致・監禁”され、旧統一教会の信仰を捨てるまでの様子がていねいに描かれています。

教会から距離を置き、誠意ある牧師の言葉に耳を傾けることによって、山崎さんの頑なな思考は徐々に解きほぐされていきます。


獅子風蓮