平安・鎌倉時代
工藤氏の一族「工藤祐隆」家次)は、「伊豆国の大見・宇佐見・伊東」からなる久須見荘を所領。
出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし
伊東荘を与えて「祐継」と名乗らせた。
一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、「河津氏」を名乗った。
曽我物語ー祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本ーでは、祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。
伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)

伊東祐親像


「源頼朝は」
1159年、平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪、「伊東祐親」は、在地豪族としてその監視の任にあたっていた。
祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。
安元元年の1175年夏、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、
次男の伊東祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。
のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。(嫡男祐泰は河津、遺児が曽我兄弟)

新派和歌運動の一翼を担った
尾上柴舟(1876-1957)は、伊豆を訪れ、特に伊東との縁は深かった。
昭和初期には別荘をかまえ長期滞在した。
碑に刻まれた歌ー明治43年「創作」に「天城野火」として発表した中の一首。大正2年刊の歌集「日記の端より」の冒頭に、
「つけすてし野火のけぶりのあかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき」碑文


伊豆急の伊東トンネルが

「相模国」ー東海道に属し旧国名を「相州」とも云う。当時の東海道は三浦半島から千葉県房総半島へと続き、
行政の中心は、国府(小田原・海老名)など諸説あり。
10~11世紀は、争乱で、各地の有力の開発領主が成長し、1192年征夷大将軍「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の有力御家人の直轄地とされていった。
その後、「関東管領を鎌倉」に置いた。1495年、北条氏が小田原を拠点に関東を支配した。

「相模灘」は、深さ1500mを超える「相模トラフ・舟状海盆)が連続し国府津・松田断層へ。地震活動は活発で1923年の関東大震災で北東の隆起と南西部は沈降した。が、大陸棚が発達し黒潮の分流が流れ込むので、カツオ・ブリ・マグロなどの好漁場である。
また入江が多い。早川、境川、酒匂川で砂浜海岸を。
乙女の像



工藤氏の一族「工藤祐隆」家次)は、「伊豆国の大見・宇佐見・伊東」からなる久須見荘を所領。
出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし
伊東荘を与えて「祐継」と名乗らせた。
一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、「河津氏」を名乗った。
曽我物語ー祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本ーでは、祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。
伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)

伊東祐親像


「源頼朝は」
1159年、平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪、「伊東祐親」は、在地豪族としてその監視の任にあたっていた。
祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。
安元元年の1175年夏、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、
次男の伊東祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。
のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。(嫡男祐泰は河津、遺児が曽我兄弟)

新派和歌運動の一翼を担った
尾上柴舟(1876-1957)は、伊豆を訪れ、特に伊東との縁は深かった。
昭和初期には別荘をかまえ長期滞在した。
碑に刻まれた歌ー明治43年「創作」に「天城野火」として発表した中の一首。大正2年刊の歌集「日記の端より」の冒頭に、
「つけすてし野火のけぶりのあかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき」碑文


伊豆急の伊東トンネルが

「相模国」ー東海道に属し旧国名を「相州」とも云う。当時の東海道は三浦半島から千葉県房総半島へと続き、
行政の中心は、国府(小田原・海老名)など諸説あり。
10~11世紀は、争乱で、各地の有力の開発領主が成長し、1192年征夷大将軍「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の有力御家人の直轄地とされていった。
その後、「関東管領を鎌倉」に置いた。1495年、北条氏が小田原を拠点に関東を支配した。

「相模灘」は、深さ1500mを超える「相模トラフ・舟状海盆)が連続し国府津・松田断層へ。地震活動は活発で1923年の関東大震災で北東の隆起と南西部は沈降した。が、大陸棚が発達し黒潮の分流が流れ込むので、カツオ・ブリ・マグロなどの好漁場である。
また入江が多い。早川、境川、酒匂川で砂浜海岸を。
乙女の像


