syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

玉川上水は「羽村」から 多摩川散歩(24)

2016-02-20 | 気まま旅

「羽村堰」-玉川上水取水堰
1653年丘陵の北東麓を流れる「多摩川」の曲流を利用してつくられた「水門」。(現在は、上流の小河内ダムで堰と羽村堰)
多摩湖・狭山湖への水を導入し都の多摩川給水系の取入れ口となっている。

「玉川庄右衛門・清右衛門兄弟」
玉川兄弟-は、江戸時代。兄は庄右衛門・1622 -1695・弟は、清右衛門は、、生年不明 -1696。
多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力、1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる兄弟。

上水工事は2度失敗。
一回目は、日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土」、
2回目は、福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことで、水喰土の失敗跡は今でも残されていると云う。
1653年、から工事が行われ、1654年までに開通したとある。
これにより兄弟は、「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされたが、1739年、に職を剥奪される。
(兄弟の墓所は台東区の聖徳寺にある)



慶長8 年の1603年、江戸幕府開設後、三代将軍徳川家光の時代(1623)に、江戸の町・城造りは完成します。が、急激な人口の増加により、
神田上水(井の頭池が水源)や溜池上水(赤坂の溜池が水源)だけでは増大する水の需要に対応できなくなり、
四代将軍家綱の時代、承応2年の1653年、に多摩川の水を江戸に引き入れるという壮大な計画を立案した町人が 庄右衛門・清右衛門兄弟の
設計書を採用し、工事を請け負わせた。
1653年、4 月ーの着工後わずか8 ヶ月で羽村取水口から四谷大木戸までの43 kmの白掘が完成し、翌年1654年、には石樋・木樋(石や木で出来
た配水管)で四谷・赤坂・芝・京橋などの東京南西部一帯に給水し、その後、給水先が順次拡大し、青山上水・三田上水・仙川上水などの水源に。
江戸は百万都市といわれますが、玉川上水は水という最も重要な基盤の一つで江戸の町を支えて来ました。



取水堰とは川を堰き止めて水を引き込むもの。
ダムのように完全に堰き止めるのでなく丸太・板などによってかなりの水量を漏らしながら取り込むようになっている。
江戸当初からの方法が今でも活かされていると云う。
更にはこの場所は上流の材木を下流に流す要所でもあり、そのための場所も確保され、当時の位置と技術は基本的には変わらず受け継がれている。
第一水門は二種類の構造形式で構成されていて、手前の水門はこの中では新しい。
レンガによる組積造で櫛形アーチで掛け渡されたものが並んで、吐出門も古い取入れ門と同時期のもの、アーチ形式の石造である。

    

江戸開幕から50年後の1653年、
羽村の取水堰から江戸(新宿の四ッ谷大木戸)までの43kmに掘割(玉川上水)が造られ、多摩川の水が江戸住民の生活用水として使われた。
関東平野への分水路(野火止用水等)も造られ江戸の農業発展の礎とに。



牛枠(川倉水制)ー看板引用ー
昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。
そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ「川倉」です。
かたちが馬の背中に似ているところから「川鞍」と名付けられ、のちに「川倉」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、
最も一般的なものは「牛枠」といわれています。  
「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組み立てます。
木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川底の玉石を詰めた蛇籠で固定します。
堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。  
かつて「牛枠」のほかにも、「聖牛」・「笈牛」・「鳥脚」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。
しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。



「羽村堰下橋」歩道橋
長さー 267m・幅ー 2.10m・竣工は、1979年・合流からの距離ー 57.84km・上流の橋からの間隔 2.34 km
北詰ー西詰 羽村市羽・南詰ー東詰 羽村市玉川
                                     奥の橋は、羽村大橋


「羽村・どんど焼き」
ワラや竹で作った小屋のまわりに、正月のお飾りなどを積んで焼き、その火で餅や団子を焼いて食べ、一年間の無病息災を願う伝承行事。
日時ー1月11日、午前8時(午前8時30分点火予定との事・荒天の場合は17日)

 三つの小山に点火される。      地元の関係者               桜並木が


玉川上水                    多摩川             天然記念物の欅


市指定史跡ー伝 三田雅楽之助平将定等の墓がある。
五輪塔、伊奈石で江戸初期に作られたものと思われ、1424年、に一峰院を開いた三田雅楽之助平将定等の墓といわれている。
中央にある宝篋印塔は、室町後期の様式を残していると云う。
一峰院の縁起によれば、中世に青梅地方を支配した豪族三田氏の一門で、羽村に関係深い武将であったと云う。
今回は、記事のみとします。
                                          羽村動物園前
    

羽村駅から約1.5kmに「羽村動物園」がある。
ここは、1945年9月、「米戦艦ミズーリ号」上で日本は無条件降伏文書に調印し、太平洋戦争が終結。
それからほぼ一年後の1946年9月、進駐軍により占領された日本で「アメリカンスクール」が三校開校した。
三校とは、埼玉県のジョンソン小学校(現在航空自衛隊入間基地)、東京の目黒小学校(1952年に返還)、横田小学校である。
「横田小学校」
米軍は1945年9月、埼玉県にあった旧陸軍豊岡士官学校を接収、当時25歳の若さで亡くなった英雄Gerald Johnson大佐を偲び
翌年2月にジョンソン基地と名付けられ、その施設は1973年日本に返還されている。
現在航空自衛隊入間基地となっている。施設の日本への返還に伴い1946年9月開校したージョンソン小学校は、1973年閉校。
当時のジョンソン扶養家族学校、後にヒルトップという名前で呼ばれた地域である。

管理ー金沢八景園
飼育動物は、キリン・ビーバーアライクマ・レッツサーパンダ・オオカミ・トナカイ・マントヒヒ・クジャク・ダチョウ・コンドル
      ニシキヘビなど。

入園料ー75歳以上は無料。
                    本日は、休園(月)
    

次回は、次の駅「福生駅」へ。