「河津」-静岡県賀茂郡河津町・県南東部、伊豆半島南東・天城街道の相模灘に面した歴史の町。
縄文遺跡が点在・見高段間遺跡がある。
伊東裕親の子・河津三郎祐泰の館跡に、源頼朝が社領を寄進し、大楠がある「河津八幡神社」(河津三郎とその子曽我兄弟の霊が)・川端康成の
「伊豆の踊り子」の文学碑・河津城跡(1596~大久保長安奉行時栄えた金山)・河津七滝・早咲き河津桜並木・・などで観光で発展の「河津駅」
下車、今日は、河津川河口付近を散策した。









河津は、縄文時代晩期(約2,300年前) - 笹原地区にて集落の形成期/笹原地区の南小学校を中心とする地域に残る姫宮遺跡の最下層が、この頃に営まれていた。この集落は、縄文時代から弥生時代へ移り変わる時期の数少ない遺跡で、さらに古墳時代、奈良時代を経て、平安時代まで存続したと云う。
4世紀頃(古墳時代前期) - 河津町笹原字比咩宮ひめみやにて、姫宮神社の創建(遺物推定)/姫宮遺跡の4世紀頃の層から祭祀遺物が出土する。
天平21年(749年、奈良時代)・ 行基が、谷津村にて仙洞山那蘭陀寺、 南禅寺の前身)を開山。本尊は、行基が自ら彫った薬師如来像。
1099年の平安時代、 実道法師が、那蘭陀寺(南禅寺の前身)を再興し、広大な境内に七堂伽藍が整備されて、本堂に幾つもの仏像を安置する大寺院に。
1432年、南北朝時代、那蘭陀寺(南禅寺の前身)の裏山が山津浪(山崩れ)を起こし、寺は堂宇はことごとく大破、仏像群は埋没し、これが元で廃寺。
1541年、戦国時代、 南禅和尚(正光院)が、谷津の那蘭陀寺跡地の土中から仏像群を掘り起こし、建立した仏堂に納めると、人々はこれを「南禅堂」と呼ぶようになる。これが現存する「南禅寺」の興りであるという。安土桃山時代、江戸時代、1814年、 南禅堂(南禅寺の前身)の本堂の再建。
幕末 - 伊豆国賀茂郡の一角である当地域(河津郷)には15か村があったと云う。
明治政府が、韮山代官所に替えて韮山県を設置し、伊豆国内の全ての旧幕府領・旧旗本領と、相模国内の一部を除く旧幕府領・旧旗本領を管轄とする。
当地域に多くの領地を持つ沼津藩水野氏が上総国菊間へ、掛川藩太田氏が上総国芝山へ移封され、伊豆国の旧幕府領は全て県地となり、韮山県に。
全国で廃藩置県が断行ーこの段階の韮山県域は飛地だらけであった幕藩体制下の領分をほぼ踏襲した極めて錯綜的なものであった。
第一次府県統合により、相模国西域と伊豆国全域に置かれていた3県が合体(新設合併)して足柄県が成立。これをもって韮山県は廃止される。
国が修験道廃止令を発布したのに伴い、河津郷でも谷津の南禅堂(南禅寺の前身)などが荒廃し始める/南禅堂は無住寺となり、平安時代から伝わる仏像群と1814年、に再建された本堂を残すのみとなって廃れてしまう。
1900年(明治33年) - 天城峠下にて、天城山隧道(現在通称:天城トンネル)の着工。明治35年、 天城山隧道開通。三島下田街道の完成。
川端康成が、雑誌「文藝時代」1926年1月号にて小説「伊豆の踊子」を発表した。

「河津川」
天城連山を源とする河津川
本谷川と天城峠の西斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ。
秋から冬に掛けてズガニ(モクズガニ)の漁が行われ、 早咲きの桜として有名な「河津桜」の原木は、河津町田中の河津川の河原(豊泉橋付近)で採取され、現在では河津川の河口付近の谷津地区から役場付近の峰地区まで河津桜の並木が続く。
毎年早春に行われる「河津桜まつり」で賑わう。
2級水系 河津川 長さ9.5km

「栖足寺の河童のかめ」
栖足寺の河童のかめは700年ほど前の鎌倉時代のものと言われ、その壺と栖足寺のお話は昔話にもなっていて「まんが日本昔ばなし」にも登場。
「河童のかめの言い伝え」
その昔、栖足寺の裏手にあった河津川の渕に河童が住んでいました。
河童は渕で遊んでいる子供の足や水を飲んでいる馬のしっぱを引っ張ったりと悪戯をしていましたが、やがて里人に恐れられるようになり、果ては憎まれるようになって行きました。
ある時悪さをした河童を捕まえた里人たちが河童を懲らしめようとしてる時、栖足寺の住職がきて「わしに免じて殺生はやめてほしい」と里人に頼み河童を助けました。住職は河童にもう悪さをせず、遠くの地へ行けと河童を逃がしました。
その夜、眠っている住職の元へ逃がした河童がやって来ました。
河童は「和尚さんのお言葉通り、遠くの地へ参ります。つきましては、このかめを大切にしてください」と、かめを和尚さんに渡して去っていきました。不思議なことにこのかめに耳を傾けると川のせせらぎのような音がしました。
不思議なことにこのかめから聞こえる川のせせらぎを聞くと悪意は霧のように薄れ、聞いた者の心は清々しく晴れていったとのこと。
この河童のかめは今でも栖足寺に大切に保管されている。
山号 風儀山「栖足寺」 伊豆88か所35番札所
創建 鎌倉時代 本尊 釈迦如来

カッパ像

境内


栖足寺 本堂

山奥深い伊豆谷津の山々

「伊豆ならんだの里・河津平安の仏像展示場」へ。(入館有料 ¥300 河津町谷津)
親切な職員の案内で、
京都東山「南禅寺」は、
臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」という。
南禅寺の歴史は、鎌倉後期の正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改めた事から始まる。
天皇として最初に禅僧となられた法皇は、発願文『禅林禅寺起願事』をしたためられ、その中で「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められた。つまり「南禅寺住持」は法系・派を超えた最高の禅僧の代名詞であり、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧が代々住持に任ぜられる事と。
伽藍は、1393年、の大火・文安4年(1447)の失火や応仁の乱(1467)等によって荒廃したが、江戸初期に見事再興された。
今も建っている三門の楼上からは京都市内が一望できる。
しかし、南禅寺は徳川幕府との深い関係の中で再興・興隆しており、楼上からの眺望内に御所が見える構造は何か意図があるように感じられると云う。
1432年、山津波によって堂宇が埋没・土中より掘り出された24体の仏像(行基作も)
1200年の眠りから覚めた仏像群
展示場館内

河津町は、平安時代、華やかな仏教文化が花開いた土地でもありました。
多くの仏像を伝える河津町にあって、最も古く、学術的、美術的に重要な仏像を多数伝えるのが、谷津の南禅寺。
2013年、、南禅寺横に「伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」がオープン。
南禅寺の本尊・薬師如来坐像は、平安時代前期(9世紀)に遡る仏像で、静岡県内最古の仏像。
時代の木彫仏像は、神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県など周辺都県でもほとんど知られておらず、この地域の歴史を考える上で極めて重要な文化財。
他にも南禅寺には、東海最古の地蔵菩薩立像(10世紀)や、1978年にドイツ・スイス・スウェーデンのヨーロッパ各地での展示会を巡り、
二天立像(10世紀)を始め、24体の平安仏が伝えられている。
南禅寺 薬師如来 町指定 像高 117.7CM

「掛川誌稿」(天保年間1833~44)
「……中古南禅寺と云は誤也といへり、今は薬師堂一宇、奥谷にあり、村人は専ら南禅寺と呼、
……南禅寺は自ら別にて、那蘭陀寺と共に荒廃せしに因て、再興の時二寺を併せて、那蘭陀寺の旧号を冠せしにや、総て詳なることを得ず、…」とあり、2つのお寺がひとつになったようですが、これ以上のことは不明。
谷津の周辺には「弥勒」「大門」「仏ヶ谷」という地名があることから、かなりの規模だったであろう。
室町時代の1432年、大規模な山津波に襲われ、那蘭陀寺の御堂や26体あったという仏像は土の中に。
ところが埋もれていたのが赤土(粘土質)だったようで、幸運にも土がクッション役になり、24体が掘り起こされ、このうち本尊薬師如来像はじめ何体かは土の上にお顔が出ていたのですぐに発見され、ほぼ無傷で掘り出されたと云う。
山津波で廃寺になってから100年余経った天文10年の1541年、
温泉治療にきた鎌倉正光院の南禅和尚がここに坊を営み、和尚を慕った里人たちが「南禅坊」と呼んだことから南禅寺の寺号で復興。
江戸時代には天台宗聖護院系の山岳修験の寺となり、明治5年の修験道廃止まで続いている。
現在の南禅寺本堂は、里人の浄財で、1814ねん、再建され、平成の世に新設された展示館であるが、中に入ったら、
造られて1200年は経つ平安木像24体が安置。
真正面中央にドーンと安置された本尊薬師如来像(カヤの木の一木彫りで平安時代前期~中期頃の作)
薬師如来像、1200年前の木像とは思えない、薬師如来は手の指の第二関節あたりから水かきのようなものが付いていて、病む人々を余さず救い出すと如来パワーを、調査した専門家によると、この像は水かきが指の第一関節から付いており、まさに古い時代の証拠、静岡県内では最古の仏像で、全国でも指折りの国宝級の平安木像。
東京国立博物館で調査のために一定期間保管され、南禅寺に昭和31年に戻されたとき、国宝指定されるべきところ、国宝を保存管理する諸条件が金銭的に困難だったため、条件の緩やかな県指定に。
また、僧形坐像、一体だけ、お触りできた。(おびんづる様は触って拝むほとけさまで)
東海地方最古の地蔵像「地蔵菩薩立像」は、「拝めばいつまでも若々しく美しくいられる」と女性に信仰されていたという。
「十一面観音像」、甲冑をまといヨーロッパ巡回展では古代ローマの勇士のようだと絶賛・「天部立像」など木像がズラリ展示。
埋まっていたのが赤土(粘土質)ではなく黒土だったため、一部が朽ちてしまった像もあり、管理人さん曰く「直径1・4センチの螺髪が8つ発見されたが像本体が見つかっていない。まだまだ土の中に埋もれたほとけさまがいらっしゃる」とのこと。
中央の都から遠く離れた伊豆・河津の地に国宝級の仏像が続々と出土したのか?。
仏教が伝来して間もない奈良時代に早くも伝道師が足を踏み入れ、布教活動を行い、信仰の拠点を築いた。
キツイ登り坂であったが、その甲斐は充分であった。
仁王像天部立像 県指定 像高 158.3 145.7CM

観音立像

立像 平安時代

男神立像 町指定 坐135CM

女神立蔵 町指定 平安時代


虚空蔵菩薩は知恵の仏

古いお堂

虚空蔵菩薩坐像 坐35.4CM

延命菩薩 下から見ると薄目を

延命菩薩像本堂内に

「行基」 668-749 奈良時代の百済渡来氏続高僧ー日本各地で社会事業で、人々を救っている。
池・道路・橋・僧院・仏像建立など「大僧正」に任じられた。
縄文遺跡が点在・見高段間遺跡がある。
伊東裕親の子・河津三郎祐泰の館跡に、源頼朝が社領を寄進し、大楠がある「河津八幡神社」(河津三郎とその子曽我兄弟の霊が)・川端康成の
「伊豆の踊り子」の文学碑・河津城跡(1596~大久保長安奉行時栄えた金山)・河津七滝・早咲き河津桜並木・・などで観光で発展の「河津駅」
下車、今日は、河津川河口付近を散策した。









河津は、縄文時代晩期(約2,300年前) - 笹原地区にて集落の形成期/笹原地区の南小学校を中心とする地域に残る姫宮遺跡の最下層が、この頃に営まれていた。この集落は、縄文時代から弥生時代へ移り変わる時期の数少ない遺跡で、さらに古墳時代、奈良時代を経て、平安時代まで存続したと云う。
4世紀頃(古墳時代前期) - 河津町笹原字比咩宮ひめみやにて、姫宮神社の創建(遺物推定)/姫宮遺跡の4世紀頃の層から祭祀遺物が出土する。
天平21年(749年、奈良時代)・ 行基が、谷津村にて仙洞山那蘭陀寺、 南禅寺の前身)を開山。本尊は、行基が自ら彫った薬師如来像。
1099年の平安時代、 実道法師が、那蘭陀寺(南禅寺の前身)を再興し、広大な境内に七堂伽藍が整備されて、本堂に幾つもの仏像を安置する大寺院に。
1432年、南北朝時代、那蘭陀寺(南禅寺の前身)の裏山が山津浪(山崩れ)を起こし、寺は堂宇はことごとく大破、仏像群は埋没し、これが元で廃寺。
1541年、戦国時代、 南禅和尚(正光院)が、谷津の那蘭陀寺跡地の土中から仏像群を掘り起こし、建立した仏堂に納めると、人々はこれを「南禅堂」と呼ぶようになる。これが現存する「南禅寺」の興りであるという。安土桃山時代、江戸時代、1814年、 南禅堂(南禅寺の前身)の本堂の再建。
幕末 - 伊豆国賀茂郡の一角である当地域(河津郷)には15か村があったと云う。
明治政府が、韮山代官所に替えて韮山県を設置し、伊豆国内の全ての旧幕府領・旧旗本領と、相模国内の一部を除く旧幕府領・旧旗本領を管轄とする。
当地域に多くの領地を持つ沼津藩水野氏が上総国菊間へ、掛川藩太田氏が上総国芝山へ移封され、伊豆国の旧幕府領は全て県地となり、韮山県に。
全国で廃藩置県が断行ーこの段階の韮山県域は飛地だらけであった幕藩体制下の領分をほぼ踏襲した極めて錯綜的なものであった。
第一次府県統合により、相模国西域と伊豆国全域に置かれていた3県が合体(新設合併)して足柄県が成立。これをもって韮山県は廃止される。
国が修験道廃止令を発布したのに伴い、河津郷でも谷津の南禅堂(南禅寺の前身)などが荒廃し始める/南禅堂は無住寺となり、平安時代から伝わる仏像群と1814年、に再建された本堂を残すのみとなって廃れてしまう。
1900年(明治33年) - 天城峠下にて、天城山隧道(現在通称:天城トンネル)の着工。明治35年、 天城山隧道開通。三島下田街道の完成。
川端康成が、雑誌「文藝時代」1926年1月号にて小説「伊豆の踊子」を発表した。

「河津川」
天城連山を源とする河津川
本谷川と天城峠の西斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ。
秋から冬に掛けてズガニ(モクズガニ)の漁が行われ、 早咲きの桜として有名な「河津桜」の原木は、河津町田中の河津川の河原(豊泉橋付近)で採取され、現在では河津川の河口付近の谷津地区から役場付近の峰地区まで河津桜の並木が続く。
毎年早春に行われる「河津桜まつり」で賑わう。
2級水系 河津川 長さ9.5km

「栖足寺の河童のかめ」
栖足寺の河童のかめは700年ほど前の鎌倉時代のものと言われ、その壺と栖足寺のお話は昔話にもなっていて「まんが日本昔ばなし」にも登場。
「河童のかめの言い伝え」
その昔、栖足寺の裏手にあった河津川の渕に河童が住んでいました。
河童は渕で遊んでいる子供の足や水を飲んでいる馬のしっぱを引っ張ったりと悪戯をしていましたが、やがて里人に恐れられるようになり、果ては憎まれるようになって行きました。
ある時悪さをした河童を捕まえた里人たちが河童を懲らしめようとしてる時、栖足寺の住職がきて「わしに免じて殺生はやめてほしい」と里人に頼み河童を助けました。住職は河童にもう悪さをせず、遠くの地へ行けと河童を逃がしました。
その夜、眠っている住職の元へ逃がした河童がやって来ました。
河童は「和尚さんのお言葉通り、遠くの地へ参ります。つきましては、このかめを大切にしてください」と、かめを和尚さんに渡して去っていきました。不思議なことにこのかめに耳を傾けると川のせせらぎのような音がしました。
不思議なことにこのかめから聞こえる川のせせらぎを聞くと悪意は霧のように薄れ、聞いた者の心は清々しく晴れていったとのこと。
この河童のかめは今でも栖足寺に大切に保管されている。
山号 風儀山「栖足寺」 伊豆88か所35番札所
創建 鎌倉時代 本尊 釈迦如来

カッパ像

境内


栖足寺 本堂

山奥深い伊豆谷津の山々

「伊豆ならんだの里・河津平安の仏像展示場」へ。(入館有料 ¥300 河津町谷津)
親切な職員の案内で、
京都東山「南禅寺」は、
臨済宗南禅寺派の大本山であり、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」という。
南禅寺の歴史は、鎌倉後期の正応4年(1291)に無関普門を開山とし、東山にある開基亀山法皇の離宮を禅寺に改めた事から始まる。
天皇として最初に禅僧となられた法皇は、発願文『禅林禅寺起願事』をしたためられ、その中で「日本で最も優れた禅僧」を南禅寺の住持とするよう定められた。つまり「南禅寺住持」は法系・派を超えた最高の禅僧の代名詞であり、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧が代々住持に任ぜられる事と。
伽藍は、1393年、の大火・文安4年(1447)の失火や応仁の乱(1467)等によって荒廃したが、江戸初期に見事再興された。
今も建っている三門の楼上からは京都市内が一望できる。
しかし、南禅寺は徳川幕府との深い関係の中で再興・興隆しており、楼上からの眺望内に御所が見える構造は何か意図があるように感じられると云う。
1432年、山津波によって堂宇が埋没・土中より掘り出された24体の仏像(行基作も)
1200年の眠りから覚めた仏像群
展示場館内

河津町は、平安時代、華やかな仏教文化が花開いた土地でもありました。
多くの仏像を伝える河津町にあって、最も古く、学術的、美術的に重要な仏像を多数伝えるのが、谷津の南禅寺。
2013年、、南禅寺横に「伊豆ならんだの里 河津平安仏像展示館」がオープン。
南禅寺の本尊・薬師如来坐像は、平安時代前期(9世紀)に遡る仏像で、静岡県内最古の仏像。
時代の木彫仏像は、神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県など周辺都県でもほとんど知られておらず、この地域の歴史を考える上で極めて重要な文化財。
他にも南禅寺には、東海最古の地蔵菩薩立像(10世紀)や、1978年にドイツ・スイス・スウェーデンのヨーロッパ各地での展示会を巡り、
二天立像(10世紀)を始め、24体の平安仏が伝えられている。
南禅寺 薬師如来 町指定 像高 117.7CM

「掛川誌稿」(天保年間1833~44)
「……中古南禅寺と云は誤也といへり、今は薬師堂一宇、奥谷にあり、村人は専ら南禅寺と呼、
……南禅寺は自ら別にて、那蘭陀寺と共に荒廃せしに因て、再興の時二寺を併せて、那蘭陀寺の旧号を冠せしにや、総て詳なることを得ず、…」とあり、2つのお寺がひとつになったようですが、これ以上のことは不明。
谷津の周辺には「弥勒」「大門」「仏ヶ谷」という地名があることから、かなりの規模だったであろう。
室町時代の1432年、大規模な山津波に襲われ、那蘭陀寺の御堂や26体あったという仏像は土の中に。
ところが埋もれていたのが赤土(粘土質)だったようで、幸運にも土がクッション役になり、24体が掘り起こされ、このうち本尊薬師如来像はじめ何体かは土の上にお顔が出ていたのですぐに発見され、ほぼ無傷で掘り出されたと云う。
山津波で廃寺になってから100年余経った天文10年の1541年、
温泉治療にきた鎌倉正光院の南禅和尚がここに坊を営み、和尚を慕った里人たちが「南禅坊」と呼んだことから南禅寺の寺号で復興。
江戸時代には天台宗聖護院系の山岳修験の寺となり、明治5年の修験道廃止まで続いている。
現在の南禅寺本堂は、里人の浄財で、1814ねん、再建され、平成の世に新設された展示館であるが、中に入ったら、
造られて1200年は経つ平安木像24体が安置。
真正面中央にドーンと安置された本尊薬師如来像(カヤの木の一木彫りで平安時代前期~中期頃の作)
薬師如来像、1200年前の木像とは思えない、薬師如来は手の指の第二関節あたりから水かきのようなものが付いていて、病む人々を余さず救い出すと如来パワーを、調査した専門家によると、この像は水かきが指の第一関節から付いており、まさに古い時代の証拠、静岡県内では最古の仏像で、全国でも指折りの国宝級の平安木像。
東京国立博物館で調査のために一定期間保管され、南禅寺に昭和31年に戻されたとき、国宝指定されるべきところ、国宝を保存管理する諸条件が金銭的に困難だったため、条件の緩やかな県指定に。
また、僧形坐像、一体だけ、お触りできた。(おびんづる様は触って拝むほとけさまで)
東海地方最古の地蔵像「地蔵菩薩立像」は、「拝めばいつまでも若々しく美しくいられる」と女性に信仰されていたという。
「十一面観音像」、甲冑をまといヨーロッパ巡回展では古代ローマの勇士のようだと絶賛・「天部立像」など木像がズラリ展示。
埋まっていたのが赤土(粘土質)ではなく黒土だったため、一部が朽ちてしまった像もあり、管理人さん曰く「直径1・4センチの螺髪が8つ発見されたが像本体が見つかっていない。まだまだ土の中に埋もれたほとけさまがいらっしゃる」とのこと。
中央の都から遠く離れた伊豆・河津の地に国宝級の仏像が続々と出土したのか?。
仏教が伝来して間もない奈良時代に早くも伝道師が足を踏み入れ、布教活動を行い、信仰の拠点を築いた。
キツイ登り坂であったが、その甲斐は充分であった。
仁王像天部立像 県指定 像高 158.3 145.7CM

観音立像

立像 平安時代

男神立像 町指定 坐135CM

女神立蔵 町指定 平安時代


虚空蔵菩薩は知恵の仏

古いお堂

虚空蔵菩薩坐像 坐35.4CM

延命菩薩 下から見ると薄目を

延命菩薩像本堂内に

「行基」 668-749 奈良時代の百済渡来氏続高僧ー日本各地で社会事業で、人々を救っている。
池・道路・橋・僧院・仏像建立など「大僧正」に任じられた。