獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その8

2025-01-22 01:14:52 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
■第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 ■「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「小泉内閣生みの母」

「自民党をぶっ壊す」――。
そんなスローガンを掲げて小泉純一郎内閣が誕生したのは、2001年4月26日のことだった。発足時の支持率は80パーセントを超え、森前内閣の不人気で崩壊の危機に瀕しているとすら言われた自民党は、小泉総理の言葉とは裏腹に奇跡的な復活を果たしたのだった。

小渕恵三(おぶちけいぞう)総理の緊急入院を受けて、自民党の実力者5人の指名により後継総裁となった森喜朗(よしろう)氏だったが、密室で誕生したと批判された森内閣は低支持率に苦しみ、わずか1年で崩壊。同時に自民党自体も危機的な状況に陥ってしまう。
進退窮まった自民党執行部が目をつけたのが、政界では「変人」といわれた小泉氏だった。少なくとも当時は妥協を許さないといわれた小泉氏の政治姿勢は、多くの国民から強い支持を受けた。そして、この時「小泉内閣生みの母」の役目を果たしたのが、田中眞紀子女史だった。
従来の永田町政治のメインストリームからは“異邦人”だと見られており、それゆえ人気も高かった小泉・田中の二人が手を組んで登場してきたことで、国民的な熱狂は一大ブームとまでなる。それは、1993年に日本新党ブームを巻き起こし、自民党を政権与党から引きずり下ろした細川護熙(もりひろ)内閣誕生の再現を見ているかのようだった。異常な興奮は田中眞紀子女史が小泉新政権において外務大臣という重要閣僚のポストに就いたことで、最高潮に達する――。

それから、約4年を経た今日。小泉首相と田中女史とのコンビは早々に解消され、田中女史の姿は政権内どころか、自民党にすらない。そして、支持率維持を“最優先課題”にして場当たり的な印象の強い政治を行ってきた小泉首相の人気にも、いよいよ本格的にかげりが見え始めてきている。
「構造改革なくして景気回復なし」――。
就任当時、小泉首相が何度となく繰り返したこのスローガンを今思い返すと、多くの人々は空々しい気分になるかもしれない。「改革などほとんど実現しなかったではないか」、「小泉政権の公約は空約束のオンパレードだ」という声も聞こえてくる。
確かにそれはその通りだ。小泉首相が改革の俎上にあげた個別の組織や制度に関しては中途半端な点が目立つのも事実である。
しかし、日本という国の根本的な方針が、小泉政権の登場前と後では大きく変貌を遂げたというのが、私の分析である。歴史を振り返った時、あの時がターニングポイントとなったという瞬間がある。
「小泉内閣の誕生」は、日本にとってまさにそんな瞬間だったのではないだろうか。
それではいったい、何がどう変わったのだろうか。

外務省に話を移そう。
小泉政権がスタートしたとき、自民党同様に外務省もまた、未曾有の危機に瀕していた。年明け早々に松尾克俊元要人外国訪問支援室長の内閣官房報償費(機密費)詐取事件が明るみに出たのをきっかけに、「組織ぐるみ」の機密費流用や首相官邸への機密費「上納」などの疑惑は芋づる式に広がった。こうした「腐敗」は世論の猛烈な怒りを買った。
一方、この時期、本業である外交活動でも停滞が目立っていた。特に森前総理とプーチン大統領の間で行われた日露首脳会談について、北方領土問題の解決を遠ざけたのではないかという批判が強まった。2000年までに日本とロシア間で平和条約を締結するという外交目標があったのに、結局はその具体的な道筋をつけることができなかったからである。
そんな状況に置かれた外務省に、世論の圧倒的な後押しを受けて、意気揚々と乗り込んできたのが田中眞紀子女史だったというわけだ。
2001年4月。外務大臣に就任した田中女史は、自民党守旧派の幹部として、また、外交族として同省に影響力を持っていた鈴木宗男氏と鋭く対立。二人は「天敵」同士として泥仕合を繰り広げ、外務省を大混乱に陥れた――。
田中女史が外相のポストにあった約9ヶ月の間、新聞、テレビや週刊誌など多くのマスコミは基本的にこの構図で二人の関係を取り上げた。しかし、実態はそう単純なものではなかった。そこには外務省内部の権力闘争、「知りすぎた」政治家を排除したいという外務省の思惑、自民党内の内部抗争、また、支持率維持を最優先とする官邸の思惑など、さまざまな要素が複雑に絡み合っていたのである。
当初、鈴木氏は田中女史と対決する気持ちを全くもっていなかった。
実は、後に「宗男対眞紀子の対決」としてマスコミが取り上げた抗争の始まりは、最初の段階では外務省内のひとつの部署のゴタゴタに過ぎなかったと言えるだろう。
4月26日深夜、田中眞紀子女史が外相就任会見を行った後、私と東郷和彦欧州局長は、鈴木宗男氏を訪ね、ざっくばらんに話をした。因みに外務省では01年1月6日 に機構再編が行われ、オーストラリアやニューギニアなどの太平洋州諸国が欧亜局からアジア局に移管され、名称もそれぞれ欧州局、アジア大洋州局に変更された。
田中女史は記者会見で、今後の日露関係について「1973年の田中(角栄)・ブレ ジネフ会談が原点だ。(中略)当時は四島一括返還でということだったが、途中で二島先行して返還してもらうのがいいのではと方向転換している。もう一度原点に立ち返り、しっかり検討したい」と述べたのだが、そのことは、既に日露外交専門家の間では日本政府の外交方針転換に繋がると大きな波紋を呼んでいた。深夜であるにもかかわらず、在京ロシア大使館幹部からも私のところに「田中外相の真意をどのように理解すればよいのか」と照会の電話があった。
鈴木氏は「東郷さん、田中大臣は事情をよくわからないで、田中角栄に対する強い思い入れであのような発言をしているのだから、あんた、事情を丁寧に説明してやってくれ」と言った。東郷局長は、「私は以前から田中大臣とは面識があるので、私が説明すればきっと理解してくれるでしょう」と楽観的だった。しかし、後になって考えると東郷氏の「説明」が田中眞紀子女史の鈴木宗男氏、東郷和彦局長、私に対する心証を悪化させる端緒になった。
深夜、東郷局長は説明用の書類を作り、翌日、外務大臣室を訪れ、田中眞紀子女史に日露関係について説明した。東郷氏は話術が巧みで、特に政治家に対して複雑な外交案件をわかりやすく説明する才能がある。ただし、気分が高揚すると声が大きくなり、時に机を叩いたりして熱を込めて説明することがある。このときはそれが裏目に出た。この説明の直後、東郷氏から私のところに電話がかかってきて、「田中大臣は忙しく、今日は十分時間をとることができなかったので、2、3日中にもう一度時間を作ってもらう」と言っていたが、結局、東郷氏が北方領土問題について田中女史に説明する機会はその後永遠にやってこなかった。
その数日後、私は外務省幹部に呼ばれた。この幹部は、ロシア専門家ではないが、戦略的思考に優れているのみならず、口が堅く、腹も据わっているので、私も気を許して、日露関係や情報の世界の話だけでなく、日本の国内政局動向についても見立てを率直に言うような関係だった。
「東郷の大臣への説明はまずかったな。田中大臣は東郷に恫喝されたと言いふらしているよ。それから、誰が吹き込んだのかわからないが、田中さんは君のことを『ラスプーチン』と呼んでいて、『ラスプーチンを早く異動させろ』と言うんだ。田中さんは『世の中には、家族、使用人と敵しかいない』と公言しているんだけど、君や東郷に対する目つきは敵に対する目つきだ」
私は「仕方ありませんね。現代心理学でも、ある人が何かを考えることを外部から禁止できないというのが基礎理論ですから、田中さんがそう思っているならば、私はいつでも異動しますよ」と答えると、その幹部は、こう言った。
「まあ、そう言うなよ。君にしたって俺にしたってお国のために仕事をしているんだからな。大臣の使用人じゃないよ。とにかく田中さんは自分のお父ちゃん(田中角栄)は偉い。だから、日露関係でも田中・ブレジネフ会談が原点なんだ。それから自分のお父ちゃんを裏切った経世会(橋本派)は許せないという、この二つの想いで動いている。鈴木(宗男)さんは、橋本派だし、どうも田中・ブレジネフ会談と違う流れを作ったので、絶対にやっつけてやるという気持ちになっている。まあ、うまく逃げ切ることだ。君が婆さん(田中眞紀子女史)の言うなりになったら、日本の国のためにならないよ」

 


解説
従来の永田町政治のメインストリームからは“異邦人”だと見られており、それゆえ人気も高かった小泉・田中の二人が手を組んで登場してきたことで、国民的な熱狂は一大ブームとまでなる。(中略)異常な興奮は田中眞紀子女史が小泉新政権において外務大臣という重要閣僚のポストに就いたことで、最高潮に達する――。

外交に無知で、「自分と家族と使用人以外は敵だ」という考えの田中眞紀子女史が外務大臣になったことが悲劇の始まりでした。

 

獅子風蓮


「中居が消えてそれで終わり」でいいのか?

2025-01-21 01:35:18 | 芸能人・有名人

中居正広の女性トラブルに関しては、はっきりしないところも多く、論評しにくいのですが、d-マガジンでこのような記事を読みました。
核心をついていると思いました。
引用します。


FRIDAY 2025年1月24・31日号

中居正広(52)が迎えた「廃業の危機」
__このままテレビから消えてしまうのか
__フジテレビは「知らぬ存ぜぬ」の一点張り 生きがいだった野球関連の仕事も降板必至


「なんでこんなことになんべ……。勘弁してくれよ……」
1月6日深夜、『ザ!世界仰天ニュース』(日本テレビ系)の方針会議に現れた中居正広(52)は憔悴しきった様子でそう嘆いたという。激ヤセして無精ひげも伸び放題の姿からは、“国民的スター”のオーラは完全に消え失せていた――。
中居の「解決金9000万円女性トラブル」発覚を受け、レギュラー番組の放送延期、収録見合わせ、出演CM差し替えが相次いでいる。唯一残っていた地上波レギュラー番組『世界仰天ニュース』も冒頭の会議を経て、中居の出演シーンを全カットして放送。文字通り、テレビから中居が消えたのである。
「一連の放送延期、収録見合わせは中居からの申し出によるものだそうです。各局とも“次回放送は未定”というスタンスですが、実質的には降板扱いで、復帰の可能性は低いでしょう。性的トラブルを容認できるスポンサーはいませんからね。中居は精神的に参っているようで、雲隠れするかのように都内に複数所有するマンションを転々としているそうです。引退をほのめかす発言も増えていると聞きます」(キー局ディレクター)
批判の声は被害女性を中居に紹介し、中居宅での食事会をセッティングしたとされる編成幹部A氏と、彼が勤めるフジテレビにも向けられている。
「フジテレビは『当該社員は会の設定を含め一切関与しておりません』とキッパリ否定しましたが、中居に事実確認をしたのか等の具体的な説明はなし。局内では“港浩一社長(72)の覚えがめでたいA氏を庇うための勇み足だったのではないか”と危惧する声が上がっています。A氏は自宅待機が命じられた、という話が業界内で回っていましたが、元旦から出勤しており、『新春! 爆笑ヒットパレード』の生放送に立ち会っていました。その目の前で『爆笑問題』の太田光(59)が『Aプロデューサーって誰?』『日枝出てこい』と暴言発言を連発。現場スタッフはヒヤヒヤでした」(制作会社関係者)
真相を探るべく、本誌はA氏の携帯と自宅電話を複数回鳴らしたが、どちらも留守電に転送されるだけだった。太田に名指しされた“フジテレビのドン”日枝久相談役(87)を直撃するも「知らないものは知らないよ」の一点張りだった。
「巨額の解決金を支払い済みで、刑事事件にもなっていないし、テレビ局にとっては功労者。しかも、VIPの接待のために女子アナや女性局員を呼ぶなんてことはどこもやっている。各局、中居を追及することはせず、担当者の処分もなしで収束を図るのでしょう」(芸能プロ幹部)「中居が消えてそれで終わり」だと、この幹部は続けるのだった。
「メディアの間で“他にも被害者が数人いて、すでに一部週刊誌が囲っている”という未確認情報が流れているから、怖くて新規のオファーはできない。長らく音楽活動も役者もやっていないから、そのジャンルでの需要もないでしょう。ライフワークのプロ野球、侍ジャパン関連の仕事をしようにも、スポンサーはナショナルクライアントだから望み薄。中居と親しい芸能関係者によれば『預金が10ケタある』らしいから、このまま引退したって食うには困らない。“廃業”する可能性が高いのではないか」(同前)
かつて自身のラジオ番組で「もう50近いから(引退も)あるんじゃない?」と語っていた中居。その未来が、本人の思いもよらない形で実現しようとしている。

(写真は、FRIDAY2025年1月24・31日号より)


解説
「巨額の解決金を支払い済みで、刑事事件にもなっていないし、テレビ局にとっては功労者。しかも、VIPの接待のために女子アナや女性局員を呼ぶなんてことはどこもやっている。各局、中居を追及することはせず、担当者の処分もなしで収束を図るのでしょう」(芸能プロ幹部)「中居が消えてそれで終わり」だと、この幹部は続けるのだった。

恐ろしいことに、これが現場の本音なのでしょう。
なんだか、元貧乏家庭のやんちゃな少年が精一杯テレビの世界で生きてきたのに、やんちゃがばれて、一人だけトカゲのしっぽのように切られておしまい。
中居君がやったことは褒められたものではなかったけれど、VIPの接待のために女子アナや女性局員を提供してきて、それがばれそうになると組織防衛に走る。
これには、怒りを覚えます。
しかもフジテレビ以外の民放にも、同じような性接待の疑いがありそう。

これはガーシーのアテンドの件や、松本人志が後輩に女性を献上させた事件など、芸能界の闇ともいうべき性接待とは少し意味合いが違うのかな。どうなんだろう。
中居君としては、しっかりした大企業の幹部がセットしてくれる場だから、何かあってもなんとかしてくれるだろうという甘えがあったのでしょう。
甘かったね、中居君。

今後は、政財界人に対する性接待、企業間の営業にまつわる性接待などに問題が広がっていくのでしょうか。
戦々恐々としているお偉いさんがたくさんいたりして。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その9)他宗の僧侶でもきちんと評価する

2025-01-20 01:14:14 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 


freak9 - 文証より実証 鉄眼の生涯

2018年3月8日投稿
友岡雅弥

大阪の浪速区。いわゆるミナミ。豚まんで有名な(僕はシューマイのほうがすきなんですが)551の蓬莱が、本店とは別に、飲茶とかをだしているパンチャンという(むしろ本店より)大きな店があります。南海の難波駅・高島屋から、JRの湊町駅(今は、なぜかJR難波駅という名前になってますが)方向に行く途中です。

そのパンチャンの近くに、「鉄眼寺」 というお寺があります。

なんか、江戸時代的にいうと黄檗宗慈雲山瑞龍寺ということですが、親しみを込めて「てつげんじさん」と呼んではる人が多いです。

上方落語の「土橋万歳」の舞台のすぐそばです。

黄檗宗は、中国禅宗の伝統を色濃く残すので、かなり異国情緒があります。

なぜか、僕のMacの日記データの毎年9月21日の項に、「宮川左近師・鉄眼寺に」とあり、1986年9月21日に亡くなった、あの宮川左近ショーの宮川左近師がここに葬られているという記載があります。

まあ、亡くなった日に葬られたということはないので、1986年9月21日に亡くなった宮川左近師が、葬られたのは鉄眼寺ですよ、という意味でしょう。
今となっては、どういうつもりで書いたのか、分かりませんが。記録は正確、詳細を期すべきですね(反省)。

さて、宮川左近ショーといえば、ほんとうに一世を風靡した、演芸界のスターで、あの「まいど~、皆様お馴染の、お聴きくださるひと節は、流れも清き宮川の、水に漂う左近ショー」というキャッチ・ソングは、耳にしたかたもおおいでしょう。

数年前、友人が左近ショーのCDを復刻したいというので、音源を持っていらっしゃるかたを紹介し、また、左近ショーの、暁照夫先生(三味線)にもおつなぎできて、そのCDがめでたく復刻したということがあり ました。(キャッチ・ソングの別バージョンが入ってると、えらい話題になりました)

さて、今回の話は、その宮川左近ショーとは違うんですよね、これが。かなり横道にそれましたが、その宮川左近さんのお墓があるという、鉄眼寺の話です。

「黄檗宗慈雲山瑞龍寺」が、なぜ、「鉄眼寺」と呼ばれているのか、親しみを込めて、「てつげんじさん」とよばれているかの話です。

その由来は、この寺を創建というか、中興というか、実質創建というか、した、鉄眼 (1630~1682)という僧侶からです。
なぜ、親しみを込めて、浪華(浪速)のひとたちから、「てつげんじさん」と呼ばれるのか?

鉄眼といえば、2つのことが重要です。

一つは、重要無形文化財になっている、「鉄眼版一切経版木」(重文)全6956巻。

仏教の経典というのは、ずいぶん膨大で、印刷技術のない、もしくはその技術がまだ普及していなかった昔は、それを手書きで写さねばならず、たとえば、『妙法華経』は、かなり短かな経典ですが、八巻で、漢字で七万文字とかあります。

『大品般若経』とかならば、六百巻あります。文字数はうーん。

とするならば、その経典を全部書写するとかは、国家行事でなければ出来ない話。

国とか大金持ちとか(平清盛の平家納経)でなければ、できない話。

それで、鉄眼は、黄檗宗の開基・隠元に出会い、その弟子から、法を嗣ぐことになった(つまり、隠元の孫弟子となった)とき、一切経(すべての仏教経典)を、木版に彫ることを決意するのです。

一度、木版に彫ると、何部でも、増刷可能です。欲しいひとに、安価に手渡すことができる。

でも、版を作るには、木彫の職人さんがたくさん必要であり、書くよりも大変です(一度作れば、印刷できますけどね)。

それで、彼は、全国津々浦々に托鉢に出て行くわけです。

ちなみに、完成した版木は、6万枚。
横82センチ、縦26センチ、 厚さ1.8センチの桜板で、この表裏に、「20文字×10行左右見開き=400文字」で、文字が刻まれています。

「20文字×10行左右見開き=400文字」って、何か思いだしませんか?

そうです、原稿用紙です。今も使われている原稿用紙のルーツがこれなんです。この形が一番、読みやすいと、考えたわけです。

そして、書体は、今で言う明朝体なんです。これも、明朝体のルーツなんです。

一応、大学院で、インド哲学を学んでたので、この版木の収蔵庫に入ったことあります。

人間業とは思えない、膨大な手仕事に息を飲みました。

しかも、今でも刷って、安価で売ってくれるんですよ。重要無形文化財の版木から。すごいでしょう。それが鉄眼の意志だから、って。

重要文化財だからといって、秘蔵するのではなく、あくまで、たくさんの人に仏典を読んで欲しいとの、鉄眼さんの意向が、きちんと受け継がれています。

さて、これだけでは、「鉄眼さん」が浪華の人たちに親しまれている原因にはなりません。

一切経の版木を作ろうと決意した鉄眼は、全国に托鉢・勧進に向かいます。歩くこと数年。やっと、版木を彫る(ことができるだろうかなぐらいの)資金のメドが立ったとき、大坂に洪水。

鉄眼は考えました。
一切経の版木を作ろうと思ったのは、仏の教えによって、人々を救うため。ならば、それより今やることは、貧民、難民の救済ではないか。

寄付してくれた人たちの説得は大変でした。

一切経版木を作ることで、自分が功徳を積めると思っていた人々も多かった。

しかし、鉄眼は、むしろ、難民・貧民の救済こそが、仏の行いをすることになる。仏に功徳をもらうのではなく、自らが仏の行いをすることが、仏教ではないか。

それで、版木用の資金を使い果たしました。

そして、また、一から、全国托鉢・勧進。

そして、数年後、やっと、版木が作れるかな、というぐらいの寄付が集まったとき、また、近畿一円に飢饉が。

そして、鉄眼は、再び、寄進者を説得し、版木開彫を中止。

また、資金を使い果たしたのです。

そして、また、一から、全国を托鉢・勧進しました。
なんと、彼の行動に、今まで以上の寄進が集まったといいます。

そして、版木6万枚は、1678年(延宝6年)完成。

鉄眼が亡くなったのは、瑞龍寺です。

ああ、晩年は静かに、自分の寺で亡くなったのだなぁと思いはるかもしれませんが、 正反対です。

なぜ、自分の寺で亡くなったのか。

4年後の1682年(天和2年)托鉢のため江戸に赴いていた鉄眼は、近畿が大飢饉だという知らせを聴くと、すぐさま、瑞龍寺に戻り、今で言う炊き出し(米の提供)を始め、1万人以上の人々を救いました。

そして、過労で倒れ、53歳の生涯を閉じるのです。

文証より実証。理屈より行動。

どれだけ出世したかとか、どれだけ金もうけたかよりも、どれだけの人を支えたかというのが、社会での「実証」だと思いますね。

彼の生涯には、宗教者として、またひととして、学ばねばならないことが多くあるように思います。

 

 


解説
どれだけ出世したかとか、どれだけ金もうけたかよりも、どれだけの人を支えたかというのが、社会での「実証」だと思いますね。
彼の生涯には、宗教者として、またひととして、学ばねばならないことが多くあるように思います。

たとえ他宗(黄檗宗)の僧侶でも、評価すべきところはきちんと評価する。
以前の創価学会では考えられない、柔軟な思考のできる友岡さんを尊敬します。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その8)文証・理証・現証

2025-01-19 01:58:05 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak8 - 文証・理証・現証を使うこころ

2018年3月1日投稿
友岡雅弥


文証・理証・現証というのは、もともとは、仏教の考え方ではなくて、仏教からは「六師外道」と称された学派共通の考え方です。それ以上に、まあ言えば、一般教養として、多くの人々が学んでいたものです。

それらは、元のことばでは、「文証」が、「シャブダ(言語)」もしくは、「アープタ・ヴァチャナ(信頼に値する人の言葉)」。

「理証」 が、「アヌマーナ(推論)」そして「現証」は、「プラテャクシャ(直接知覚)」。

それぞれ、漢訳では「聖言量」「比量」「現量」と呼ばれています。

「量」というのは、サンスクリットの「プラマーナ」の漢訳で、「尺度」「基準」ぐらいの感じですね。

インドの学問体系で、「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」というのがあるのです。哲学用語でいえば「論理学」ということですね。「プラマーナ」は、その学問で使われている言葉です。

インドの、いわゆる一般教養としての学問がいくつかあって、「ヴィヤーカラナ(文法学)」、「ニルクタ(語源学)」「ジョイティーシャ(天文学)」等が挙げられます。数学も盛んで三角関数とか、古代から知られてましたね。

この「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」「論理学」は、仏教の漢訳経典では、「因明(いんみょう=正しい議論の根拠を明かす学問)」と呼ばれていました。

「現量」は、例えば、まさに眼前に「火」があること。熱いし、パチパチいう音が聴こえること。

「比量」は、「あの山には火がある(火事である)」「なぜかというならば、もくもくと煙がでているから」
――と、直接は見えないけど、見える煙という表象(リンガといいます)によって「推論」することです。

「聖言量」というのは、ウソをつかない信頼できる人が、「あの山に火がある」と言ってるということです。

いろんな哲学学派は、だいたいこの三つを立てます。ただし、仏教は、「現量」と「比量」しか立てません。
「聖言量」は、「信頼できる人が言っているから」という推論の結果として、「比量」の中に含めます。

日蓮大聖人も、「因明」を比叡山で学んでいました。
それは、一般教養だったからです。
最澄が、中国から取り寄せた書籍の目録である『伝教大附将来台州録』には、「因明疏(因明についての注釈書)二巻」と、明確に、因明が天台宗で学ばれていたことを示す根拠があります。

しかし、伝教は、『守護国界章』の中で「三支ノ量(因明による論証のこと)、何ゾ法性ヲ顕サンヤ」と述べていて、因明はあくまで一般の学問であって、仏教の真理を、直接顕すわけではないと述べています。あくまで、 一般教養だったわけです。

ただし、日本天台宗の9世紀半ばにかかれた文献『弁惑章』には、まさにこの因明がたくさんでてきます。

一般教養が、重視されるようになったのは、なぜか?

この『弁惑章』の中で、当時の三論宗からの天台宗批判が挙げられています。

どんな批判かというと、天台宗・華厳宗では、『法華経』の「三車火宅の比喩」で、長者が方便として語った牛車と、真実である大白牛車が同じものではない、とするのに対して、三論宗は、「なんや、どうせ、牛やから、おなじやんけ!」といちゃもんをつけてきたのです。

大したことのない揚げ足取りなわけですが、まあ、これが大論争になって、その時に、三論宗側も、天台宗側も、因明を使って論争をするわけ です。

ここで確認しときます。つまり、因明はあくまで、一般常識としての、議論の方法であり、それ自体として、「法性」、つまり、仏の境界というか、最高の真実というか、を言うものではない。あくまで、他との論争での、「方法」であるということなんです。

だから、それ自体として価値のあるものではなく、それが価値あるもの、また真実であるかどうかは、あくまで使う人が、価値あるもの、真実を語ろうとしているかどうかなんです。

逆に、口のうまい、論が立つ人が、邪なことがらを見事に人に説いていくこともあるし、

また、現証(現量)にしても、「火があるぞ!みんな逃げろ」となるか、「火があるぞ、うっしっし、あいつの家丸焼けや!」となるか、

――それは、使う人の心次第ということになるわけです。

だから、あくまで、「心こそ大切」。その言葉や論によって、何が目論まれているか、三証を使う人の意図を、見抜く力が大事なのです。

誰々さんが病気になった。→「あんだけ信心してて何やねん!」となるか。

→「すぐ見舞いにいかんとあかん」となるか。

自分はどちらかを、常に問わないといけませんね。

 

 


解説
この「ヘートゥ・ヴィドゥヤー」「論理学」は、仏教の漢訳経典では、「因明(いんみょう=正しい議論の根拠を明かす学問)」と呼ばれていました。
(中略)
日蓮大聖人も、「因明」を比叡山で学んでいました。
それは、一般教養だったからです。

勉強になります。

 

因明はあくまで、一般常識としての、議論の方法であり、それ自体として、「法性」、つまり、仏の境界というか、最高の真実というか、を言うものではない。あくまで、他との論争での、「方法」であるということなんです。

なるほど、その通りですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その7)大聖人のコペルニクス的転回

2025-01-18 01:44:02 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak7 - 寂日房御書 2/2 
 __「不祥」って“かなり”のことば

2018年2月28日投稿
友岡雅弥


前回の続きです。

「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり、まぬかれがたき身なり」p.903
「不祥なり」という言葉なのですが、これは見ても明白なように、「吉祥」の反対語です。「凶(あや)し」「怪(あや)し」「禍禍し(まがまがし)と同義語です。
どうですか?かなりの言葉でしょう?

単に、世間で損をするぞぐらいのことだけではなく、神罰・仏罰を被るぞぐらいの言葉なんです。

ここで思いだすのは、「開目抄」の一節です。

「詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」 p.232

「天」は、 Sanskritで、deva、「神」のことです。
Sanskritはインドヨーロッパ語族の代表的な文章言語で、英語なんかとも、親戚関係にあります。英語で、「女神」が diva、「神聖」が divine というのは、この古語とも関係します。

門下が、鎌倉幕府や、当時の支配的宗教に異を唱える日蓮大聖人を批判します(もちろん、世間の人も)。

「高貴な人や、神仏を敬し、霊験豊かな祈祷をなされる御坊たちを、鎌倉の田舎言葉で激しく罵る。そのために、罰を被り、神々も見捨てたではないか」

それに対する言葉が、上の「開目抄」の一節です。

つまり、日蓮大聖人は、日本的宗教に、コペルニクス的転回を行ったのです。天動説から地動説へ。

つまり、何か、功力をもった神々に祈ったり、法力を持つ人に祈ってもらったり、また、世間的な力を持つ人間に服従したり――そうすることによって、利益を得る。それが宗教というものだ!

そうではなく、宗教とは、自らが自己に目覚め仏となり、社会に目覚め菩薩となり、人を支えていく人生を生きるときの糧となるものである。

これが、大聖人のコペルニクス的転回でした。

だから、今までの「おすがり信仰」からは、忌み嫌われる不吉なものだったのです。

「かる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ」 p.502

古い宗教観からは、「不吉」と思われる存在かもしれない私日蓮。あなた達も、不幸であり、不吉であると思われる状態になるかもしれない。

しかし――

「同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」 p.1173

なのです。

 

 


解説
そうではなく、宗教とは、自らが自己に目覚め仏となり、社会に目覚め菩薩となり、人を支えていく人生を生きるときの糧となるものである。
これが、大聖人のコペルニクス的転回でした。
だから、今までの「おすがり信仰」からは、忌み嫌われる不吉なものだったのです。

私も、社会から忌み嫌われる不吉なものととらえられたとしても、正義を貫くために発言をする「不祥」な人生を生きていきたい。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮