ー熱海ー来宮ー伊豆多賀ー網代ー「宇佐美」ー伊東(伊東線)伊東ー伊豆高原・・下田(伊豆急行)
無人駅「宇佐美駅」下車。
静岡県伊東市宇佐美・県の南東で市の北端、元田方郡宇佐美村。
海岸寄りに、国道135号線・海水浴場・住宅が密集、西の山側はミカン畑・江戸時代から、西に石など荷物の積み出し港と漁港と「秋葉道、中核的宿場」
で賑わった。
奈良・平安・室町時代まで「伊東祐隆(平家方)・後妻・娘(源氏)」娘方の三男「城主・宇佐美祐茂」の城下町。
伊東氏・伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっていた。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となり、宇佐美祐茂は、1180年の「石橋山合戦」から、源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられている。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従って、上杉憲顕は、後に「初代関東管領」となる。
越後・上野・武蔵・安房の守護となり、この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出した。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようで、伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出・この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承が残っている。
追放された茶々丸は、失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従い、工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っている。
しかし、1495年には、伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落、(この間の宇佐美氏の動向は不明)
「宇佐美城」近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代まで・(この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われる)
後北条氏時代の宇佐美城は、主を失った城で、その後は、城番が置かれていたと云う。
残念ながら城跡に大学の寮が築かれた。堀や土塁などが良好に残っていたと云う。
宇佐美海岸 正面に伊東の手石島が見える(熱海~伊東間)

国道135号線に出る手前に、一里塚の巨樹の松が,(樹齢450年)

「秋葉信仰」
秋葉寺ー(しょうようじ)と読む、
昔の武将たちは、戦勝祈願・刀剣などを奉納するための旅に出ている。その目印が、常夜灯や一里塚を目指して旅に、
宇佐美は、その中核的な宿場と云う。海岸公園内に当時の常夜灯が残っている。
秋葉道は、生活・政治・経済・文化の交易の道であった。

「塩の古道・秋葉、鳳来寺道」
江戸時代後期には、道者の通る街道が固定化したようで、掛川〜森〜三倉〜坂下〜秋葉山へ通じる街道は
「日傘で道に日が当たらぬ程の往来があったといい、俗謡に「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と伝えられている。
道標や常夜灯は、いたる所に置かれ、これを目じるしにして旅人が通過していった。
本宮山越えの秋葉道は険しい山が続いたので難儀をしたことが、高山彦九郎の日記「甲午春旅」に記されている。
秋葉寺は、守護神、三尺坊大観現、火防の神。
遠信古道・秋葉街道で運ばれていたなが重要な産物の一つに「塩」。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」があり、南塩ルート・遠州からの遠信古道、三河からの中馬街道の二つがあり、中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代と云う。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いて、南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことが。
昭和17年まで、「秋葉寺の火祭り」の際には湯立て神楽が行われ、その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っていると云う。
烏川橋(川は、山城の掘りの役割を)

烏川を正面にした「山城ー宇佐美城跡」

入山口が判らず。

烏川を利用した地形の山城であったと思われる。

森を囲んだように県道が、車多し。

宇佐美は、下田方面と亀石峠・韮山方面の分岐点になる。


海岸に「森米城句碑」あり、宇佐美出身 「とも尻の 梅へ出船の 大たき火」(門下生一同とある)



江戸城石丁場があった。(折敷三文字の刻印)

「烏川」流域は2.3kmの2級河川であるが上流は火山性の安山岩質で急勾配。


無人駅「宇佐美駅」下車。
静岡県伊東市宇佐美・県の南東で市の北端、元田方郡宇佐美村。
海岸寄りに、国道135号線・海水浴場・住宅が密集、西の山側はミカン畑・江戸時代から、西に石など荷物の積み出し港と漁港と「秋葉道、中核的宿場」
で賑わった。
奈良・平安・室町時代まで「伊東祐隆(平家方)・後妻・娘(源氏)」娘方の三男「城主・宇佐美祐茂」の城下町。
伊東氏・伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっていた。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となり、宇佐美祐茂は、1180年の「石橋山合戦」から、源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられている。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従って、上杉憲顕は、後に「初代関東管領」となる。
越後・上野・武蔵・安房の守護となり、この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出した。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようで、伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出・この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承が残っている。
追放された茶々丸は、失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従い、工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っている。
しかし、1495年には、伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落、(この間の宇佐美氏の動向は不明)
「宇佐美城」近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代まで・(この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われる)
後北条氏時代の宇佐美城は、主を失った城で、その後は、城番が置かれていたと云う。
残念ながら城跡に大学の寮が築かれた。堀や土塁などが良好に残っていたと云う。
宇佐美海岸 正面に伊東の手石島が見える(熱海~伊東間)

国道135号線に出る手前に、一里塚の巨樹の松が,(樹齢450年)

「秋葉信仰」
秋葉寺ー(しょうようじ)と読む、
昔の武将たちは、戦勝祈願・刀剣などを奉納するための旅に出ている。その目印が、常夜灯や一里塚を目指して旅に、
宇佐美は、その中核的な宿場と云う。海岸公園内に当時の常夜灯が残っている。
秋葉道は、生活・政治・経済・文化の交易の道であった。

「塩の古道・秋葉、鳳来寺道」
江戸時代後期には、道者の通る街道が固定化したようで、掛川〜森〜三倉〜坂下〜秋葉山へ通じる街道は
「日傘で道に日が当たらぬ程の往来があったといい、俗謡に「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と伝えられている。
道標や常夜灯は、いたる所に置かれ、これを目じるしにして旅人が通過していった。
本宮山越えの秋葉道は険しい山が続いたので難儀をしたことが、高山彦九郎の日記「甲午春旅」に記されている。
秋葉寺は、守護神、三尺坊大観現、火防の神。

遠信古道・秋葉街道で運ばれていたなが重要な産物の一つに「塩」。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」があり、南塩ルート・遠州からの遠信古道、三河からの中馬街道の二つがあり、中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代と云う。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いて、南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことが。
昭和17年まで、「秋葉寺の火祭り」の際には湯立て神楽が行われ、その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っていると云う。
烏川橋(川は、山城の掘りの役割を)

烏川を正面にした「山城ー宇佐美城跡」

入山口が判らず。

烏川を利用した地形の山城であったと思われる。

森を囲んだように県道が、車多し。

宇佐美は、下田方面と亀石峠・韮山方面の分岐点になる。


海岸に「森米城句碑」あり、宇佐美出身 「とも尻の 梅へ出船の 大たき火」(門下生一同とある)



江戸城石丁場があった。(折敷三文字の刻印)

「烏川」流域は2.3kmの2級河川であるが上流は火山性の安山岩質で急勾配。

