おそらくは、亡くなる1年ほどまえくらいから亡くなる直前までの友岡雅弥さんの言葉が次のサイトに残されていました。
「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ 友岡雅弥 (1) (April 3, 2019)
おそらくは友岡さんのSNS上の発言が集められているようです。
時系列で並べ直して再構成しました。
友岡さんの発言の前後に、誰がどのような発言をしていたのか分かりませんので、詳しい文脈は分かりませんが、創価学会執行部から疎外され圧力をかけられ、査問を受け、創価学会本部職員を退職するまでの友岡さんの心のうちが明かされた貴重な文章だと思われます。
一部、かいつまんで引用します。
●四百万の人びとがこういう男の手によってガス室に送りこまれた、ということは、ずいぶん不条理だ、という気がします。(中略)典型的な官僚というものでしょうが、死んだ方はうかばれません。 村松剛『アイヒマンの人間像』
自己の行為の是非を自分で判断する余地は、彼の住んでいた世界には存在しなかったのです。 村松剛『アイヒマンの人間像』
レス大尉への口述記録(全六巻、重さ六キロに及ぶものです)を読むと、彼の語彙は非情に貧弱で、くりかえされる質問にたいしてはいつもハンでおしたように、同じことばでこたえています。型にはまったことばでしか考えられない人物。 ―村松剛『アイヒマンの人間像』
アイヒマンはユダヤ人問題の専門家になりました。 たまたまその時期は、ナチがユダヤ人問題の「解決」に乗り出したときと一致していたので、アイヒマンは重宝がられ、たちまち出世することになった。 ――村松剛『アイヒマンの人間像』
「攻めの対話」というのは、「臨床の現場」に居合わせた人のことばではないですね。 「責めの対話」
「攻めの対話」って、今は懐かしい「モーレツ社員」の「営業」ですよね? どういうメンタリティかな?
2019年1月12日
●「対話」は、相互のコミュニケーションです。 「攻め」という概念は、「対話」というものをどう考えているかということの本質を象徴的に語るものでしょう。 心を通い合わせるところに、「戦争の言葉」が出てくるなんて。
夢のみずうみ村の藤原さんがいうように、 加齢というのは、みんなに訪れる「中途障害への道」 障がい者を「生きている価値がない」とバカにしきっていた石原慎太郎が、まさにその苦しみの渦中でもがいている。 すぐに、麻生太郎が続くだろう。 そして、そのうち古市も。
そういうことです。 だから、その概念の矛盾にも気づかないわけです。 そこまで劣化が進んでしまった。
2019年1月13日
【解説】
「アイヒマンの人間像」に、創価学会執行部の誰かの姿をなぞらえたのでしょうか。
「攻めの対話」……創価学会の中で、そんな言葉が推奨されていたのでしょうか。
友岡さんの言うように、おかしな言葉です。
「対話」というものをどう考えているのでしょうね。
そういえば、「対話ブログ」でも「対話」を謳いながら、相手を過剰に攻撃する管理人さんの姿がありましたね。ありもしない嘘までついて……
獅子風蓮