獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その6)「臆することなき勇気の人」

2025-01-17 01:23:25 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak6 - 寂日房御書 1/2
   __四人の反乱

2018年2月25日投稿
友岡雅弥


日蓮大聖人の「寂日房御書」には、こうあります。

「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。彼のはんくわい(樊噌)ちやうりやう(張良)まさかど(将門)すみとも(純友)といはれたる者は、名ををしむ故にはぢを思う故に、ついに臆したることはなし」

ここで、中国と日本の「武将」が4人並んでいますが、「この4人」を並べて、「臆したることはなし」と高く評価されているところに、日蓮大聖人の独特の視点があります。

樊噌・張良は、秦の支配を終わらせて、漢の時代を開いた功労者たちで、日本には、華々しいエピソードが伝わっていますが、苦労に苦労を重ねた人生でした。

樊噌は、「犬殺し」を生業とする、賤しき身分だったと言われます。張良は、秦に滅ぼされた韓の高官の子孫で、秦から目をつけられ、一家は名前を変えて、流浪を余儀なくされました。弟の葬儀も出せないような貧しさのなか挙兵計画をねりますが失敗。張良捕縛の指令が出て、また、逃亡・流浪の生活が始まりました。

樊噌・張良ともに、劉邦に力を貸して、秦を滅ぼし、劉邦は、漢の初代皇帝(高祖)となります。

劉邦が、秦の首都であった咸陽に入場したとき、劉邦は、秦の皇帝のように、奢侈・高慢に振る舞おうとしました。

それを、樊噌・張良が、「それでは、秦の非道と同じです」と命を投げ出して諌めたと伝えられています(「良薬は口に苦し」という言葉は、ここから出来たと言われます。忠言耳に逆らえども行いに利あり、良薬は口に苦けれども病に利あり)。

また、漢が出来たとき、功労のあった張良はある意味、権力をほしいままにできる立場に昇り詰めることもできたのですが、「病気」と称して、辞して、隠遁の生活をしています。また、高祖が、自分にとりいろうとする佞臣ばかりを大事にするので、それをまた命を懸けて諌めてもいます。

樊噌も、何度も、高祖を諌め、そして、佞臣たちの讒言にあって、左遷されてもいます。その左遷は、高祖の死去まで続きました。

平将門・藤原純友は、承平(しょうへい、じょうへい、931~938)から、天慶年間(938~947)に起こった、東国と西国の反乱を率いた武将です。

平将門の一族は、下総の国に領地を持っていました。将門は、朝廷に官吏として使えていましたが、父が死に、故郷に帰ると、その領地は、周囲の豪族に荒らされ放題。 詳細は複雑なので、割愛しますが、やがて、将門は朝廷からも退けられ、反乱を起こし、自ら「新皇」と名乗り、関東に新しい国を作ろうとしますが、果たせず。さらし首となります。(公式文書に出ている「さらし首」の最初)

しかし、長らく、京都の朝廷から「東夷(東国の未開人)」と差別・排除されていた関東の人たちにとって、それに完全と反旗を翻し、悲劇的最後を迎えた平将門は、英雄視され、やがて神田明神に合祀されることになります。

ちなみに、明治時代になって、天皇中心政治が復活すると、天皇が行幸(訪れる)神社に朝敵・平将門が祭られているのが問題視され、将門は祭神から外れます。終戦後に、再び、祭神になっています。

ちょうど、そのころ、瀬戸内海では、海賊が跋扈していました。その追討のために、 伊予掾(伊予の管理の三番目)藤原純友が任命されましたが、討つ相手の海賊たちが、朝廷の非道な政治によって職や生業を奪われた瀬戸内海の豪族たちであり、純友自身の率いる軍勢も、都から左遷されて、瀬戸内海に土着した官吏達の末裔であったため、両者は合流し、さらには摂津(現在の大阪北部、兵庫沿岸部)の国の、(朝廷から見ると)「盗賊」らも合流していきます。
純友は、太宰府などを落としますが、やがて、追いつめられ、捉えられ、獄中死します。

日蓮大聖人が、「臆することなき勇気の人」と呼んだ人たちは、このような人たちだったのです。

 


解説
樊噌・張良……平将門・藤原純友……日蓮大聖人が、「臆することなき勇気の人」と呼んだ人たちは、このような人たちだったのです。

日蓮は、権力に屈せず正義を貫く人を尊敬していました。


現在の与党化した創価学会・公明党は大聖人直結とは言えないのでは……
その思いをあらたにしました。

雑誌「潮」(2025.01)で、学会の御用ライターともいうべき佐藤優氏は、「2030年への羅針盤」という連載記事の中で、次のように昨年の総選挙の結果を振り返っています。

筆者はこの選挙における公明党とその支持者の選挙活動を注意深く観察していた。もちろん筆者も公明党に一票を投じた。自民党支持者が、半ば当選を諦めているような状況でも、公明党支持者は最後の瞬間まで誠実に自民党候補の応援をしていた。
今回の裏金問題に公明党は一切関与していない。公明党にとって、裏金問題は「もらい事故」のようなものだ。しかし、友党である自民党の腐敗を阻止できなかったことに対し、道義的責任を強く感じている。自民党の悪を見過ごしてしまったことが、公明党員とその支持母体である創価学会員にとっては悔しいのだ。

本当なら、大聖人の批判精神を受け継ぐはずの創価学会・公明党が、自民党の裏金問題や旧統一教会とのズブズブの関係を早い時期に徹底的に批判するべきでした。
ところが、公明党は、与党の中で自民党の闇を暴くどころが、自らもその闇に汚染されていたのです。
本来、自己批判する点は、ここにあるのではないでしょうか。
創価学会・公明党は、大聖人の権力批判の原点に戻って、やり直すべきでしょう。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その5)貧賤こそ偉大な精神を生む土壌

2025-01-16 01:43:31 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak5 - “四大宗教”の始祖に共通すること

2018年2月22日投稿
友岡雅弥


昨年、むちゃくちゃ、明白な事実に、ふと気がついて、なんで、こんなシンプルなことに気がつかなかったんだろうと、おどろいたことがあります。

ゴータマ・ブッダも、イエス・キリストも、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフも、孔子も、みんな、「ひとり親」なんですよね。

ブッダは、難産で、自分が生まれたことで、母親が死んだ。生まれた時は、当然、分からなかったでしょうが、物心ついて、自分の「生」が母の「死」をもたらしたことについて、思いを巡らしたに違いありません。
仏典を見ると、沈みがちであった若き日のシッダールタのことが随所に描かれています。

イエスは、「マリヤの子」=「私生児」とバカにされました。当時のユダヤ社会では、「父親の名」で呼ばれるのが通例です。

「マタイ福音書」冒頭には、イエスにいたる系譜が出てくるのですが、ここに5人の名前が挙がっています。タマルとラハブは、娼婦。ルツは、敵視、蔑視されていた異民族モアブの女性。バトシェパは、ダビデによって「拉致された人妻」、そしてマリアです。

ムハンマドは、生まれる数カ月前に父が死んだ。

孔子は、後の時代に、権威づけるために、エラい人と関係づけられていますが、実際はそうではなく、母は売春も行う葬祭に関わる巫女、16歳で孔子を生んだといいます。しかも、墓場のようなところで。
知の巨人、白川静先生は、こう語られています。

「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。『左伝』の荘公十年に、「肉食の者は鄙(いや)し」という語がある。搾取と支配の生活は、あらゆる退廃をもたらすにすぎない。貧賤こそ、偉大な精神を生む土壌であった」(「孔子伝」)

 

日本でも、ものをきちんと考えない人たちは、「戦後の文化的な自由さ」が、家族倫理を崩壊させたと言って、シングルマザーさんを、その象徴であるかのように、「我慢が足りない」とか「我がまま」とか言って、しばしば攻撃しています。

でも、ひとり親は「倫理の崩壊」の象徴なのでしょうか。

別の角度から考えましょう。

アメリカにおいても、「保守的」「古い家族制度にノスタルジーを抱く」「家族制度の崩壊は、リベラルのせいだ」という人々が多い共和党支持の州、またバイブル・ベルトと呼ばれる保守的キリスト教解釈が広がる州があります。でも実は、そういう州のほうが、ひとり親家庭は多いのです。

cf. Jennifer Glass and Phillip Levchak," Red States, Blue States, and Divorce,: Understanding the limit of Conservative Protestantism on Regional Variation in Divorce Rates," American Journal of Sociology 119 (January 2014); 1002-46.

家族の(いい意味での)安定は、母親は家にいるべきとか、父親に威厳をとか、そういう迷信ではなく、まさに家庭の安定は、経済的安定と相関関係にあり、福祉制度の拡充が、離婚率を下げるという、明確な調査研究結果もあります。

Juho Harkonen and Jaap Dronkers, "Stability and Change in the Educational Gradient of Divorce: A Comparison of Seventeen Countries," Exuropean Sociolagical Review 22 (December 2006): 501-17.

「道徳の退廃」を嘆く人たちとの言い草とは逆に、福祉政策の拡大が離婚率低下と関連しているのです。
やはり、搾取と支配の生活こそが、あらゆる退廃をもたらすにすぎないのです。

 


解説
「貧賤こそ偉大な精神を生む土壌」という前半の主張はよく分かります。
しかし、それが後半の主張「搾取と支配の生活こそが、あらゆる退廃をもたらすにすぎない」にうまくつながりません。
無理に、戦後の「シングルマザー攻撃」に話をつなげる必要はなかったような気がします。

それにしても、私の家庭を含めかつての創価学会員には貧しい人が多かった。
その貧賤の人々の中から偉大な思想家が生まれたかどうかは分かりませんが、ご自身のお生れを「施陀羅が子」とおっしゃっておられた日蓮大聖人の生き方を誇りに、自分の家の貧しさを卑下することなく生きてこれたのは、私たちの信仰のおかげではあったと思います。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その4)法華経は「随自意」の教え

2025-01-15 01:50:34 | 友岡雅弥

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ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak4 - 諸経と法華経と難易の事 2/2
  __「随自意」って「自己中」? 
  

2018年2月18日投稿
友岡雅弥


前回の続きです。

 

本抄に、『法華経』が「難信難解」の理由として、伝教大師などの言葉をあげられながら、「易信易解は随他意の故に、難信難解は随自意の故なり」と述べられています。

「随自意」というのは、仏が相手に遠慮せずに、自分の教えを説くとい うことで、「随他意」は、相手の機根にあわせて、仏は、易しい教えや難しい教えを説く、ということです。
とりあえず、『法華経』が「無問自説」――すなわち、相手の問いに答えるのではなく、仏が自分の考え自体を述べる、「随自意」という流れで本抄は進んでいきますが、実は、『涅槃経』迦葉菩薩品も、『阿弥陀経』も、「無問自説」の「随自意」です。

このあたりをどう解釈するかが、ある意味、難しいし、醍醐味でもあります。

仏教の歴史からいうと、ゴータマ・ブッダが本当に説いたのは、「スッタニパータ」という経典の第4章と第5章の一部とされています。あとは、ゴータマ・ブッダが亡くなって何百年の間にできたものがほとんどで、多くの密教経典に至っては、イスラムがインドに入ってきて、その危機感から、インドにヒンズー至上主義が勃興しその影響下でできたものです。

それらの経典の中には、現実社会から離れた僧院で僧侶が(残念ながら、現実社会から離れた机上で)創作されたものもあり、逆に、そのような僧侶のあり方を批判した経典もあります。
例えば、「維摩経」は、そのような現実社会から離れた僧侶の机上の空論を批判して出来たので、僧侶の代表として、ゴータマ・ブッダの弟子たちが、現実社会に生きるヴィマーラキールティ(維摩)という在家の人間からこてんぱんにやっつけられるというお話がでてきます。

もちろん、「維摩経」が出来たのは、紀元前後で、ゴータマ・ブッダやその弟子の時代から何百年も経っているので、かわいそうに、 ゴータ マ・ブッダの弟子たちは、亡くなってから何百年も経った「維摩経」が成立した当時の、しかも現実社会から遠いところで、「机上の空論」をもてあそんだ「当時の僧侶」の代わりに、やっつけられているわけです。
かわいそうなものです。
ちなみに、ここでやっつけられている弟子たちは「声聞」、サンスクリットでシュラーヴァカ(ゴータマ・ブッダの教えを直接、聞いた人という意味)です。
だから、「維摩経」では、声聞は劣っているという話がでてくるわけです。

それから、別の経典では、バラモン教のヨーガ学派の影響で、修行者は瞑想をし、その瞑想でえる境地に段階があるとか書いてある。それを後の時代の人たち、さらには、経典が中国に入ってから、中国でそれを読んだ人たちが、「修行者の位階」と見ていったりするわけです。

さて、大きな問題がでてきました。そういうように、互いに矛盾したようなことが書いてある、さらには、声聞はダメだとか、菩薩には「位」があるとか書いてある、そんな経典群が、どばっと、中国に入ってきま した。

そういう複雑な、時には矛盾した事態をどのように解釈したか。

例えば、竺道生は、出家者のために説かれた教え、在家者にために説かれた教え、包括的に説かれた法華経、そして入滅の時に説かれた涅槃経という区分を考えました。

天台智顗は、釈尊はまず華厳経を説いて、人々の理解度を知り、そして仏になるのではなく、当時主流であったバラモン教と同じく「善業を積めば天国に生まれる」というような教えを説き、そして「大乗」を説き、「空」を説き、法華経を説き、入滅の時、涅槃経を説いたという、説を唱えました。五時八教といいます。
天台宗では、法華経以外は、人々の機根(理解力)の高低浅深にしたがって説かれた「随他意」の教えであり、法華経は、仏がその本意を語った「随自意」の経典である、というわけです。

うーん。苦しい説明ですが、まあ、筋は通っています。でも、『法華経』が説かれる前に、死んでしまった弟子たちはどうなってるのや、とか、突っ込みどころがあります。

実は、「随他意」という考え方により、経典の性格の違いを説明するというのは、人間には差別があり、だから、経典はいろんなパターンあるんだよ、という考え方なんです。経典の教えの違いを、人間の差別を基本として説明しようとするものなんです。ある人たちは、理解力が浅いから、バラモン教的浅い教えしか理解できない。ある人(声聞など)は、利他的ではないので、菩薩にはなれない。

でも、当時のインドで、人々が差別するような仕事についていても、利他的な行動をする人はいるわけだし、実際、ゴータマ・ブッダの弟子には、そのような生まれの高弟もいたわけです。

対して、「随自意」をよりすぐれたものとして、経典の性格を整理するやりかたというのは、すべての人が仏になれるというのが、仏教の根本思想である、と考えている、ということなんです。
今回の教材の前の部分に「諸経の如くんば、人には五戒・天には十善・梵には慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・緑覚の十二因縁・菩薩の六度・譬えば水の器の方円に随い、象の敵に随つて力を出すがごとし。法華経は爾らず、八部・四衆皆一同に法華経を演説す」とあります。
仏の教えは、一切の差別なく、平等に説かれ、平等に衆生はそれを実践できる可能性があるのです。
しかし、「而るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに隠没して日本国四百年余なり。珠をもつて石にかへ、栴檀を凡木にうれり。
仏法やうやく顛倒しければ、世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」

仏教の教えは、世間的教養や世間的身分や地位や職業や出自に関係なく、降り注がれるものなのに、日本ではそうではないというわけです。

 


解説

仏教の教えは、世間的教養や世間的身分や地位や職業や出自に関係なく、降り注がれるものなのに、日本ではそうではない……

こういう鎌倉時代の現実の矛盾に、日蓮は向き合ったわけですね。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その3)仏教とは自らが仏になる宗教 

2025-01-14 01:32:32 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

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ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

 

freak 3 - 諸経と法華経と難易の事1/2
  __無仏の時代の私のありかた

2018年2月15日投稿
友岡雅弥

このご消息(手紙)は、門下の富木常忍が『法華経』の法師品の「難信難解」について質問をしてきたことについて、日蓮大聖人が答えたものとされます。

法師品は、釈尊が入滅した後の「信仰とはどうあるべきか」を、『法華経』を創作した人たちが、書き示したものです。
一応、釈尊が自分の滅後を予想するという形ですが、歴史的事実としては、『法華経』を創った人たちが、『法華経』成立のころ(紀元前後1~ 2世紀)に置かれていた社会的状況を示すものです。

『法華経』のオープニングにあたる「序品」は、『法華経』が作られたときの時代状況を表したものと考えられています。
仏教において、利他の修行を行うものもあれば、苦行を行うもの、瞑想を行うもの、呪術的な祈祷っぽいものを行うものなど、さまざまな信仰形態が混雑していることが、「序品」の記述から見てとれます。
故に、『法華経』を創った人たちは、この混乱の時代に、「何が仏の本質なのか?」「何が仏の教えの本質なのか?」「自分たちが行うべきことは何なのか?」を徹底して考え抜いたことが、『法華経』の幕開け(序品)に、見てとれるわけです。

さて、法師品を見ると、最初に『法華経』の法門を学び、それをわがものとし、他者に説き示すことの大切さが何度も強調されます。これは、仏が入滅した、「無仏の世」において、「仏が説いた法」を自らのものとし、仏に代わって自らが「法を説くもの」となることが、仏教における本質であると宣言したものと言えます。

「如来(仏)の事(行為)を行う者」という一節が、「法師品」には現われますが、ある意味、これが法華経全体のテーマであると言えます。いや、本来の仏教のテーマであるとも言えます。
仏教とは、「仏を拝んで功徳をもらう宗教」ではなく、「自らが仏(目覚めた者)となろうとする宗教」だと言えます。

しかし、「序品」にあるように、当時の仏教には、「仏」や「仏塔」を拝んだりして、本来の仏教の精神を忘れ去ってしまったような風潮が蔓延していました。
だから、「難信難解」であるわけです。人々が「拝んで功徳をもらう宗教」と思っているのに、いや、「仏教というのは、自らが仏になる宗教だよ」と説き広めていくわけですから。だから、世間との軋轢も生じるわけです。

ちなみに、「功徳」というのは、「ご利益」のことではありません。サンスクリットで、「グナ」と言う言葉の意訳で、「優れた人徳」という意味です。

 

 


解説

仏に代わって自らが「法を説くもの」となることが、仏教における本質であると宣言したもの……

仏教とは、「仏を拝んで功徳をもらう宗教」ではなく、「自らが仏(目覚めた者)となろうとする宗教」だと言えます。

なあんだ、そうなんですね。

初期の創価学会の信仰は、本来の法華経の精神からズレていたということでしょうか。

勉強になります。

 


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「異者の旗」その2)'Michael, Row the Boat Ashore'

2025-01-13 01:21:47 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


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ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。

freak1 - カギはマイケル

2018年2月8日投稿
友岡雅弥

「漕げよマイケル」 という歌をご存知でしょうか?
英語のタイトルは、そのまま'Michael, Row the Boat Ashore'です。

始めてギターを練習したときの曲がこれでした。とても簡単で、繰り返しの多いコード進行だったからでしょう。
黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル)なので、日本の民謡と同じように、歌詞には、バリエーションがあります。

公民権運動や、ネルソン・マンデラ解放のために尽力した世界的歌手、ハリー・ベラフォンテの歌で、世界的ヒットしたのですが、その時の歌詞は、

Michael row the boat ashore, hallelujah
This old world's a mighty big place, hallelujah
It's got satan all over its face, hallelujah
Jordan's river is chilly and cold, hallelujah
But it warms the human soul, hallelujah
So, Michael row the boat ashore, hallelujah
Michael row the boat ashore, hallelujah
*繰り返しは省略しました。

さて、この歌に出て来る「マイケル」ですが、だれのことか――?それがカギです。
「ああ、友だちのマイケル君かな。がんばれマイケル君!という意味だろう」
――というように、ほのぼのしたイメージをもっているかたも多いと思います。確かに、英語の発音は「マイケル」ですが、意味的には「ミカエル」と読んだ方がいいかもしれません。
「大天使ミカエル」です。
キリスト教では、天使(天の使いです。神からのミッションを伝えに来る存在です)の長である大天使は、ガブリエルとミカエル。イスラムでいうジブリールとミーカーイールです。ジブリールは、ムハンマドに「クルアーン(コーラン)」を伝えた天使です。
それに外典などにでてくるウリエルと、ラファエルを加え、キリスト教では、四大天使が知られています。日本でよく出てくる女性とか赤ん坊の天使というのは、本来の 「天使」とは、かなり離れたイメージです。

この「漕げよマイケル」は、「マイケル君がんばれ!」 ではなく、「ミカエルよ。私たちを救って、向こう岸に渡してください」という意味なのです。だから、“row”は、「祈願文」なのですね。三単現の 's'がつかないんです。(ちなみに、アメリカの教育局は三単現の's'を廃止しようと計画しているとか)

いちおう、初期に収集・採譜された文献から、歌詞の一部を紹介しますと。

Michael row de(the) boat ashore, Hallelujah!
Michael boat a gospel boat, Hallelujah!
I wonder where my mudder (mother) deh (there).
See my mudder on de rock gwine(going) home.
On de rock gwine home in Jesus' name.
(中略 ガブリエルが勝利のトランペットを吹くなど、天国のイメージが描写される)
When de riber(river) overflow.
O poor sinner, how you land?
Riber run and darkness comin'.
Sinner row to save your soul.

"SLAVE SONGS OF THE UNITED STATES", New York:A. SIMPSON & CO., 1867

この歌が作られたのは南北戦争の時。作られたといっても、作詞者・作曲者がいたというものではなく、「読み人知らず」。つまり、誰からともなく歌われ伝えられてきたのです。一応、最初は、南北戦争の時、一つの島に隔離状態にあった黒人奴隷たちが、ボートで脱出をはかるときに、歌い出されたという説が有力です。

歌詞の中では、川はヨルダン川になっています。ヨルダン川を大天使ミカエルの漕ぐ船にのって、対岸に渡れば、そこには、天国があり、死んだ父母もまっているというのです。(なにか、今のパレスチナに生きる人たちの心も表しているような不思議な符合がある感じです)

しかし、最後のほうになると、川が溢れ、哀れな罪人の私は、死んでしまい、向こう岸に着かないかも、と歌われます。

天国に行けないかも、という意味もあるし、どこかで、またつかまり、逃亡奴隷として、殺されるかもという具体的な意味もあります。

生きている間続く奴隷としての境遇は、死んで楽園に行けばなくなるのか、また北軍が解放してくれるのか(解放してくれるはずの戦争ですが、戦火のなか、奴隷たちも逃げ惑います)、逃亡が失敗して、水死するのか、つかまるのか。

そのような、切迫した思いが、この歌には込められているのです。


解説

友岡さんは、アメリカの音楽の背景にも詳しいのですね。

歴史を学ぶと、同じ曲でも違って聴こえます。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮