獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その8)文証・理証・現証

2025-01-19 01:58:05 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak8 - 文証・理証・現証を使うこころ

2018年3月1日投稿
友岡雅弥


文証・理証・現証というのは、もともとは、仏教の考え方ではなくて、仏教からは「六師外道」と称された学派共通の考え方です。それ以上に、まあ言えば、一般教養として、多くの人々が学んでいたものです。

それらは、元のことばでは、「文証」が、「シャブダ(言語)」もしくは、「アープタ・ヴァチャナ(信頼に値する人の言葉)」。

「理証」 が、「アヌマーナ(推論)」そして「現証」は、「プラテャクシャ(直接知覚)」。

それぞれ、漢訳では「聖言量」「比量」「現量」と呼ばれています。

「量」というのは、サンスクリットの「プラマーナ」の漢訳で、「尺度」「基準」ぐらいの感じですね。

インドの学問体系で、「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」というのがあるのです。哲学用語でいえば「論理学」ということですね。「プラマーナ」は、その学問で使われている言葉です。

インドの、いわゆる一般教養としての学問がいくつかあって、「ヴィヤーカラナ(文法学)」、「ニルクタ(語源学)」「ジョイティーシャ(天文学)」等が挙げられます。数学も盛んで三角関数とか、古代から知られてましたね。

この「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」「論理学」は、仏教の漢訳経典では、「因明(いんみょう=正しい議論の根拠を明かす学問)」と呼ばれていました。

「現量」は、例えば、まさに眼前に「火」があること。熱いし、パチパチいう音が聴こえること。

「比量」は、「あの山には火がある(火事である)」「なぜかというならば、もくもくと煙がでているから」
――と、直接は見えないけど、見える煙という表象(リンガといいます)によって「推論」することです。

「聖言量」というのは、ウソをつかない信頼できる人が、「あの山に火がある」と言ってるということです。

いろんな哲学学派は、だいたいこの三つを立てます。ただし、仏教は、「現量」と「比量」しか立てません。
「聖言量」は、「信頼できる人が言っているから」という推論の結果として、「比量」の中に含めます。

日蓮大聖人も、「因明」を比叡山で学んでいました。
それは、一般教養だったからです。
最澄が、中国から取り寄せた書籍の目録である『伝教大附将来台州録』には、「因明疏(因明についての注釈書)二巻」と、明確に、因明が天台宗で学ばれていたことを示す根拠があります。

しかし、伝教は、『守護国界章』の中で「三支ノ量(因明による論証のこと)、何ゾ法性ヲ顕サンヤ」と述べていて、因明はあくまで一般の学問であって、仏教の真理を、直接顕すわけではないと述べています。あくまで、 一般教養だったわけです。

ただし、日本天台宗の9世紀半ばにかかれた文献『弁惑章』には、まさにこの因明がたくさんでてきます。

一般教養が、重視されるようになったのは、なぜか?

この『弁惑章』の中で、当時の三論宗からの天台宗批判が挙げられています。

どんな批判かというと、天台宗・華厳宗では、『法華経』の「三車火宅の比喩」で、長者が方便として語った牛車と、真実である大白牛車が同じものではない、とするのに対して、三論宗は、「なんや、どうせ、牛やから、おなじやんけ!」といちゃもんをつけてきたのです。

大したことのない揚げ足取りなわけですが、まあ、これが大論争になって、その時に、三論宗側も、天台宗側も、因明を使って論争をするわけ です。

ここで確認しときます。つまり、因明はあくまで、一般常識としての、議論の方法であり、それ自体として、「法性」、つまり、仏の境界というか、最高の真実というか、を言うものではない。あくまで、他との論争での、「方法」であるということなんです。

だから、それ自体として価値のあるものではなく、それが価値あるもの、また真実であるかどうかは、あくまで使う人が、価値あるもの、真実を語ろうとしているかどうかなんです。

逆に、口のうまい、論が立つ人が、邪なことがらを見事に人に説いていくこともあるし、

また、現証(現量)にしても、「火があるぞ!みんな逃げろ」となるか、「火があるぞ、うっしっし、あいつの家丸焼けや!」となるか、

――それは、使う人の心次第ということになるわけです。

だから、あくまで、「心こそ大切」。その言葉や論によって、何が目論まれているか、三証を使う人の意図を、見抜く力が大事なのです。

誰々さんが病気になった。→「あんだけ信心してて何やねん!」となるか。

→「すぐ見舞いにいかんとあかん」となるか。

自分はどちらかを、常に問わないといけませんね。

 

 


解説
この「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」「論理学」は、仏教の漢訳経典では、「因明(いんみょう=正しい議論の根拠を明かす学問)」と呼ばれていました。
(中略)
日蓮大聖人も、「因明」を比叡山で学んでいました。
それは、一般教養だったからです。

勉強になります。

 

因明はあくまで、一般常識としての、議論の方法であり、それ自体として、「法性」、つまり、仏の境界というか、最高の真実というか、を言うものではない。あくまで、他との論争での、「方法」であるということなんです。

なるほど、その通りですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮



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