syuの日記・気まま旅

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伊東駅近徒歩で 紅葉の松月院 大川沿いに東海館となぎさ公園へ

2018-11-04 | 気まま旅
中世の豪族「伊東氏」は、「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人。
1261年の日蓮もこの地に流され、居住跡が「仏現寺草案跡」とされた。
1605年ウイリアム・アダムス・三浦按針がここ伊東で西洋式帆船の建造されたと云われる。
温泉は、和田大湯・松原出来湯・猪戸湯の3種「汲湯」江戸城に運ばれている。
現在大川中心に800本近い源泉をもっている。


                      伊東駅広場


音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)



松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。


幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。

  訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。




                          本殿








                         手石島が








「伊東祐親」平安時代の武将
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、「篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場 
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。

(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)

東京都大島町・伊豆半島の東・都の南120km・東西約9km、南北約15km・伊豆諸島最大の島・富士箱根伊豆国立公園・大部分が玄武岩三重式成層
火山・島中央にあるカルテラは、7~8頃噴火に2つのカルテラが合体した。
9世紀頃海岸が割「池」が。1703年地震で津波のより海に、1777年大噴火により「三原山標高758m」誕生、島周囲53km。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
                      伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


                          伊東祐親像






                         伊東祐親の墓


                         伊豆高原方面


                町の中央を流れる大川沿いにある「東海館」


                           大川橋


                       大川橋からの東海館


              三浦按針(ウイリアム・アダムス)に指導で造船作業が


「夢花火」 伊東海岸. 8月・ 宇佐美花火大会 ー 宇佐美海岸. 8月、「灯籠の流れ」打上花火. 伊東 海岸. 8月・
「太鼓の響き」打上花火.伊東海岸. 8月、 第72回按針祭 海の花火大会. 伊東海岸一帯. 8月・ やんもの 里花火大会. 八幡野海岸. 8月・
川奈港いるか浜花火大会と続く。
                       伊東の花火


                      伊東湾灯台と向かいの大島


                   伊東ー初島を結ぶ 東海汽船乗り場


                         朝の岸壁で釣り人が


                         なぎさ公園へ


渚町ー伊東駅前12号線を海岸に向かうと、国道135号線と交差、大川に沿って、川口公園を抜けると伊東湾に出る、次回に。

「みかんの花咲く丘」
第2次世界大戦の終戦直後に生まれた童謡が、伊東から。
日本を代表する名作の1つとして知られ、1946年、発表。
作詞は、加藤省吾、作曲は、海沼實・「井口小夜子が吹き込んだ物と、川田正子が吹き込んだ物がある」

    「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる・・・・・。

「三浦按針・アダムス」 1564-1620 日本最初のイギリス人航海士 イギリスと友好都市に。
徳川家康からー250石を貰い、家臣となる。日本橋に屋敷を与えられ、日本女性と結婚し1男1女の4人家族。
家康の命令で、ここ伊東で西洋風船を造る。他にも幾何学・数理学などを講じたとある。現在、横須賀に按針塚が残されている。

                   オリーブの木の囲まれた公園


                     徳川家康と大名時計


                         三浦按針


「松原・湯川」の海岸を「伊東海岸と云う。
延長1kmで遠浅の砂山である。6月中旬海開き「市営海浜・温泉プールもある」・夏ミカン狩りは3~5月頃

                     伊東港の岸壁


                    伊東港の灯台と初島


                  按針の指導で、帆かけ船建造場面


        宇佐美ー伊東港ー川奈ー小室山―門脇岬―蓮着寺(日蓮上人の霊場)-城ヶ島と続く


                        オリーブの木




「木下杢太郎」 明治時代の医学者で文学者・記念館が近くである。伊東公園に碑が建つ。
「北原白秋」の伊東音頭の碑・「尾崎士郎」文学碑(戦時中疎開)・「与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・高浜虚子」の碑がある。
これは、木下の「明星」の仲間と云う。