「青梅街道」
1603年、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる「石灰」を運搬する道路として、
「大久保長安」の指揮の下に整備、当時の名称は「成木街道」。
江戸時代中頃に、絵図や紀行文などには、「青梅街道」の記述が見られると云う。
内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村、で甲州街道と再び合流する。
このためか、「甲州裏街道」とも呼ばれている。
道程で甲州街道より二里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用され、甲府の塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在している。
番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの
茶屋だったことから由来し、バス路線開設で現在地に移転したと云う。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
青梅街道は多摩地区と都心を繋ぐ生活道路としても定着し、明治11年、には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして
柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更、大正10年、には、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道)も開通。
この電車は後に都電杉並線(都電14系統)となったが、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線・丸ノ内線が開通し、昭和38年、都電はに廃止。
平成21年、東大和市の西武拝島線東大和市駅北側で、道路整備事業により、新青梅街道に至る新たな道路が本道に対し斜めに接続され、
信号付き交差点が新設された(南街四丁目交差点)、これに伴い本道経路が変更。
JR青梅線青梅駅

「東京都青梅市」ー都北西部ー
多摩川が、関東山地から関東平野へ流れ出る地域。青梅市の名の由来は、「平将門」が誓いをかけて植えた梅の木の実が、熟する事が無く青々としていたことによると云う諸説がある。
小曽木・吉野・成木・三田を編入している山地と平野と丘陵も存在する。その段丘上には、先史時代の遺跡も見られる。
西部の軍畑は、豪族三田氏が滅亡し地・青梅街道の宿場町として栄えた。
青梅縞の木綿織物でも知られている。古くは「多摩川」を筏で流し江戸へ材木を運んでいた。
「青梅マラソン」は、毎年2月・15000人以上が参加する我が国最大の大会である。

駅前路地に「雪守横丁」が。名前の由来は不明であるが洒落た名に左折。何もない横丁でした。

旧青梅街道に珍しいお祭り関係の店が「半被・足袋、手ぬぐい、、、」

「昔懐かしい映画の看板が、旧青梅街道の街並みに」
駅から南へ100mほど進むと旧青梅街道だ。
駅周辺には店舗が建ち並んで繁華な佇まいを見せる。街道沿いには古い時代の名残を感じさせる建物が建ち並び、
歴史ある町であることを物語るのと、駅前の交差点から街道を少し東へ辿ると住江町だ。街道沿いの建物に
昭和30年代を彷彿とさせるような映画看板が数多く掲げられているのが否応なく目に入る。
看板の題材に選ばれている映画は往年の名作と言われるものばかりだ。「ローマの休日」、「俺たちに明日はない」、「ヘッドライト」・・・。
といった洋画の名作、あるいは「丹下佐膳」、「少年探偵団」、「悲しき口笛」といった邦画の名作まで、昭和30年代頃のものを中心に
さまざまな映画の看板がある。
風情ある町並みと手描きの映画看板とが相俟って、何ともいえない「昭和レトロ」な雰囲気を醸し出している。
この映画看板のある町並みはすっかり有名。
青梅宿映画看板街道などとも呼ばれ、この風景を楽しみに訪れる人も少なくないと云う。

映画の手描き看板やレトロなつくりの駅
「ひみつのアッコちゃん」の発車メロディ 。
昭和を代表する漫画家・赤塚不二夫を紹介する「青梅赤塚不二夫会館」、昭和のなつかしグッズを扱った「昭和レトロ商品博物館」
映画の手描き看板と昭和の生活をジオラマで表現した「昭和幻燈館」と。

なつかしいと見入る人、古いデザインに目を奪われる人、 と昭和のグッズが、
「サイダーのラベル」や「ぬりえ」など、コレクターが持ち込んだモノによる企画展示も行っていた。

壁に張られた、手描きの映画看板。青梅の映画看板絵師、「久保板観」の手によるものと云う。
なつかしい気持ちを感じた散歩でした。

「住吉神社」
1369年の応安2年、建立の古刹.
1513年、 青梅村民が 住吉神社の拝殿を改修し氏子である五町(現在の住江町、本町、仲町、上町、森下町) が祭礼。
青梅大祭の始まりと言われる。

大祭には、青梅駅前の広範囲の道路を通行止めに。
計12の山車が曳かれ、街道の両側には多くの露店が立ち並ぶ。
山車と山車が出会うと、「競り合い」が行われ、各々の山車には手古舞役の厚化粧の少年少女が3~10名ほど出る。
手古舞以外の少年少女は化粧しないと云う。
「山車人形」
計12の町によって曳かれ、山車を曳くようになったのは明治5年頃と言われている。
山車人形は、曳かれる山車の上部に置かれていたもので、明治40年頃迄、電線が敷設されたため三層の山車を現在のような屋台型に改造し、
また、各町の人形場で展示。
森下町の山車人形の武内宿禰は、嘉永年間製作のものと云う。

神社は、1513年、三田領五十七か村の領主であった勝沼城主「三田弾正氏宗、政定父子および氏子」の寄進によって社殿の改修が行われ、
青梅村総鎮守とされ、時に3月28日。以来この日を例祭日に定めている。
明治5年、太陽暦採用にあたり4月28日に改め、今日に及んでいる。
昭和47年、5月2日・3日に変更され現在に至っていと云う。
石段、七十七段登りつめると静かな神域が広がり、社域は市の史跡に指定。
拝殿の天井には、1824年、の新築に際し、青梅が生んだ画家「小林天渕」が描いた雲竜図がある。(市の有形文化財に指定)
拝殿の向かって右手奥には、小林天渕が自身と祖父・小峰峯真ほうしんの廃筆はいひつ等を集めて埋めた筆塚が、左手の稲荷社の前には、
江戸時代後期の青梅の文人「根岸典則」の碑が。
拝殿

「小林天淵」 1778-1863 江戸時代後期の画家,書家。
安永7年生まれ。書を祖父小峰峰真に学ぶ。
のち名主。博学多芸で,なかでも花鳥・人物画にすぐれ,師の谷文晁の名をとって青梅文晁と称されたという。
文久3年死去。86歳。武蔵青梅出身。

多摩川を下ります。
1603年、江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる「石灰」を運搬する道路として、
「大久保長安」の指揮の下に整備、当時の名称は「成木街道」。
江戸時代中頃に、絵図や紀行文などには、「青梅街道」の記述が見られると云う。
内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村、で甲州街道と再び合流する。
このためか、「甲州裏街道」とも呼ばれている。
道程で甲州街道より二里短く関所が無いため、庶民の旅客にも多く利用され、甲府の塩山近くに萩原口留番所があり小規模な関所が実質存在している。
番所の跡と近くに番所の門を復元した温泉保養施設(大菩薩の湯)がある。大菩薩峠登山口バス停にある番屋茶屋はもともと萩原口留番所近くの
茶屋だったことから由来し、バス路線開設で現在地に移転したと云う。
明治2年、新宿と田無間に乗合馬車が開通。
青梅街道は多摩地区と都心を繋ぐ生活道路としても定着し、明治11年、には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして
柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更、大正10年、には、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道)も開通。
この電車は後に都電杉並線(都電14系統)となったが、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線・丸ノ内線が開通し、昭和38年、都電はに廃止。
平成21年、東大和市の西武拝島線東大和市駅北側で、道路整備事業により、新青梅街道に至る新たな道路が本道に対し斜めに接続され、
信号付き交差点が新設された(南街四丁目交差点)、これに伴い本道経路が変更。
JR青梅線青梅駅

「東京都青梅市」ー都北西部ー
多摩川が、関東山地から関東平野へ流れ出る地域。青梅市の名の由来は、「平将門」が誓いをかけて植えた梅の木の実が、熟する事が無く青々としていたことによると云う諸説がある。
小曽木・吉野・成木・三田を編入している山地と平野と丘陵も存在する。その段丘上には、先史時代の遺跡も見られる。
西部の軍畑は、豪族三田氏が滅亡し地・青梅街道の宿場町として栄えた。
青梅縞の木綿織物でも知られている。古くは「多摩川」を筏で流し江戸へ材木を運んでいた。
「青梅マラソン」は、毎年2月・15000人以上が参加する我が国最大の大会である。

駅前路地に「雪守横丁」が。名前の由来は不明であるが洒落た名に左折。何もない横丁でした。



旧青梅街道に珍しいお祭り関係の店が「半被・足袋、手ぬぐい、、、」

「昔懐かしい映画の看板が、旧青梅街道の街並みに」
駅から南へ100mほど進むと旧青梅街道だ。
駅周辺には店舗が建ち並んで繁華な佇まいを見せる。街道沿いには古い時代の名残を感じさせる建物が建ち並び、
歴史ある町であることを物語るのと、駅前の交差点から街道を少し東へ辿ると住江町だ。街道沿いの建物に
昭和30年代を彷彿とさせるような映画看板が数多く掲げられているのが否応なく目に入る。
看板の題材に選ばれている映画は往年の名作と言われるものばかりだ。「ローマの休日」、「俺たちに明日はない」、「ヘッドライト」・・・。
といった洋画の名作、あるいは「丹下佐膳」、「少年探偵団」、「悲しき口笛」といった邦画の名作まで、昭和30年代頃のものを中心に
さまざまな映画の看板がある。
風情ある町並みと手描きの映画看板とが相俟って、何ともいえない「昭和レトロ」な雰囲気を醸し出している。
この映画看板のある町並みはすっかり有名。
青梅宿映画看板街道などとも呼ばれ、この風景を楽しみに訪れる人も少なくないと云う。



映画の手描き看板やレトロなつくりの駅
「ひみつのアッコちゃん」の発車メロディ 。
昭和を代表する漫画家・赤塚不二夫を紹介する「青梅赤塚不二夫会館」、昭和のなつかしグッズを扱った「昭和レトロ商品博物館」
映画の手描き看板と昭和の生活をジオラマで表現した「昭和幻燈館」と。



なつかしいと見入る人、古いデザインに目を奪われる人、 と昭和のグッズが、
「サイダーのラベル」や「ぬりえ」など、コレクターが持ち込んだモノによる企画展示も行っていた。



壁に張られた、手描きの映画看板。青梅の映画看板絵師、「久保板観」の手によるものと云う。
なつかしい気持ちを感じた散歩でした。

「住吉神社」
1369年の応安2年、建立の古刹.
1513年、 青梅村民が 住吉神社の拝殿を改修し氏子である五町(現在の住江町、本町、仲町、上町、森下町) が祭礼。
青梅大祭の始まりと言われる。



大祭には、青梅駅前の広範囲の道路を通行止めに。
計12の山車が曳かれ、街道の両側には多くの露店が立ち並ぶ。
山車と山車が出会うと、「競り合い」が行われ、各々の山車には手古舞役の厚化粧の少年少女が3~10名ほど出る。
手古舞以外の少年少女は化粧しないと云う。
「山車人形」
計12の町によって曳かれ、山車を曳くようになったのは明治5年頃と言われている。
山車人形は、曳かれる山車の上部に置かれていたもので、明治40年頃迄、電線が敷設されたため三層の山車を現在のような屋台型に改造し、
また、各町の人形場で展示。
森下町の山車人形の武内宿禰は、嘉永年間製作のものと云う。



神社は、1513年、三田領五十七か村の領主であった勝沼城主「三田弾正氏宗、政定父子および氏子」の寄進によって社殿の改修が行われ、
青梅村総鎮守とされ、時に3月28日。以来この日を例祭日に定めている。
明治5年、太陽暦採用にあたり4月28日に改め、今日に及んでいる。
昭和47年、5月2日・3日に変更され現在に至っていと云う。
石段、七十七段登りつめると静かな神域が広がり、社域は市の史跡に指定。
拝殿の天井には、1824年、の新築に際し、青梅が生んだ画家「小林天渕」が描いた雲竜図がある。(市の有形文化財に指定)
拝殿の向かって右手奥には、小林天渕が自身と祖父・小峰峯真ほうしんの廃筆はいひつ等を集めて埋めた筆塚が、左手の稲荷社の前には、
江戸時代後期の青梅の文人「根岸典則」の碑が。
拝殿

「小林天淵」 1778-1863 江戸時代後期の画家,書家。
安永7年生まれ。書を祖父小峰峰真に学ぶ。
のち名主。博学多芸で,なかでも花鳥・人物画にすぐれ,師の谷文晁の名をとって青梅文晁と称されたという。
文久3年死去。86歳。武蔵青梅出身。



多摩川を下ります。