獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

東大OB医師の告発 その2

2024-06-27 01:22:36 | 犯罪、社会、その他のできごと

前回、東大OB医師である坂本二哉(つぐや)氏が「鉄門だより」に寄稿した「告発文」についての雑誌の記事を紹介しました。

実は、私も東大医学部のOBですので、毎回「鉄門だより」が送られてきます。
しかし、坂本二哉の記事は、表題も地味だったので、スルーしてしまいました。
慌てて、古紙の束をひもといて該当の記事を探し出しました。

貴重な資料になるかもしれませんので、全文を引用したいと思います。
(読みやすいように、適宜見出しをつけ、改行しました。明らかな誤字脱字は訂正しました)


鉄門だより 令和6年4月10日発行(毎月1回10日発行)

晩鐘の時
坂本二哉氏(1954卒)

患者思いの開業医だった父
小生は、多くの同級生が幽明境を異にし、残りは鉄門名簿で一頁半にも足りず、寥々たる数となっては同窓会など夢のまた夢となった。
私の父は北海道は霧の街釧路の開業医、5人の息子はそれぞれ医師となったが、長男と末弟は病院医師の不注意で疾病を見落とされ、かつその後の検査・治療を閑却されて死去、そして次男の私も多病、年がら年中病気にかかって残すところ幾ばくも無い。
長兄が中学入学の際、父は子どもたちにとても広い自分の書斎を与えたが、部屋の壁には絵画好みの父がどこかで手に入れたミレーの「晩鐘」が飾られていて、農民夫妻が夕べの祈りを捧げていた。画面が汚れていたせいか、その薄暗い絵の印象はまさに今の私にぴったりである。
父は街の人にとり慈父のような存在で、私は子どものころから医師と患者との睦まじい交流をよく見て来た。その父は診察中に眼底出血で倒れたが、その日の臥床後間も無く往診依頼があり、「どちらも患者、その場合は?」と言う往診を示唆する母のきつい言葉を最後迄聞くことなく、父は廊下の壁を伝わって往診、帰り際、病院玄関で倒れ、そのまま不帰の客となった。58歳だった。脳室を含む大出血で、火葬時、拳大の凝血塊を見た。その父は私の打った「鉄門ついに我が足下に服す 戦い勝てり 舞わんかな 歌わんかな」という合格電報で、診察中に聴診器を落とすほどの喜びを味わい、その翌日、釧路市初めての東大医学部合格者の親として皆さんが父母を祝ってくださったと後で聞いた。実は母からは北大受験を約束させられていたのに、家には内緒の東大受験で、「鉄門」が東大医学部であることなど誰も知らず、その意味を知っていたのは京大医学部出身の父だけだった。

東大に入り第二内科に入局
だが患者に慕われる父を見て育った私は、入局後、極度の不信に陥った。まるで表と裏、医師と患者との考えられないほどの葛藤、相克がそれだった。よく言われたが、「医師と看護婦の専横を許容し、過酷な検査に耐え、不味い食事を我慢するだけの『健全な』身でなければ東大病院には入院出来ない」というのは半ば事実であった。そしてわが身もそれに従わされ、回顧すればするほど、患者に対して優しくするよりはいかに過酷な態度を取って来たかという自分に対し、未だに深く自責の念に駆られているのである。
顧みると昭和30年初頭迄の入院患者は実際可哀想であった。一般家庭にはまだ電話が無かったから、入院は電報通知で慌てて駆け込み、ベッドは藁ベッド、布団、枕など一式は当時の好仁会から一日幾らかで借り受ける。冷たい食事は8、12、16時の4時間おき、大部屋はカーテンなど無く10~12人部屋、個室にもトイレや風呂は無く、入浴は小さな風呂で週2回の順番待ち、無論テレビは無く、ラジオは無音。野外に好仁会喫茶はあったが患者はまず利用無用。これでは強制収容所に等しく、窓からの飛び降り自殺もあった。また患者に対し、あえて苗字を呼ばず、「お前、貴様」などと呼ぶ医師とは、時として病室前の洗面兼料理台でこっそり不法な調理をしている患者などとの刃渡り喧嘩さえあった。大きな当直室でマージャンに熱狂していて、臨終に立ち会えなかった不埒な医師もいた。
ここで乾坤一擲、清水の舞台から飛び降りる覚悟で言えば、内科での検査死亡、あるいは今様に言えばヒヤリハットがとても多かったということである。私自身の患者で言えば、管を通して向こうが見えるような生検針での肝穿刺で腹腔内出血死、心カテ死(1例は全共闘が中央検査室に迫って罵声を挙げ、青年患者が驚いて飛び跳ね、そのまま死亡)、注射容量を命じられるままに実に十倍量注射して突然死、逆に1/10量の注射を続行させて無効・死亡(規定量の投与でも死亡していたかも知れないが)、胸腔穿刺で大量喀血(明らかに肺動脈損傷)、脊髄穿刺での下半身麻痺も見た。胃穿孔を起こしていることを知りながら緊急手術を待たせ、バリウムが腹腔内を走る写真を求めて検査を強行、続く手術時、外科医に対してバリウムの流れを追って行けば穿孔箇所が分るよと自慢した医師、許せないと思ったが、勇気の無い駆け出しの私は為す術も無かった。その医師は自慢屋だったが、心筋梗塞患者を胃潰瘍と誤ってバリウム胃透視し、患者は突然横倒れになって死亡した。もう少し早く来院していれば助かったのにという偽証が家族への説明(申し開き)であった。黒板には「死亡」ではなく「上がり」と書かれた。私はそのとき初めて上司に噛みつき、消化器検査係を罷免された。
受持医はその度に八方駆けずり回るが、恐るべきことにいずれも何事も無かったかのように処理されていた。受持医は内心ホッとするが、とても納得出来なかった。肝生検例の奥さんは看護婦で剖検を希望したが、私は最後迄拒否することを命じられ困惑した。大変納得し難い顔で引き下がった家族に対し、今もって胸が痛む。13名の同級入局者の一人でさえこういう事態であるから、全員ではではどうなるか、考えるだけでもぞっとする。そしてそのような事件を起こした多くの先輩が、その後、教授として後輩の指導にあたっておられたことは脅威でもあった。
手術に回した患者(殊に心疾患)は多いが、ここにもなお今もって胸を痛めている数々の患者がおり、想起すると意気阻喪して語りたくもなくなるが、でも懺悔せざるを得ないのである。特に大学の秩序が乱れた東大紛争後は酷かった。
大動脈弁操作中、誤って肺動脈迄傷つけて出血死した青年。また二弁置換はまだ無理とされ ていた時代、患者(大学生)の前途を危惧し主たる大動脈弁置換のみと断っていたにもかかわらず、手術室の台上には予め二種の人工弁が置かれていた。大動脈弁置換が終ったと思ったら、予定外の僧帽弁置換が始まっており、結果としては心拍が再開せず死亡した。教授はどこかに去ったが、室内の関係者は私も含めて数時間室内待機、その後、懸命に努力したが死亡(と誤魔化して)、家族が納得しない例もあった。患者の兄が弁護士で訴え出、証人の私も東京地裁に出頭したが、やはり教授の発言は強く、裁判長は無名の医師よりも教授の意見を重く見、患者側は敗訴。兄は怒って入院・手術費支払いを拒否したが、最終的には執行官の取り立てで田舎の父の小さな書店は釘付け閉鎖に追い込まれた。
一番ひどく泣いたのは5歳女子のファロー四徴症手術過誤死だった。手術が終わって帰室する際、気管内挿管が緩んでいるのに気付いた医師が搬送中に歩きながら再挿入し、それが気管を突き破り、以後、酸素濃度が下がって行くのを見て慌てたが後の祭りだった。葬儀では父親から「お前が殺したのだ」と怒鳴られ、「起訴を……」と言いかけたが玄関から追い出された。そしてその後、外科側からの説明や謝罪は全く無かった。
大学の他の科でもおかしいと気付き始め、君子危うきに近づかずとばかり胸部外科送りは頓挫し、私はそれ以後、すべての患者を新潟のA教授の許へ送っていた。

(つづく)


解説
昔の東大病院ではありますが、患者を人間とも思わない一部の医師の態度に、私も憤りを感じます。

 

獅子風蓮



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