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朝昼晩、時間を問わず飲んで喰って面白おかしく過ごす人生を歩みたいです。※旧名「日が沈む前に飲む酒はウマい」

鶴龍決戦の最高峰 -1989年6月5日 日本武道館-

2024年06月05日 | プロレス
記念日などの知識が乏しい私は、「○月○日は何の日?」と聞かれても、回答できないケースが多いが、
本日6月5日については、「天龍が鶴田に初めてシングルで勝った日!」と即答できる。 ※ピンフォール勝ちは初
プロレスを真剣に見なくなってから何年もたち、当該試合が行われたのは1989(平成元)年と、もう35年もたっているし、
当日、私が観戦していたのは、武道館の二階席(実質三階席)後方という、決して良好ではないポジションであったが、 
それでも、あのときの感動と興奮は、今でも脳裏に焼きついている。
私は以前、「プロレスの東京ドーム・ベスト興行は、90年2月10日の新日本」と断言したが、
日本武道館ならば、「89年6月5日の全日本プロレス」こそ、史上最高興行であり、
7年前のREBECCAを体験するまでは、ベスト・オブ・武道館ライブでもあった。

さきほど、「あのときの感動と興奮は、いまでも脳裏に焼きついている」と記したのだが、
改めて振り返ってみたところ、いろいろと忘れていたことや記憶違いがあったことが判明(苦笑)。時の流れを痛感させられるね。
たとえば、「入場者数が15200人」だったこと。私はてっきり、その後の全日・武道館では恒例となった、超満員16500人だと思い込んでいた。
ただし、客席の埋まり具合は、自身が経験したりTV中継で観た過去の武道館とは違い、二階席まできっちり客が入り、
メインのジャンボ鶴田-天龍源一郎の試合では、両者のファンの大声援が重なり合う、史上最高レベルの盛り上がり。
週刊ゴングの連載企画「河口仁のワンポイントパフォーマンス」でも、“こんなの初めて!”と記していたように、
長年、プロレス会場に通っている河口先生ですら、驚くほどの大歓声だったのだ。

この日の武道館大会は、「スーパーパワーシリーズ」の第18戦に該当。ちなみにシリーズは全20戦で、最終戦ではなかった。
当時の全日本プロレスの流れを、ごく簡単に説明すると、前シリーズの「チャンピオンカーニバル」で、
鶴田がスタン・ハンセンを破り、インターナショナル、PWF、UNの全日本シングル3大ヘビー級ベルトを統一。
三冠王者として天龍の挑戦を受けるも、試合途中、鶴田が天龍にパワーボムを仕掛けたところ、汗で滑り急角度で落としてしまい、
首を負傷した天龍がピンフォール負け。鶴田にとっても、不本意な防衛戦となった。
このアクシデント、天龍の攻めにイラついた鶴田が、あえて危険な落とし方をしたという説もあるが、定かではない。

スーパーパワーシリーズ最大の見どころは当然、鶴田と天龍の決着戦であった。
他にも、未知の強豪スティングの初来日、ブリティッシュ・ブルドックスvsカンナム・エキスプレスの五番勝負なども注目された。
リベンジを狙う天龍は、負傷の影響で前半戦を欠場。一方の鶴田は、谷津嘉章との五輪コンビで世界タッグ選手権も保持しており、
ダニー・スパイビー&ディック・スレーター組と、ブルドックス相手に防衛戦をこなし、好調を維持して武道館決戦に臨んだ。
また、負傷中のタイガーマスクと、海外遠征中のジョン・テンタと北原辰巳は、シリーズを全休した。
今、タイガーマスクと書いたが、本稿では各選手の表記は、当時のリングネームを記載している。

当時、プロレスファン歴約1年半だった私は、鶴田を応援すべく一番安い二階席のチケットを前売りで確保。
武道館入口でパンフレットを購入し、その日の対戦試合を確認すると、未発表の好カードが2試合組まれており、喜んだものだった。
ジャイアント馬場社長の挨拶文の見出しも、「今考えられる最高のカードを用意しました」だったと記憶している。

以下で、当日観戦した全11試合の結果を転記し、感想を簡単につづっていくが、
その前に、ここまで画像がなかったので、当日の武道館大会を報じた、週刊プロレス増刊号の表紙スクショ画像を掲載。
 (C)BBM

無断転記は禁止だろうが、私だって、とある興行の後楽園ホール大会で観客席にいたときの様子を、
週プロに無断掲載されたことがあったので相殺である(?)。怒られたらすぐに謝罪・削除するけど。

スーパーパワーシリーズ第18戦 1989年6月5日 日本武道館

第一試合 15分1本勝負
○小川良成 10分59秒 体固め 菊池毅× ※菊池がショルダースルーを交わそうとしたところを押し潰す

それまで、第一試合を担当していた百田光雄が、突如ファンの支持を集め、前シリーズでジュニア王者になったため、
新日本プロレスではよくあるが、全日本では希少な若手同士のシングルマッチを実施。キャリアで上回る小川が順当に勝利した。

第二試合 20分1本勝負
○小橋健太 11分15秒 フィッシャーマンズスープレックスホールド ジョニー・スミス×

デビュー後は百田らに連戦連敗だった小橋だが、このシリーズでミッチ・スノー相手にシングル初勝利を挙げ、武道館ではスミスにも快勝。
なお、週プロではフィッシャーマン~(後略)と、技名をカタカナで表記するが、週刊ゴングは網打ち式原爆固めと、昔ながらの日本式表記。
私もそちらの方が好きなのだが、現在では問題になりそうな名称なので、以下も週プロ風の表記にしておく。

第三試合 20分1本勝負
○マイティ井上 7分35秒 エビ固め 鶴見五郎× ※鶴見に担がれた井上が、後方に回転し丸め込む

元国際同士の対決。長年共闘していたラッシャー木村が、馬場とタッグを組んで以降、鶴見は連日シングルマッチを強いられるハメに。
特にテーマのない戦い(失礼)だが、井上のテクニックと鶴見のラフファイトが噛み合い、内容自体は悪くなかった。

第四試合 6人タッグマッチ30分1本勝負
○仲野信市 高木功 田上明 13分13秒 ジャーマンスープレックスホールド
ディック・スレーター ドン・ムラコ ×ミッチ・スノー

決起軍と外国勢の対戦。スレーターとムラコはかつてのメインイベンターだが、格下スノーが狙われ敗退。
なお、決起軍はこの直後、「全然決起しとらん」という明白な理由で、馬場社長により強制解散させられた。

第五試合 世界ジュニア・ヘビー級選手権 60分1本勝負
○百田光雄 14分27秒 首固め 寺西勇×
 ※トーホールドを丸め込んだ寺西を、さらに百田が切り返す
第8代王者百田が2度目の防衛

普段は15分や20分の試合に出ている、ベテラン同士による60分マッチ。当時百田が40歳、寺西が43歳と、年齢的に仕方ないとはいえ、
獣神ライガーや佐野直喜らで盛り上がっていた、新日本ジュニアと比較すると、スピードに欠ける試合であった。
寺西は入場直後、珍しくコーナーに上って観客席に吠えており、ベルト奪取への意欲を感じさせた…ような。
寺西はこれが全日本最後のタイトルマッチとなり、百田も次のシリーズで王座転落した後は、ノア移籍までタイトルに縁がなかった。

第六試合 6人タッグマッチ30分1本勝負
○ジャイアント馬場 ラッシャー木村 ザ・グレート・カブキ 14分14秒 体固め ※ランニングネックブリーカードロップ
×渕正信 大熊元司 永源遥

このシリーズから突如組まれるようなった6人タッグマッチ。個人的な印象は、カブキの無駄遣いである。
その後、渕らは「悪役商会」を名乗り、ピンクタイツ着用やツバ攻撃を武器(?)に、馬場+木村+αと休憩前に戦うようになった。
木村のマイクは、「独身・渕の嫁さん募集」ネタだったと思うが、次シリーズの後楽園大会だったかな?

第六試合終了後、休憩に入ったので、拙ブログも休憩代わりに、以前読んだプロレス書籍の画像を掲載しておく。


奥様である嶋田まき代さんの遺稿を、娘の紋奈さんが引き継いだ、天龍ファン必読の書籍である。
休憩からの再開後は、この日2度目の選手権試合。

第七試合 アジアタッグ選手権試合
ダグ・ファーナス ○ダニー・クロファット 19分35秒 片エビ固め ×川田利明 サムソン冬木

※タイガードライバー 第46代王者フットルースが4度目の防衛に失敗し、カンナム・エキスプレスが新王者となる

川田のピンチをカットすべく、コーナーの冬木が飛び出そうとした途端、観客から大きなブーイングが飛ぶ。
当時は理不尽キャラではない冬木は戸惑い、カットをためらう中、川田のダメージが蓄積され、最後はクロファットに仕留められてしまった。
そもそもフットルースは、米国のロックンロール・エキスプレスあたりを意識したらしいけど、冬木と川田じゃ荷が重いよな。

第八試合 45分1本勝負
○谷津嘉章 9分35秒 片エビ固め ×高野俊二 ※バックドロップ

先述した、パンフレットで判明した好カードのひとつで、実質、全日正規軍ナンバー2と決起軍ナンバー2の対決。
ただ、谷津が攻撃するたびに、大勢の客が「オリャー」と叫びゲラゲラ笑う、選手が戦いづらい空気となり、案の定凡戦に。
のちの川田への「シャー」など、このような掛け声ではしゃぐ全日ファンの幼稚さを、私は心底軽蔑していた。
敗れた高野は試合後、週プロ記者に不満を述べていたところ、通りかかった谷津に「(お前ごときが)バカヤロー」と一喝された模様。

第九試合 スペシャルマッチ60分1本勝負
○ダニー・スパイビー 7分39秒 首固め ×スティング ※サソリ固めを丸め込む

初来日の強豪スティングの対戦相手として、ファン投票で選出されたのは、全日外国人の次期エース候補だったスパイビー。
無論、スティングにとっても、米国時代ライバルだった(らしい)スパイビーは、相手として不足はなく、
試合開始から、ダイナミックな動きでリングを躍動。特に、リング中央からのノータッチブランチャは凄かった。
最初で最後の全日登場となったスティングだが、このあとも継続参戦していれば、三沢光晴や小橋のライバルになったのだろうか。

第十試合 スペシャルタッグマッチ60分1本勝負
○スタン・ハンセン テリー・ゴディ 14分36秒 体固め ダイナマイト・キッド ×デイビーボーイ・スミス ※ウエスタン・ラリアット

第八試合と同様、前発表されていなかった好カードのひとつ。ひと昔前の全日ならば、ブルドッグスの価値を下げないよう、
こんな試合は組まないし、組んでも両者リングアウトなどの不透明決着にしたはず。やや大げさだが、新時代の到来(笑)を感じたよ。
容赦なくスミスをKOしたハンセンの力量は当然ながら、キッドの高速ブレーンバスターを受けきった、ゴディの巧さも光った。
勝ったニューミラクルパワーズはもちろん、惜敗したブルドッグスの評価も、下がることはなかったと記憶している。
なお、週プロのウェブサイトでは、この試合のフィニッシュを「ラリアット」と記載。
ハンセンの大ファンとしては、他者と区別すべく、「ウエスタン・ラリアット」と正式名で書いてほしい。

外国人同士のスピーディーかつダイナミックな試合に、場内の雰囲気が最高潮になったところで、いよいよメインイベントを迎える。
まずは、控室での直前インタビューで、「まあ見ててください」とだけ告げた、挑戦者の天龍源一郎が、「サンダーストーム」とともに入場。


続いて、何かアピールしたいけれど言葉が出てこないため(のように見えた)、「…頑張ります」とだけつぶやきリングに向かう、
三冠ヘビー級王者のジャンボ鶴田が、テーマ曲「J」で入場してくる。


上記2枚とも、とある動画のスクショ画像である。無断掲載だが、元々は日本テレビの映像の無断投稿だろうしね。

冒頭で記したように、鶴田と天龍がリングに上がってからも、互いのファンの声援が、いつまでも収まらない。
試合内容の詳細は、私が語るよりも実際に見るべし! 「鶴田 天龍 1989年 6月5日」で検索すれば、動画がヒットするはず。
最近プロレスファンになった若い世代の方も、この試合は絶対に見た方がいい

試合中の私は、二階席からリングに向かって、「つるたー!」と叫び続けていた。こんなすごい試合を生で観ていて、よく泣かなかったな。
結果も知っていて、何度も見たはずなのに、いまだに動画を目にすると泣いちゃう、涙腺の弱い35年後の私。
負傷している天龍の首を、情け容赦なく攻める鶴田、そんな鶴田の猛攻を避けることなく受け、すかさず反撃に出る天龍…
と、文字に綴っているだけでもう…(泣)。あの時代にプロレスファンで良かった。

一進一退の攻防の中、天龍がついに得意技のパワーボムを決めるが、カウントツー。
場内の声援が絶叫になり、リングサイド最前席、天龍ファンらしきメガネのねーちゃんが半狂乱になった(動画で確認できる)直後、
天龍が立ち上がり鶴田を起こし、再度パワーボムを仕掛けるが、当然鶴田も踏ん張る。


信じてもらえないだろうが、場内が騒然としている最中にもかかわらず、二階席にいた私の耳に、
「いいいやあああっ!!」という、魂のこもった天龍の咆哮が、確かに届いた。
次の瞬間、鶴田の巨体が宙に舞うと同時に急降下し、和田京平レフェリーが、左手で3度マットを叩く。
天龍が三冠王座奪取、そして対鶴田シングル戦、初のピンフォール勝ちである。

第十一試合 メインイベント 三冠ヘビー級選手権 60分1本勝負
○天龍源一郎 24分5秒 エビ固め ×ジャンボ鶴田

※パワーボム 初代王者鶴田が2度目の防衛に失敗、天龍が新王者となる

和田レフェリーと、セコンドについていたハンセンらが支え、なんとか立ち上がり勝ち名乗りを挙げた天龍だったが、


その後再びコーナーにしゃがみ込む。翌日から、天龍は再び欠場に見舞われたように、満身創痍の勝利だったようだ。

一方、負けたはずの鶴田だったが、しばらくすると立ち上がり、コーナーの天龍に歩を進める。
乱闘を警戒するハンセンを横目に、鶴田は天龍に向かって右手を伸ばし、握手を求めた。


これは、互いの健闘を称える握手…ではなく、「こういうのって、お客さんも喜ぶでしょ」といわんばかりの、
師匠テリー・ファンク譲りの余計なパフォーマンスだと思われる。鶴田ファンの私も、名勝負に水を差す行為に呆然。
天龍が握手に応じないと判断した鶴田は、手を引きとっととリングを降り、「オー」のポーズを見せたのちに退場していく。
雑誌で読んだ天龍インタビューでは、「ジャンボとはまだ、(今後も戦っていくので)握手するわけにはいかない」のようなコメントを残していたが、
このとき天龍は内心、「鶴田の野郎、負けたくせにすぐ立ち上がって、さらに握手だと…?」とムッとしていたに違いない。
最後のやり取りはともかく、この鶴田-天龍戦は、1989年の年間最高試合に選ばれた。
彼らは、若手時代も合わせると計9度対戦したが、この試合こそが鶴龍決戦の最高峰だったと思う。

この日、私の印象に残ったのが、初めて見た武道館の大観衆と、初めて聞いた大歓声、そして、天龍の「いいいやあああっ!!」だ。
蛇足だが、私はその後、体育の授業で懸垂をやる際、腕を上げるたびに「いいやああ!」と叫び、体育教師に「うるせえ」と叱られたものである。
最後は本当に蛇足だったが、1989年6月5日に、全日本プロレスの日本武道館大会があり、
鶴田と天龍が素晴らしい激闘を繰り広げたことを、記憶していただければ幸いである。

※追記 私のブログらしく、ダラダラと冗長になってしまったが、
これでも「ミッチ・スノーは、ダイナマイト・キッドに日本とカナダの両国でイジメられていた」、
「全日のファン投票は、元から結果が決まっている出来レース疑惑も何度かあり、信用してはいけない」、
「カンナムの入場曲“Welcome To The Jungle”はよかった」などなど、削った文も多かったんだけどねえ。
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私的プロレススーパースター列伝.1 ザ・グレート・カブキ

2023年12月25日 | プロレス
この時期は毎年、背脂ぎっとりラーメンハイカロリーめしなど、クリスマスとは無縁の話題を綴っている拙ブログ。
今年は、私が大好きだったプロレスラーについて語る、新企画【私的プロレススーパースター列伝】を突如開始。
記念すべき(?)第1弾は、“東洋の神秘”の異名を持つ、ザ・グレート・カブキ

※1993年文藝春秋発行、門馬忠雄著・「プロレス血風録」より

普段は「カブキさん」と呼んでいるが、本稿では失礼を承知で、レスラーは敬称を省略させていただく。 ※リングネームは当時のもの

その前に、私のプロレスファン歴を簡単に説明。
TV中継を毎週欠かさず視聴するようになり、専門誌を買い始めたりと、
本格的にプロレスファンとしてデビューしたのが、1987(昭和62)年の12月。
その頃、日本の男子レスラーの団体は、全日本プロレスと新日本プロレスのみで、私は全日派だった。
ちょうど、87年12月以降の新日が、たけしプロレス軍団や海賊男など、クソつまらない時期だったのも理由である(苦笑)。
振り返ってみると、もっともプロレスに夢中だった時期は、88年から90年夏くらいまでなのだが、
私にとっては、この頃の全日本プロレスこそ、史上最高のプロレス団体である。

上記の期間、全日の話題の中心となっていたのが、天龍源一郎。
妥協のないファイトスタイルに、マスコミからの注目が集まり始めると、ファンの評価も高まっていき、
私が愛読していた「週刊ゴング」の読者人気投票では、87年の日本人1位は天龍だった。
東京生まれのくせにアンチ巨人で、人気者を嫌うへそ曲がりの私は、自然とアンチ天龍になっていたのだが、
いかんせん、ファンやマスコミの支持を得た天龍の勢いは凄まじく、シングルもタッグも連戦連勝。
天龍及び天龍同盟にやられっぱなしの全日本正規軍で、私が頼りにしていたのが、ジャンボ鶴田と今回の主役カブキである。

88年3月、チャンピオン・カーニバル日本武道館大会にて、待望のプロレス初観戦を果たした私は、下記のパンフレットを購入。     


ご覧のとおり、強豪たちの写真に混ざり、カブキの勇姿も下段中央に掲載されている。
ファンなったばかりの私は知らなかったが、カブキの格は、全日では上の方だった様子。
今思うと、マッチメークに不満が残る、この武道館大会についても、いつかブログで語りたい。

ここで、88年の天龍率いる天龍同盟と、対戦相手の主力メンバーを、だいたいの格付け順に記載。
○天龍同盟 天龍、阿修羅・原、サムソン冬木、川田利明
○全日本正規軍 鶴田、谷津嘉章、輪島大士、カブキ、石川敬士、ビッグ・ジョン・テンタ、渕正信、たまにジャイアント馬場 
○決起軍 タイガーマスク、仲野信市、高野俊二、高木功、田上明 ※翌89年に解散
○外国人 スタン・ハンセン、テリー・ゴディ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、ブルーザー・ブロディ(7月に急逝) 
上記以外にも、ラッシャー木村やマイティ井上もいたが、天龍との対戦機会は少なく、小橋健太はまだデビュー直後だった。

正規軍のエース鶴田は、天龍が相手だと、時折凄まじい強さを見せつけるが、それが長続きせず(笑)。
滅多に本気を出さないのが、鶴田の美学であり、魅力のひとつなんだけどね。
一方のカブキは、天龍に共鳴するかのように、激しい攻撃には激しい攻撃で返す。
中でも、顎を的確にとらえるアッパーカットと、顔面に突き刺すトラースキックは、
何度も形勢を逆転した実績があり、観戦している我々も「痛い!」と感じる技であった。


上記のトラースキック画像は、さっきの武道館大会のパンフレットに載っていたもので、
本人紹介画像がこちら。後日サインをいただいた。


「脚光! 俺達ユニーク族!」のキャッチコピーがあり、左隣には、“人間バズーカ砲”の高野が掲載されている。
当時のカブキは、強さや巧さよりも、個性的なキャラが強調されていたようだ。
カブキの存在は、当時は非プロレスファンにも知られており、特に有名な特徴が、
○顔面にペイントをしている ○毒霧を吐くの二点。

ペイントは、歌舞伎調の隈取メイクから、後年はバットマン風など、独自のものに変化。
リング外では当然、素顔で生活している。下記は15年ほど前、ガラケーで撮影したものだ。


先駆者もいたペイントレスラーだが、毒霧はカブキが元祖。赤い霧を噴射した直後に、緑の霧を吐くこともあった。
今気づいたが、の毒霧とは、クリスマスカラーではないか(笑)。

本人に直接、毒霧の正体を質問したことがあったが、「企業秘密だ」の一点張りで、結局教えてもらえなかった。
有名なスポーツライターで、この頃は週刊ゴングでコラムを執筆していた二宮清純さんに、
「カブキさんは控室で、自前の緑茶をよく飲んでいた」と聞いたことがあるが、真相は不明である。

プロレスファンになる前の私は、カブキは個性的というか、色物レスラーのような失礼な認識をしていたこともあり、
天龍との激しい攻防は、正統派の鶴田よりも興奮させられた。今でいう「ギャップ萌え」になる…のかな。
当然、天龍vsカブキのシングルマッチも期待したのだが、当時の全日は、格が近い選手同士は滅多にシングルマッチは組まず、
組まれたとしても、両者リングアウトなどの引き分け決着がお決まりだった。
タッグマッチでも、必ず負け役がひとり混ざっており、いない場合はやはり、不透明決着である。
私が待望していた、鶴田、カブキvs天龍、原という、負け役不在のカードが実現した際も、案の定両リンであった。

そんなある日、試合後の天龍がマイクを握り、「カブキ、こっちに来いよ」と手招きし、天龍同盟に誘ったことがあった。
週刊ゴングによると、天龍は「ジャンボのお守りをしているカブキが気の毒だったから」と語ったそうだが、
常に激しく抵抗するカブキに手を焼き、懐柔しようと企んだのでは? というのは考えすぎか。結局、勧誘アピールはその日限りだった模様。
数年前、カブキに「あのとき、天龍同盟に入ろうと思わなかったんですか?」とたずねたところ、
「そんなことあったっけ?」と記憶になかったようで、「源ちゃんとは戦った方が楽しいし、共闘する気はなかった」と否定。
天龍&カブキのえげつない攻めに、本気で怒る鶴田…なんてシーンも見たかったけどね。

年末には原が解雇され、輪島と石川が引退。顔ぶれは変わったが、翌年以降も天龍同盟と正規軍の対決は続き、
むしろ、日増しに熾烈になり、それと同時に、天龍が明らかに不機嫌になっていく。
それは、カブキの攻撃がキツイからではなく、リングの激闘に対する低評価や、安易なマッチメークが原因らしい。
不満を抱えた結果、天龍は新団体SWSにスカウトされ、全日を離脱してしまう。

一方のカブキも、露骨に態度には出さないため、私は気付かなかったが、待遇面での不満は、やはりあったらしい。
有名な「1試合あたり100円上げてやるよ(=年間で2万円以下)」という馬場社長からの提示は、
1試合で100ドル(=3万6千円の時代もあり)アップも珍しくない、米国で活躍していたカブキにとって、屈辱的な提案だったはずだ。
米国でカブキとしてブレイクした途端に呼び戻し、けれども自分より目立つことを恐れ、CMや取材依頼などを勝手に断り、
さらには試合だけでなく、若手へのコーチ役も務め、団体には貢献してきたはずなのに、給与を出し渋る馬場と妻の元子に、
カブキは長年、不信感を抱き続けていたようで、天龍に「オレもSWSに連れてってくれ」とお願いしている。

本人はその気がなかったかもしれないが、ファンの私としては、タイトル戦線でのカブキも見たかった。
元UNヘビー級王者のカブキと、現王者天龍のタイトルマッチも、東京の会場ならば絶対に生観戦したし、
タッグの名手として、ベルトも狙ってほしかったが、PWFタッグやインタータッグを奪うには、めぼしいパートナーがおらず、
アジアタッグは、高千穂明久名義だった頃に王者だったが(パートナーはサムソン・クツワダ)、
カブキ変身後は格が上がったため、中堅レスラー専用と化した同タイトルには、挑戦機会が与えられなかった。

天龍離脱後、追随し退団するレスラーが続出し、鶴田のパートナーだった谷津も、負傷を理由に退団すると、
全日は突然、PWFとインターを合わせた世界タッグに、鶴田・カブキ組が挑戦することを発表。
「こんなときだけカブキに頼りやがって!」と、馬場社長の遅い決断にあきれた私も、タイトル挑戦は素直に大喜び。
対戦する王者チームは、ゴディとスティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビ。テキサスでも対戦経験があり、旧知の仲だったゴディに、
「今度お前と選手権試合だが、わかってるだろうな?」とカブキが脅すと、「イエッサー!」と返答したらしい。
試合は当然、日本組の勝利。カブキ久々のベルト奪取に、拍手喝采したのもつかの間、
その数日後には、キオスクで売っていた東スポに、“全日本プロレス崩壊 カブキも離脱”という見出しが掲載。
半泣き状態で買ってみると、崩壊の下に“危機”の二文字があったが、離脱の下には、“か?”などの否定するマークや単語は見当たらない。
結果、カブキは本当に退団してしまい、全日への興味が一気に失せた。 ※鶴田の新パートナーが田上だったのも腹が立った
最初の方で、「プロレスに夢中だった時期は、88年から90年夏くらいまで」と記したが、
要するに、カブキが全日を去ったことで、私のプロレス愛も、ちょっと冷めてしまったのである。 

突然の退団ついては、2014年に発行の著書「“東洋の神秘” ザ・グレート・カブキ自伝」で本人が明かしているが、


私はそのだいぶ前に、カブキに直接、「失礼な質問かもしれませんが…」と前置きし、恐る恐る理由を聞いていた。
「退団は急ではなく、前から決めていたの。最後に出て行ったのは、源ちゃんとの約束だったから。
何か問題(=離脱者への制裁など。日本プロレス時代にはあった)が起きないよう、オレがしっかり見張ってやるから、ってね」
ちなみに、自伝では「馬場さんにいいしっぺ返しをしてやった」とも語っていた。

※自伝の表3にもサインをもらった

確かに、再契約金を受け取り、タッグベルトも奪取したことで、
「今こそカブキには、吉村道明さんのような存在になってもらいたい」と、
カブキが目標としていた、日本プロレス時代のバイプレーヤーの名前まで出して賞賛した馬場は、
数日後に辞表を出し、契約金も返却してきたカブキに、大きなショックを受けたはずだ。
質問時に僭越ながら、「カブキさん、あのときは私もショックでしたよ」と伝えたのを覚えている。

今、「さん付け」をしたので、ここからは再び、敬称で呼ばせていただく。
日米を股にかけて大活躍した、リング上での功績は素晴らしいカブキさんだが、
リングを降りたあとも、居酒屋を経営し、多くのファンを喜ばせているのは周知のとおり。
飲食店を出している著名人は多いが、実際に本人がお店にいるケースは少ないし、
いたとしても、サインや記念撮影は有料、会話も一切しないという、某レスラーが営むひどい店がある一方、
カブキ店主は、サインも記念撮影も無料で、来客とは一度は必ず乾杯をし、会話も交わせる。
運がよければ、長時間会話ができ、私がしたようなプロレス関連の質問も、快く回答してくれる。

お店は当初、飯田橋で開業し、当時の店名は『串焼き・ちゃんこ かぶき』。場所は、先日紹介した『雲仙楼』の隣だった。

※お店のフェイスブックより拝借

その後、春日に移転し、屋号も『BIG Daddy酒場かぶき うぃずふぁみりぃ』に変更し、現在に至る。


写真の百田光雄さんのように、レスラーの訪問が多いのも、ファンには嬉しい。

※2013年、飯田橋店で撮影

私は会えなかったが、ハンセン氏も何度か来店しており、サイン入りのカウボーイハットを寄贈していったそうで、
客なら誰でも、実際に被って記念撮影もできる。私も当然、撮らせてもらった。


カブキさんには、プロレス界のいろんな話を聞かせていただいたし、中には、目からウロコの新事実もあった。
それも紹介したいところだが、ここまで、かなりの文字数を費やしているため、
印象に残っている質問をいくつか再現することにとどめる。Qが私で、Aがカブキさんだ。
Q 史上最強だと思うレスラーは?
A 間違いなくアンドレ(・ザ・ジャイアント)だね。前田日明との不穏試合? あれもアンドレは本気になっていないよ。
Q それでは、史上最強の日本人レスラーは?
A マサやん(=マサ斎藤)だよ。米国ではタッグも組んだし、ベストタッグパートナーもマサやんだな。
Q 私は、史上最強の日本人レスラーは、ジャンボ鶴田だと思っていたのですが、間違いですか?
A (鼻で笑い、無言)
私は納得していないが(苦笑)、鶴田がなぜダメなのかも詳しく説明してくれたので、それもまた、別の機会に。

ここまでダラダラと綴ってきたが、プロレスラー・カブキについて書きたかったことの半分にも達していないので、いつか続編を書きたい。
さらに、居酒屋店主・カブキ、つまり営んでいるお店についても語りたいが、それは次回に回す。
今回は、お料理をひとつだけ紹介。鶏の照り焼きを、テキサスの荒馬兄弟風に変名した「ドリーテリー焼き」。


商品名だけでなく、味も楽しめる、商品の数々を紹介するので、乞うご期待。



ザ・グレート・カブキ
本名:米良明久 ニックネーム:東洋の神秘
全盛期の公称サイズ:身長184cm、体重110kg
主なタイトル歴:UNヘビー、世界タッグ、アジアタッグ他
得意技:トラースキック、フィストドロップ、毒霧攻撃など
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映画『アントニオ猪木をさがして』を観てきた。

2023年10月07日 | プロレス
映画に興味がない私が、実に39年ぶりに、自分の意思で映画館に行ってきた。
その作品とは、昨日10月6日公開の『アントニオ猪木をさがして』である。


今回は、拙ブログ初の【映画レビュー】となるが、ネタバレを気にする方は、読まない方がいい。
あと、作品の感想だけでなく、映画館の情報など無関係なコトもダラダラと綴っているので、
途中で読むのを辞める人も多そうだけど(笑)、まあそれは仕方がない。
これでも一応、上映前に食べたラーメンとか、駐車場から歩道へ出る抜け道の情報とかを省いたんだけどね。
なお、文中はすべて敬称略とさせていただいた。

上映している映画館は、地元の「TOHOシネマズ 立川立飛」(以下「立川立飛」に略)がもっとも近かった。
この日は、立川駅北口に小池百合子都知事が来ており、群衆で混雑していたが、当然私は素通り。
アントニオ猪木と都知事、どちらが大事かは、書くまでもない。

他の映画館は知らないが、立川立飛では『アントニオ猪木をさがして』の大人料金は2000円。
曜日や時間などによって割引があるようで、私は500円安い、21時25分からのレイトショーを選択。
昔は、基本料金が1500円くらいだったが、他の物価が上がっている割には、映画は価格維持に努めていると感じたよ。
比べるのも変だが、甲子園の高校野球やディズニーランドなんて、すげえ値上げしてるからね。

ネットで席を予約&購入してから来館するのが主流のようだが、アナログ人間の私にはムリなので、
昔のように現場に着いてから買うことにした。立川立飛には、上映開始30分前くらいに到着。


入場券を購入したいのだが、担当の係員さんが見当たらず。すると、ポップコーンなどを販売しているお姉さんが、
私の存在に気付き、連絡してくれたようで、奥の部屋から男性係員が出てきた。
「チッ、メンドくせーな」のような表情はせず、券売機へ誘導し、買い方を親切丁寧に教えてくれた。
他の市町村では当たり前かもしれないが、立川市でこの応対は貴重である。  ※あくまで個人の感想です
何でもないようなことが幸せに感じる、「ロード」の歌詞のような街、それが立川だ!

ちなみに、公開初日とはいえ大入りではなく、私が自宅を出る19時前の時点で、97席中7枚しか売れてなかった。


猪木作品だけでなく、同じ時間帯に上映の『ミステリと言う勿れ』は、3枚しか売れてなくてビックリ。
ミステリ~は「大ヒット上映中」らしいが、立川は例外なのかね。

猪木の映画も、上映開始直前でも席に余裕があり、周囲に人がいない、中央の前から3番目の席を購入。


終演後、退館していく客を数えたら、私を入れて11人だった。

係員の応対は素晴らしい立川立飛だが、残念だったのが、お土産が少なかったこと。
作品HPの「劇場販売商品」では、下記のように品揃え豊富なのだが、


ここで売っていたのは、猪木関連のムック本やブロマイドなど数種のみ。


女性係員にたずねても「そこにある物しかないです」とのことなので、「パンフレット」880円だけ購入。
冒頭で載せた画像の右が、そのパンフレットで、左が来場者プレゼントのステッカーだ。 ※再掲載


ステッカーの正式名は、「新日本プロレス旗揚げ記念ポスターのデザインステッカー」で、


マニアとしては嬉しい配布物だが、どこに貼るか迷ってしまう…あ、貼らずに保存するべきなのか。

もうひとつ残念だったのが、上映開始時間になっても予告編パートが続いたこと。本編が始まったのは、推定10分後だ。
最近は他の映画館もそうなのかもしれないが、21時25分上映開始なら、せめて2分後くらいから始めてほしいね。
ここからようやく、作品解説に入る。映画館の予告編を批判しておきながら、自分のブログも前置きが長すぎるね。反省。

まずはキャスティングについて。猪木について語るプロレス関係者が、
藤波辰爾、藤原喜明、棚橋弘至、オカダ・カズチカらレスラー陣に、猪木の試合を長年撮影してきた、カメラマンの原悦生。
藤波と藤原は、一時期はともかく、長年猪木シンパだったし、棚橋とオカダは、比較的アンチが少ない、はず。
原カメラマンは、プロレスマニアなら誰もが知っていながら、嫌いな方はほぼいない、稀有な存在。
猪木信者と称される熱狂的なファンも、納得の人選だったと思われる。

タレント陣では、俳優の安田顕、くりぃむしちゅーの有田哲平、講談師の神田伯山らが出演し、福山雅治がナレーターを担当。
プロレスファン以外の集客が望める、上記タレント陣の起用は、商業作品としては当然であろう。
恥ずかしながら、私は安田という方が何者なのかわかっておらず、国民的大スターらしい福山も、
バファローズファンの私にとっては、吹石徳一の娘婿という認識である。それはさすがに極端か。
私がよく知っているのは有田だけだが、芸人の中でも彼は、プロレス通として評価されている。
いきなり名前を出すけど、勝俣州和なんて、知識は浅くレスラー愛も薄っぺらく、
私がもっとも拒む、ただ騒がしいだけのミーハーであり、プロレス好きを名乗らないでほしい。
有田はその点、知識も豊富でレスラーへのリスペクトも感じるが、それでも、
「数年前の『アメトーク!』プロレス特集で、畑浩和と松田納(エル・サムライ)を間違えた」などと、
過去のちょっとしたミスを指摘・批判するような、うるさいプロレスファンもいる…私のことだけど。

現在では信じられないだろうが、私の世代のプロレスファンは、芸能人などの部外者が、レスラーと絡むことを拒絶していた。
「俺たちが尊敬する猪木に、タレントごときが近寄るんじゃねえ!」といった感情だろうか。
当時大人気だった、ビートたけしが率いる「たけしプロレス軍団」でさえも、反発を受け暴動が起きたのは有名。
今作品も、主要ターゲットと思われる猪木ファンから苦情がこないよう配慮し、
レスラーもタレントも、無難な人材をキャスティングしたのでは…と感じてしまった。

ところが、今回の映画については、さっき名前を出したレスラーの棚橋が、
「猪木さんを知らない人でも楽しめる作品にしてほしい」という要望を出したそうだ。
それがどこまで反映されているのかは不明だが、作品は、猪木の過去を探ったり、猪木について関係者が語る、
ドキュメント部分が大半を占める一方、猪木ファンの少年の成長をつづった、ドラマ部分も含まれている。
だが、個人的には正直、ドラマは不要であった。
3部構成だが、時間が短すぎたため、先述の安田が「猪木~っ!」と絶叫するシーンも、いかんせん唐突に感じたし、
80年代なのに「ホーガンにリベンジ」なんてセリフがあるなど、時代考証もいい加減で、観ていて冷めた。
※「リベンジ」という言葉は、90年代のK-1が使い始めた

ドキュメント部分も、このときに紹介した、控室でアナウンサーを殴り怒鳴りつける猪木など、


かつての名シーンもいくつか流れたが、未公開の貴重映像は特になし。
神田伯山の巌流島での講談パートや、安田&原のトークパートはなかなか良かったが、
予告編や、パンフレットでの「誰も知らない燃える闘魂がここにいる」は特に見当たらず、
あえて挙げれば、「ブラジル移住後の猪木一家が住んでいた場所を紹介」した程度。
確かに未知の情報だが、ブラジルの土地勘がない私にとっては、「へえ~」という感想しか沸いてこない。
棚橋やオカダが「初めて語る猪木」というのも、彼らと世代が違う私には、あまり響かなかった。

ここからは、かなりの「ネタバレ」になるので、映画を観に行くつもりの人は、読まない方がいい。





さっき書いた、安田の絶叫シーンや、巌流島での講談などは、予告編でも目にすることができる。
もっとすごいシーンがあるかも…という期待は裏切られ、どうやら予告編=名場面集だった模様。
エンドロールでは、若い頃の福山が猪木と一緒に撮った写真も紹介されたが、それもHPで公開している。
観客を驚かすためにも、あの写真は本編まで隠しておいた方が、よかったと思う。

最後は、ナレーター福山の「アントニオ猪木は、我々の中で今も生き続けている」
のようなコメントで締められたが、これは、私が昨年書いた、猪木追悼ブログの結末とほぼ同じである。
プロレス業界とは無関係な、部外者の私でも思いつくようなフィナーレで、観客の心をつかめるのだろうか?

猪木のエピソードは、生前からさんざん語り尽くされていたので、新たな事実はないだろうと薄々わかっていた。
また、猪木への想いはファンの数だけあるため、全員が納得する作品制作が、ほぼ不可能なのも理解していたが、
私自身はやはり、楽しめない側であった。上映前の予告編が長くてムカついた、のも原因かもしれない(苦笑)。

没後1年という縛りがあったのかもしれないが、1年といわず、もっと長い時間をかけて、
アントニオ猪木という希代のヒーローを、徹底的に掘り下げてほしかった。
今回の作品がヒットするのかは、私にはわからないが、仮に続編が作られる場合は、
長期間の取材とロケを敢行し、今度こそ「誰も知らない燃える闘魂」を探し当ててほしいね。
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アントニオ猪木、初めての「1、2、3、ダー!」 -1990 2.10 東京ドーム-

2022年10月10日 | プロレス
数年前のハンセン・ディナーショーのときに記したように、若い頃は、プロレスファンだった私。
当時のレスラーは、日本勢も外国勢も、常人離れした肉体と、パワー、スタミナ、テクニックを合わせ持っていた。
ネットもブログもなかったため、私生活も謎に満ちていて、自己主張は滅多にしない。
己の肉体のみで語る、いい意味で近寄りがたい、尊敬すべき方たちであった。

最近は生観戦の機会がなく、土曜深夜に地上波で放映している、新日本プロレスをたまに観る程度。
時代の流れとはいえ、試合後にレスラーがマイクを握り、観客に長々と語りかけ、
最後は観客も一緒になって、「愛してま~す!」などと叫ぶのは、どうにも違和感がある。
ファンに歩み寄り、親しみを感じてもらうことも、興行面では大切だろうが、さっきも書いたがレスラーはやはり、
一般人に敬われ、時には畏怖されるような存在であってほしい…というのは時代遅れの暴論だろうか。
少なくとも、私が試合会場に足を運んでいた頃は、多少の好き嫌いはあったものの、
すべてのプロレスラーを尊敬していた。 ※のちに健介は除外
その中でも、特に心惹かれたレスラーが、先日天国へと旅立ったアントニオ猪木である。

※画像については後述

へそ曲がりな性格ゆえ、他人と同じ行動は、するのもさせられるのも苦手な私。
先述した、【会場全体で声を揃え、決めゼリフを叫ぶ】という一連の儀式(?)は、どうにもゴメンである。
WWEの影響なのだろうけど、文化が違う日本には、あまり似合わないと思うのだが。
そんな私が、プロレス会場で唯一参加したのが、今回のタイトルである、「1、2、3、ダー!」である。
8日深夜のプロレス中継、猪木追悼特集で最後に使用された映像も、そのシーンであった。

舞台となったのは、1990(平成2)年の2月10日に行われた、新日本プロレスの「スーパーファイトin闘強導夢」。
個人的には、プロレスの東京ドーム大会では、史上最高の興行だったと思っている。
ジャンボ鶴田ら全日本プロレス勢の電撃参戦に、スタン・ハンセンvsビッグバン・ベイダーのド迫力ケンカ試合、
さらには、元横綱・北尾光司の抱腹絶倒デビュー戦(笑)や、ゲスト解説者が田代まさし(苦笑)など、


とにかく見どころ満載の大会なので、いつか拙ブログでくわしく紹介したい。需要があるのかは怪しいが。

そんな興行のメインを担ったのが、スペシャルタッグマッチ・60分1本勝負、
アントニオ猪木・坂口征二vs橋本真也・蝶野正洋であった。


今回は、アントニオ猪木を追悼するべく、この試合を解説していくが、その前にお断りを。
当日、私はドームで生観戦していたが、後日放映されたTV中継も、当然録画した。
最近、その動画をVHSからDVDに焼き直したが、それをパソコンやこのブログに取り込む技術は、私にはない。
なので、再生した動画を、私がデジカメで撮影するという、超アナログ方法で取り込んだ画像を、以下で掲載していく。
今までの猪木や田代まさしの画像も、その作業を経たものである。
古いVHSテープで保存状態も悪く、撮影もヘタなので見苦しい画像が続くけど、カンベンしてほしい。

まずは入場シーン。白装束姿の橋本・蝶野組が、両者の合体テーマで先に入場。


続いて、「炎のファイター」が流れる中、ガウン着用の猪木と坂口が入場。


彼らが入場する前、控室でインタビューを受けていたことは、我々観客は知らなかった。
まずは猪木側控室。放映料を払ってくれる、スポンサーのテレビ朝日によるインタビューとはいえ、
試合前の集中を妨げられた猪木は不快感を隠さず、質問されても「オレに聞くな」と言わんばかりに、隣の坂口を指差す。
仕方なくマイクを向けられた坂口は、「精一杯やります」などと、無難に返答。


その後、リポーターはよせばいいのに、再び猪木にマイクを向け、
「もし負けたら…これは勝負の時の運では済まされないと思いますが…」という内容の無礼な質問をぶつける。
当時、猪木は参議院選挙に当選し、以降はほぼリングに上がっていなかった。引退も噂されていたとはいえ、
「負けたら潔く身を引け」と言わんばかりのリポーターに、無言を貫いてきた猪木も、さすがに黙ってはおられず、
「(試合に)出る前に負けること考えるバカいるかよ!」の反論と同時にビンタを放つ!


「出てけコラぁ!」と猪木が叫び、インタビューは終了。TVの前の私が、興奮で身震いしたのは書くまでもない。


強く叩いたようには見えなかったが、被害者の佐々木正洋アナは、病院に行くハメになったらしい。
シロウトへの暴力沙汰なんて、現在なら大問題だが、当時のプロレスファンは「猪木よくやった!」と絶賛。
このシーンはぜひ、ドームの場内ビジョンでも流してほしかった

カメラは切り替わり、若手コンビの控室へ。当時は「闘魂二銃士」と名乗っていた記憶も…。
まずは蝶野がカメラに向かい、「(猪木たちを)潰すよ今日は、よく見とけオラ!」と凄んだ。これはまだいい。
続いてカメラが向けられた橋本は、「時は来た!」とだけ叫び、「…それだけだ」と小声でつぶやく。


「ついにオレたちが天下を獲る時が来た!」という意味自体はわからなくもないが、タイミングが唐突だったし、
その後の「…それだけだ」も、照れ隠しのように感じてしまうのが、どうにもいただけない。
それより問題なのは、隣で聞いていた蝶野。橋本のキテレツ発言に吹き出してしまい、


カメラに撮られていることに気付くと、あわてて口元に握り拳を置き、平静を装うことに…失敗(笑)。


隣の橋本の「ゴメン、失敗しちゃった」と言いたげな表情といい、大一番の直前なのに、緊張感のない奴らだ。
彼らのシーンは当然、ドームの場内ビジョンで流さなくて正解
とりあえず、控室での応対は、猪木&坂口=黄金コンビの完勝である。

両チームがリング上で対峙し、蝶野、橋本、坂口の順で名前をコールされ、猪木が名前を呼ばれた瞬間、
蝶野目掛け、奇襲の飛び蹴りを放ったところで、試合開始のゴングが鳴る。
ちなみにキックは当たっておらず、この日の猪木は技のミスが目立ち、調整不足を感じさせた。
ひとつ前の北尾の試合が酷すぎたため(苦笑)、悪印象こそなかったが、実はこの試合も、内容的には凡戦である。
ただし、猪木はその後、約8年間にわたり、東京ドームなど大会場限定の参戦を続けたが、
以降は年齢を重ねたにもかかわらず、試合のクオリティが下がらなかったのはさすがであった。

先発の坂口から交代した猪木が、蝶野と向かい合う。この試合には特別レフェリーとして、鉄人ルー・テーズが招かれた。


当日は第一試合開始直前、場内ビジョンにて、猪木&坂口組の過去の試合映像を流していたのだが、
対戦相手は、テーズ&カール・ゴッチの最強コンビ(1973年10月14日、蔵前国技館)。
当時57歳のテーズが、坂口に鮮やかなバックドロップを決めたシーンに、ドーム内がどよめいたものだった。

猪木の見せ場のひとつ、観客にアピールしてから倒れ込む、インディアンデスロック。


見せ場その2、個人的に、猪木の技では一番好きかもしれない、「鉄拳制裁」ことナックルアロー。


見せ場その3、晩年のフィニッシュホールドだった延髄斬り。猪木以上の使い手を、私は知らない。


見せ場その4、卍固めは…しっかりとは決まらず、蝶野に跳ね返され、


逆に綺麗に決められてしまう屈辱。なお、写真の蝶野は「どうだエー」などと叫んでいるだけで、笑っているのではない。


当時の私は、「猪木より蝶野の方が卍固めがうまいのか…」と悲しくなったものだが、
これは掛ける側ではなく、受ける側の問題であり、猪木より蝶野の身体が、柔軟ではなかっただけである。
後年になってから判明することも多々ある、「プロレス道」の奥は果てしなく深い。

坂口の見せ場も紹介。得意技のひとつである、ジャンピングニーアタックが決まる…寸前の画像。


決まった瞬間は、ロープが邪魔で撮影できず。これは、テレ朝のカメラ位置が悪い…はず。
橋本は好き放題に蹴りまくり、ほとんど相手の技を受けず、受けるのは蝶野ばかり。
気の毒なので、蝶野の見せ場となるSTF…ではなく、あえてバックドロップを放つ瞬間を掲載。


蝶野のSTFやバックドロップは、この試合でレフェリーを務めたテーズに教わったもの。
あまり話題になった記憶はないが、蝶野のバックドロップは形も美しく、もっと評価されていいはずだ。
再度のバックドロップを、空中で切り返した猪木は直後に、この日2度目の延髄斬り!


すかさずカバーに入ると、控えの坂口が飛び出し橋本をカット、テーズが3カウントを叩き逆転勝利。


結果に納得できない橋本の抗議を受け流したのち、両手を上げて、ファンからの声援に応える黄金コンビ。


それにしても、右端にいるマサ斉藤(当時のリングネーム、以下同)は、当時47歳とは思えぬ、ごっつい肉体をしている。

このとき私は、全試合終了後のドサクサに紛れ、1階アリーナ席の前の方に潜り込んでいた。
もう少しでリングサイドに行けたのだが、場内警備をしていたジョージ高野が立ちふさがり、
「すみません、一般の方は、ここから先はご遠慮ください…」と、丁寧にお願いされたため、
「ああっ、ジョージさん、ゴメンなさい!」と謝りつつ、退散せざるを得なかった。
のちに、酒癖の悪さや練習不足などを批判されたが、私にとって、ジョージ高野はいい人である。

その後、マイクを握らされた坂口が、「猪木さぁん、またタッグ組むよお(組もうよ、の意?)」と呼びかけたが、
この1ヶ月後に坂口が引退したため、猪木&坂口の黄金コンビは、この日が見納めとなった。
続いてマイクを握った猪木は、プロレスとスポーツを通じての世界平和を訴え(当時の猪木は「スポーツ平和党」党首)、
観客の苦笑いを誘ったのち、橋本と蝶野の成長と、自身の不甲斐なさを認めながらも、
「我々は戦い続けます!」と最後に力強く宣言し、大会を締めくくった。…はずだったのだが、
田中秀和リングアナから「社長、ダーをお願いします」との要望を受け、再びマイクを握る。
猪木は以前から、ビッグマッチで勝利した瞬間、「ダー!」と雄たけびを上げていたが、
自分の意志ではなく、他人からの要請で叫ぶのは、おそらく初めてである。
しかも、「1、2、3でダーです」と猪木自らが指を折り、観客に指示まで出してくれるではないか。


以後、プロレス会場以外でも何度となく披露された、「1、2、3、ダー」は、この日が初公開である。

「イーチ!」「ニー!」という猪木のカウントが始まり、「サン、ハイ」の直後、
猪木とレスラー、私を含む6万人超の客が、「ダー!」と叫んだ。


猪木が叫んだ瞬間は、ロープと重なっていたため、上記はダー直後の画像である。

勝利の咆哮も終わり、場内には再度、「炎のファイター」が流れ始め、我らの英雄・猪木が退場していく。


このとき、あまり知られていないが、猪木に忍び寄る黒コートの男がいたのである。
猪木の大きな背中の左側、丸囲みの中にいる男の正体こそ…若い頃の私である(笑)。


この後、私は「猪木さ~ん」と叫びながら接触を試みたが、すぐ近くにいた飯塚孝之にヒジで突き飛ばされてしまった。
孝之だか高史だか知らないが、私にとって、飯塚はイヤなヤツである。 ※無論、冗談です

あの日の動画を久々に視聴したことで、今さらながら、猪木の眼と声が素晴らしいことに気付いた。
【プロレスとは闘いである】という信念に基づく、リング上の相手を殺しかねないあの眼力は、猪木ならではのもので、
ライバルのジャイアント馬場はもちろん、藤波辰巳、長州力、前田日明ら、弟子たちにも受け継がれてはいない。
特に弟子の3名は、声というかマイクアピールでは、ナニ言ってるのか全然わからないのが残念(苦笑)。
武藤敬司もしゃべりはざっくばらん(というか雑)だし、同期の橋本・蝶野は、この日の失態で大幅減点。

猪木の眼と声、言い換えれば、殺気をも携えた色気と、他人の心を掴む言葉。双方から生じたカリスマ性こそが、
卍固めや延髄斬りを凌駕する、彼の最大の必殺技だったといえよう。
世界中のレスラーや格闘家、世間のプロレスに対する蔑視、そして最後は病魔と、
リングの内外で戦いを繰り広げた、猪木の闘魂は永遠に、我々ファンの中で燃え続ける。

※アントニオ猪木こと、猪木寛至さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます
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スタン・ハンセンのディナーパーティーに行ってきた。

2019年11月22日 | プロレス
かつての私は、熱心なプロレスファンであった。
テレビ中継は欠かさず視聴し、専門誌や東スポのプロレス欄に目を通すのはもちろん、
時には試合会場にも足を運び、ひいきの選手に対し、声が枯れるほど声援を送ったものだった。
今ではプロレス観戦する機会はほとんどなく、最近のレスラーについての知識も乏しいが、
私がファンだった時代のプロレスラーは、デカくて強くてスゴい人たちであり、
尊敬に値する存在であった。そして、その感情は今も変わらない。

そんな元プロレスファンの私が、もっとも尊敬していた方は、
まさにデカくて強くてスゴい外国人レスラー、スタン・ハンセン選手だ。
彼の名前は、日本人なら知っていて当然だと思っているので、詳細などは語らない。
プロレスを知らなくても、彼の姿は見たことあるだろうし、


「♪ずーでーで ずーでーで ずーでーで ずーでーで でーん でででー でででー でででーでーでーで…」
っていう入場曲は、バラエティ番組の乱闘シーンなどで、よく使用されるので、一度は聞いたことあるはず。
えっ、「ず」と「で」だけじゃ全然わからないって? こりゃ失礼。
ハンセン(失礼ながら、ここからは敬称略)の素晴らしさを説明するのは、膨大なスペースが必要なので、
別の機会に改めて、たっぷりと語ることにする。望んでいる読者がいるのかはさておき。

ここからが今回ブログの本題。
先月、ネットニュースを確認していたら、「スタン・ハンセン氏のディナーパーティー」という記事が!
発信元はスポーツ報知で、詳細を以下にコピペする。※青地部分がコピペ

元プロレスラーのスタン・ハンセンさんとご一緒に楽しめる、
夢のディナーパーティーを開催!!
ハンセンさんが監修のもと生まれ故郷「テキサス」で食べて育ってきたメニューを再現!!

日時:2019年11月16日(土) 17:00(開場16:30)~20:00
場所:東急百貨店渋谷・本店 8階 レストラン デミ

料金:8,000円(税込)お食事&お土産付き
定員:先着80名様
MC:流智美様(プロレス評論家)

お土産内容:サイン入りポートレート、スタン・ハンセン懐かしグッズ

【記念撮影会開催】
当日スタン・ハンセングッズを2,000円以上ご購入の方は、
ハンセンさんと記念撮影致します。



ハンセンがディナーショー? しかも8千円とは安すぎる!
おまけに、+2千円で記念撮影もしてくれるとは!?
ハンセンが大好きでたまらない、ある意味「ハンセン病」の私は、さっそく入場券を購入すべくHPへ。
しかし…ニュースを見た直後にもかかわらず、


無情な完売の文字が。理由は先着80名という少なさか。
しかし、完売の下に表示された「キャンセルが出たら再販します。」の文言を信じた私は、


その日以降、HPを何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…チェックした結果、
3日後の深夜に、ついに発売中の文字が表示されているのを確認!
すかさず申し込み、返信されたパスワードを入力し、後日、近所のコンビニで券を購入。


「スタン・ハンセン 夢のスペシャルディナーパーティー」チケット獲得!
夢のスペシャルって表現が、昭和チックでいいね。
迎えた当日は、ディナーパーティーということで、一応タキシードを着ていった。

会場の渋谷東急本店に到着し、店舗がある8Fへエレベーターで向かう。
エレベーター内には、私と同じ目的らしい男たちが、プロレスについて大声で語っている。
他の客に迷惑なほど騒がしいし、そもそもディナーパーティーに私服で来るなよ…とあきれたものだが、
実際は来場客の大部分が私服。背広が数名いたけどタキシードは私だけで、逆に浮いていた
あと、ハンセンを意識したのか、カウボーイハットをかぶっていた客も何人かいたが、
残念ながら、芸人のハリウッドザコシショウさんにしか見えなかった(笑)。
17時開始で16時半開場だったのだが、私が到着した16時25分には、すでに店入口に長蛇の列。
場内は先着順に着席だったため、私の席はステージからけっこう離れた場所になってしまった。
ちなみに、こちらが店頭にあった看板。


誰が追加したのかしらんが、写真右上の「ウィー」はなくてもいいと思ったね。

開始時間になり、まずは司会のプロレス評論家・流智美さんが登壇し、開会の挨拶をしたのち、
例の入場曲(先述の「ずーでーで…」ってやつ)が流れ、いよいよスタン・ハンセンの入場!
場内の大歓声を受け登場したハンセンが、すかさず「ウィー」のポーズ。いつものように私は撮影を失敗。

※ブレちゃってすみません

以降は、ハンセンが英語で思い出話などを語り、司会者が日本語に訳して説明し、
我々はそれを聞きながら食事するという、珍しい形式のディナーパーティーとなった。



※右が司会の流智美氏


※ズームなしで私の席から撮影した写真。女性客も何人かいた

なお、この日のディナーメニューは、HPに下記のように紹介してあった。
【お食事コース内容】
鎌倉野菜のサラダ
テキサス風ミネストローネ(ピントビーン入り) とコーンブレッド
薄切り牛フィレ肉のカツレツ マッシュポテト添え
デミ特製 ペカンナッツのパイ仕立て


ハンセンが昔食べた、母親の味を基にしているそうで、「残したら承知しないぞ」とおっしゃっていたが、
残すどこか、バイキングスタイルだったため、むしろ足りなくなっていた。


私の隣にいた客は、先客に取られてしまい、ほとんどの料理に手を付けられなかったらしく、
私自身も、上記メニューはひと通り食べたが、あとから追加されたパスタにはありつけず。
足の不自由な方もいたし、そもそも、ステージの会話にも集中したかったから、
自分で取りに行くのではなく、ひとりに一品ずつ提供されるスタイルにしてほしかったね。
予算的にこの方法しかできない、と主催者ならびに会場の責任者は反論するだろうが、
そもそも8千円というのが安すぎるわけで
「ファンのためになるべく低価格に」と、ハンセンが要望を出した可能性も高いが、
ハンセンに会えてメシ食えてお土産も付くのだから、ドケチの私でも3万までは迷わず出すぜ(それ以上は少し悩む…)。
もし第2回が開催されるなら、値上げしてもいいので、ぜひともコース形式に!

せっかくなので、料理画像も紹介しよう。盛りつけが汚らしいのはカンベン。
テキサス風ミネストローネとコーンパン、鎌倉野菜少々に、デザートの甘さ控えめプディング。


こちらは薄切り牛フィレ肉のカツレツとマッシュポテト、ペカンナッツのパイ仕立てとフルーツ。

※ところで、ペカンナッツってなに?

野菜が少ないのと、マッシュポテトの上にフルーツを盛りつけちゃうところが、私のダメなところだね。
結局、私はこのふた皿しか食べてないが、味自体はどの料理も美味しかった
特に、薄切り牛カツとグレービーソースの組み合わせは最高。さすがはハンセン母ちゃんのレシピ。
もちろん、そのレシピを完璧に再現した、ここのレストランの調理もよかったのだろうけど。
トークの途中で、ハンセンもお食事タイム。同じ料理を同じ空間で食べられて、誠に光栄である。


ドリンクはワイン、ハイボール、ソフトドリンクに、生ビールだけ500円別払い。これもバイキング形式だったので、


私は常に2杯キープ。いちいち取りに行くのメンドくさいからね。


途中、片方をウーロン茶に替えたりして、最終的にワインを7杯飲んだ。そんなに飲んだ客は私だけだと思う。
ただし、私は新しいグラスをもらうとき、ちゃんと空いたグラスと交換していたけど、
私の周囲の客は、グラスを置きっぱなしだったり、前のが飲み終わる前に次のを持ってきたり。
片付ける店員さんのことも考えろよ…と、そいつらにイライラしていたら、なんだか酔いが回ってきちゃった。
ここだけのハナシ、私はプロレスは好きだけど、プロレスファンはあんまり好きじゃないんだよね。

そういえば、ハンセンと評論家のトークも、「レスラーになる前の月給が477ドルだった」など、
ハンセン自伝「魂のラリアット」(訳したのがこの日の司会者)で見た内容ばかりで、残念ながら新事実は聞けなかった。
この日初めて知ったことは、「ヒエラルキー」は英語で「ハイラルキ」と発音することくらい。
上記発音も、単なるテキサス訛りかもしれない(笑)ので、実際は違うかも。
途中で、司会者がトークに飽きたのか、唐突にハンセン奥さん(日本人)をステージに上げた。


「SNSなどへの奥さんの顔出しはNGですよ」と司会者が告げた(じゃあ舞台に呼ぶなよ)ので、
上記の写真を載せたのだが、ミセス・ハンセンは若々しくきれいな方だった。
さらにその後は、客からの質問コーナーに変更。ここでも、特に驚くような回答はなかった。
たとえば、「馬場さんの脳天チョップは本当に効いたんですか?」という、やや失礼な質問にも、
「何発もくらったショックで、昔のことは忘れてしまったよ」と、粋な返答をしたり。
リング上では常にパワー全開・真っ向勝負のハンセンだったが、トークは技巧派であった。

開始から2時間が経過し、「引退して何年もたつのに、こんなに多くのファンが集まってくれて感謝する」
というハンセンの挨拶で、パーティーはお開きとなり、その後は、グッズ購入者限定の記念撮影会。
見た限り、来場者全員が記念撮影にも、引き続き参加していたように見えた。
私が購入したのは、今回のブログで一番最初に乗せた写真の、ハンセン肖像画(?)2000円。
どうも、18年前の引退式の頃に作成されたものらしい。たとえ売れ残りだろうが、
ハンセンとの記念撮影の権利がもらえるのなら、安いもんだ。

なお、帰りにいただいたお土産袋の中身は、ハンセンが印刷されたお皿とネックピース、


さらにサイン入りポートレートも。しつこいけど、これらのお土産までもらえて、
総額8000円は安すぎるよ!


先に撮影していた面々は、みんな片手でテキサスロングホーン(「ウィー」の型)を作っていたが、
私は、憧れのハンセンにまず最敬礼し、その後も敬意を表すため、直立不動での撮影を望んだのだが、
撮影担当の方に「座ってもらえますかー」と告げられ、「あ、ハイ…」とやむなく着席。
結局、よくわからないポーズでの記念撮影となってしまった。


黒く塗りつぶした顔は、ワインを飲みすぎたせいか真っ赤で、なおかつムクんでいた。せっかくの記念写真が…(涙)。

今年で70歳になったハンセンは、血色もよく、まだまだお元気そうでひと安心。
ここ数日、身内の不幸などが重なり落胆していたのだが、少し元気を分けてもらえたような気がした。
現役時代の異名「不沈艦」、そして入場テーマ曲「サンライズ」のように、
いつまでも沈まない、我々の太陽であってほしい
会場から出て再びエレベーターに乗り外に出たら、入口にクリスマスツリーが。


そうか、もうそんな季節なんだねえ。
コメント
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