獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(2)

2023-08-31 01:05:50 | 友岡雅弥

これまで、karagura56さんのブログ「浅きを去って深きにつく」から、友岡さんの言葉を拾ってきました。
同じブログには、友岡さんのセミナーや講演の記録も残っています。

「浅きを去って深きにつく」karagura56さんのブログ
友岡 雅弥講演(1)(August 24,2006)

読みやすいように、まとめられるものは整理して再構成しました。
明らかな誤字脱字は訂正しました。

 


■友岡 雅弥氏(東洋哲学研究所・研究員)の講演内容(要約)
■日付/1994(平成6)年
■会合名/不明

 「大聖人は「血脈」否定論者だった」

(つづきです)


例えば御書の中に「霊山浄土」ていう言葉がありますね。
あれを死んでから、ぷかぷか浮いて行く霊山浄土があるて思てる人がいてるんですね。
そんなこと全然ゆってへんのですよ。
「浄土」いう言葉ほど日本の仏教が誤解した言葉は無いんです。

もともとのインドの経典では、「浄土」は、
「現実を変革する」「自分の住んでる地域を改善する」ていう意味の言葉なんです。

菩薩は、地域を改善する仕事をするんだと。
どんな修業をするか。

砂漠に住んでいる菩薩達は砂漠に井戸を掘って果樹を植え、砂漠を緑化していく。
それから、戦争の被災地に派遣された菩薩達は、施設に両親を戦争で無くした子供達を集めて大人になるまで育て続けるというんです。

この地域を改善する実践が菩薩の「浄土」の行である。
こういう事が書いてあったんですよ。

これが中国に伝わって、中国人がその言葉を「浄土」と訳したんです。
それは良かったんですよ。

今から約2千年前、その当時の中国の言葉では「浄土」の「浄」というのはまさにその通り、「改善する」という意味やったんです、その通り訳したんです。

でもね、言葉っていうのは時代と共に変わるんです。
だから我々も御書を読む時も、今の時代のつもりで読んだらあきませんねん。

例えば、御書に『すみざけ2樽、給い候いおわんぬ』てある。
すみざけって清酒ですわ。
で、これ読んで、
『ああ、大聖人、お酒2樽もらったんや、えらい豪勢やのー。大聖人もお酒好きやったんかー。わしも2樽もらいたい。(笑)』て言うとるおっさんがおるんですね。(笑)
その直後のところに、また『すみざけ1樽』とあるのを見て、
『ああ、もう大聖人2樽あけてもうたんかー。「かわのり」とか「むしもち」とか食べながら、空けたんかなあ。いいなあー。』とか言うてる人がおるんですね。

大きな誤解なんですよ。(笑)
あの当時、酔うために飲むお酒、『女房と酒うち飲みて・・』の酒というのは「どぶろく」なんですよ。白いにごり酒なんですわ。
それを蒸留して「すみざけ」にする。
その当時蒸留技術が未熟だったので、「すみざけ」には、いろんな不純物が混ざり込んで、
とうてい飲めるような品物と違うんですよ。
しかも、アルコール度数90%のアルコールで、もう変な匂いのするアルコールなわけですよ。飲んだらまずいし胃がやけてしまう。

何に使うかって、傷の手当てとか、それから薄めて、まずくて『うぇー』て言いながら、
「胃の炎症」とか「腸の下痢」とかを止めるために飲んでた薬なんです。

だからあれを「お酒」と読んだらあかんのんですよ。
「消毒用アルコールまたは医薬品」と読まんといかんのです。

それを日顕教学でね、昭和40年代から、彼が教学部長になってから、自分の酒好きを肯定するために、あれを「お酒」「お酒」「お酒」と訳させたわけですわ。

一挙に変えるわけにいきませんから、皆んなお酒と思てはるわけやから。
それを驚かさないように、徐々に、これから一つづつ、直して行きますけどね。

で、『女房と酒うち飲みて・・』の酒はちゃんとお酒です。
ということで、その当時の人から見たら全然今の常識は通用せえへん事があるんですね。

(つづく)


解説
友岡さんは、『すみざけ2樽、給い候いおわんぬ』の「すみざけ」を例にとって、大聖人の当時の常識と現代の常識の異なること、そこに注意する必要がある点を指摘しています。
「すみざけ」(清酒)は飲むものではなく、「消毒用アルコールまたは医薬品」と解釈すべきだと言っています。
しかし、そのような用途の「すみざけ」を2樽も3樽ももらうものでしょうか。
そこには無理があるような気がします。
素直に、底冷えのする身延山で生活するための「お酒」と捉えてもいいような気がします。

また、「浄土」の捉え方についても、もともとのインドでの意味は友岡さんの言われる通りなのかもしれませんが、日本に伝わった時点で、「霊山浄土」の「浄土」は、浄土宗で言う所の「西方浄土」の「浄土」と同じように、現世とは別のところにある、清らかな場所という意味に転じたのではないでしょうか。
おそらく大聖人も、そういう意味で「霊山浄土」を使っておられると思います。

教学力のない私には、あまり深い議論ができませんが、今後の課題とさせていただきます。

 


獅子風蓮