syuの日記・気まま旅

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深谷 龍宮神社 供養塔のある清心寺

2015-01-15 | 気まま旅
深谷市は、県北部、南部は、荒川の洪積扇状地(櫛挽台地)・北部は利根川の沖積低地、町は台地と低地の境界付近で発達した。
中世は、「深谷城」があった。江戸時代に廃城している。
中山道の宿場町と生糸を中心に「市場町」として栄える。明治に入り我が国最初の「洋式煉瓦工場」と「製糸工場」と「製粉工場」が設けられた。
レンガと瓦・生糸と小麦粉で知られている。もう一つある「深谷ネギ」ネギは全国有数の産地である。
血洗島にある実業家「渋沢栄一」の生家は、国際学園で日本語教育の場に。

深谷ねぎは品種名ではなく、深谷地方で栽培されたネギの総称。
根深ネギ・千住群に属する。品種は多数存在する。深谷市外で栽培されたネギも「深谷ねぎ」の名称で販売されている。
そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字の商標登録し、深谷ねぎのブランド力向上の取り組みを行っている。
「少し贅沢深谷ねぎ」のロゴが入った深谷ねぎは、太さ、形などが特に優れたものだけが厳選され、一部の高級スーパーに出荷されている。

東京駅の丸の内側駅舎を彷彿とさせる外観で、外壁にはパネルが使用され,東京駅の駅舎をモチーフに。
東京駅が日本煉瓦製造株式会社のレンガを使用したことにちなんでいる。
現在の駅舎は1996年に完成。1999年、関東の駅100選の1つに選ばれている。

JR高崎線,煉瓦造りの「深谷駅」前、朝の通学、高校生で混んでいた。


「瀧宮神社」
JR深谷駅南口、近くにある神社。
その昔この地に現れた湧き水が様々な幸を授け、神様からの地と崇められ、唐沢川の谷に流れ落ちる様子を瀧に因んで「瀧の宮」と称して神社を祀った。桜の名所としても知られている。

瀧宮神社                 鳥居                              狛犬
    

御祭神ー天照大神、豊受大神、彦火火出見命、をお祀りしている。
御神徳としては、五穀豊穣・家内安全・家運繁栄・起業成就・縁結び・合格・学業成就などの幸福を招く御神徳に、方災除け(八方除)
厄除け・交通安全など災いを除ける御神徳にと広大無辺に。

瀧宮神社・拝殿                   神木                     洗水楼
    

深谷城が康正二年・1456年、「上杉房顕」により築かれると、その方角から裏鬼門の守護神として伝えられた。
深谷一番の桜の名所・「唐沢川の桜堤」をメイン会場に行われている「深谷桜まつり」。
約3kmも続く両岸の桜並木は、見事である。咲き乱れるソメイヨシノと川と神社がよく似合う。
神社近くにある朱色の唐沢川に架かる「太鼓橋と桜」が、、、、。3月下旬~4月上旬。
                    
                       瀧宮神社・拝殿


「浄土宗寺院の清心寺」
石流山八幡院と号し、「萬誉玄仙」(慶長10年1605年寂)が開山、
上杉氏の老臣岡谷加賀守清英(1584年寂)が開基。1549年、に創建。
当寺には、源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという供養塚がある。

                 源平合戦、岡部氏と平忠度のゆかり寺
    

「曲田城・ 谷之城ともいう」
深谷家譜によると、深谷上杉の家臣皿沼城主岡谷加賀守香丹は、皿沼城を子の「清英」に譲って、この曲田城に隠居。
城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開いたとある。
寺は曹洞宗で岡谷山と号し、香丹は、1571年に自明和尚は、1535年に亡くなっている。
天正18年の1590年ー小田原落城の時、老臣小内外記之助この曲田城及び皎心寺を守っていたと云う。

京知恩院・満誉上人は、浄光院を開基している。
  

「平忠度」 1144-84        武将・歌人  「読人知らず」として一首
 
                   ーさざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かなー(千載和歌集)

平忠盛の子・平清盛の異母弟。「藤原俊成」和歌師事。
富士川の戦い・墨俣川の戦いでは、副将・倶利伽藍峠の戦いで敗れた後「一の谷の戦い」で討死した。

木曽義仲の軍勢が京都へ迫ったので、平家は続々と都を落ちて行った。平忠度は、主従七騎で引き返し、「藤原俊成」屋敷を訪れて、これまでの教えを
謝し、百余首の和歌を収めた巻物を渡して、永い暇を告げたと云う。俊成は、涙をこらえたとも云う。

                          供養塔
    

「深谷上杉氏四天王」
深谷上杉氏の上杉憲盛の家臣の4人の総称ー1) 岡谷加賀守清英(岡谷清英)・2) 秋元越中守景朝(秋元景朝)・3) 井草左衛門尉 4) 上原出羽守
(岡谷、秋元、井草の3人を「深谷の三宿老」といい、岡谷、秋元、井草に八井伊勢守を加えて「深谷の四宿老」といった)

    

「深谷宿」ー中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場。
中山道で最大規模の宿場であったと云う。
本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあった。
江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。 五の日、十の日に市が。「岐阻街道 深谷之駅」飯盛女が描かれている。

1843年の「中山道宿村大概帳」によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、宿内人口は1,928人とある。

常夜燈(東口)・天保11年の1840年建立。宿場の東口にあったと云う。
    

埼玉県の日本酒の蔵元は、平成5~6年で59家・94銘柄があった。深谷市は、滝沢商店「菊泉」・田中藤左衛門「七ツ梅」・斉藤藤三郎「東白菊」
丸山酒造「深谷鶴」の4場であったが。

              深谷市内の造り酒屋「滝沢商店・蔵」                              
  

「深谷城址公園」(以前にも紹介している)
1456年に深谷上杉氏の「上杉房顕」が台地の北端部付近に築いたもの。
天正18年・1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で開城するまで、深谷上杉氏の居城であったが、徳川家康の関東入部に伴い、「長沢松平家の松平康直」
が1万石で入城した。
                              深谷城址公園


その後、家康の七男松千代、兄の六男忠輝が継いだ。しかし、忠輝は、1602年に下総佐倉へ転封となり、1610年に桜井松平氏の松平忠重が入封したが、
1622年、上総国佐貫へ移封され、その後、「酒井忠勝」が1万石を領有して入封、1627年に武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となる。
寛永11年の1634年、に廃城。
                         深谷城址公園内(支庁なども)
  

「上杉憲顕」1306-68 武将ー足利氏姻戚の「上杉憲房」の養嗣子・ 山内上杉氏の祖。足利尊氏に属す、初代関東官領。
「上杉 憲賢」~1560年は、戦国時代の武蔵国の大名。上杉憲清の子で、深谷上杉氏の当主。次郎、義竹軒、雲岑、静賢。室は高泰姫。子に憲盛。

1518年、 上杉憲賢が深谷城主となる。1535年、 深谷上杉憲賢、曲田城(深谷市)を築く。1537年、北条氏綱、河越城を奪う 。1540年、 大風雨、不作、飢饉。1541年、 金山(太田市)城主横瀬泰繁が北条方に従おうとしたので、管領憲政は深谷上杉憲賢や、忍城主・厩橋城主・佐野城主等にに命じて攻撃
1546 年、河越夜戦、管領上杉憲政は平井城へ退く。その10月、管領上杉憲政軍、笛吹峠(碓氷峠)で武田軍と戦い敗れる、関東諸将は管領上杉憲政を見限って続々と北条氏に帰参したが、深谷上杉憲賢は管領上杉憲政の幕下にとどまった。

1552年、管領上杉憲政は平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼る。その年、3月、北条氏康は余勢を駆って北武蔵に侵入、深谷上杉憲賢は寡兵で北条氏に抗する不利をさとって降伏。
これ以降、深谷上杉氏は一在地領主として戦国の荒波をくぐり抜けた、小田原の北条氏と越後の上杉謙信との狭間で、わずか21年間に北条→上杉→北条と5回所属を替えた と云う。

「酒井 忠勝」  1587ー1662 別名ー与七郎(幼名)→忠勝・幕府ー江戸幕府老中、大老 ・藩ー武蔵深谷藩主→川越藩主→若狭小浜藩主
        氏族ー雅楽頭酒井家 ・父母ー父・酒井忠利、母・宝鏡院(鈴木重直の娘)。

                  深谷城址公園内、一部石垣と堀・土塁が
    

「岡部 忠澄」源平の戦いで活躍した武将、御家人。
武蔵七党の猪俣党の庶流・岡部氏 の当主。平家物語における、平忠度を討ち取ったエピソードで認知度を得ている。
保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。
源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、1180年に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなる。
木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、1184年の「一ノ谷の戦い」では平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。
その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。
この話は、平家物語を典拠とする話。平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従った。1197年没。

                     岡部忠澄の墓石と畑
  

平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立。
その後、五輪の塔は、1649年に、清心寺(掲載済み)移築された。

五輪の塔から出土した遺物及び五輪の塔の形状から、これらは忠度や忠澄の生きた平安末期から100年ほど経過した後に建築されたものではないかと。

                       岡部忠澄石塔
  

「備前渠川・ 備前渠用水路」
県道45号 ・ 本庄妻沼線 妻沼→本庄 車載ー 用水路。
川は、 埼玉県本庄市からここ深谷を経て熊谷に流れる農業用水。(鉄橋と深谷上敷免間鉄道廃線 跡)

備前渠用水 (小山川から日本煉瓦製造) 


小山川への合流直後(下流から) 岡部町岡~深谷市矢島・本庄市山王堂から深谷市矢島までの3.9Kmの区間、
備前渠用水は、一級河川 備前渠川となる。名称は備前渠川だが、江戸時代に掘られた用水路。合流直後の小山川には、橋南堰(コンクリートの固定堰)が設けられている。
橋南堰から下流の矢島堰までの約1Kmの区間では備前渠用水は、小山川の河道を送水路として利用している。歴史の古い農業用水路によく見られる自然河川との併用。

新井用水へ。1895年に建設された備前渠鉄橋。現在は歩行者専用橋だが、かつては鉄道橋であり、「日本煉瓦製造工場」からJR高崎線の深谷駅まで、
煉瓦を積んだ列車が運行していた。
備前渠鉄橋は日本でも最古の部類のポーナル型のプレートガーダー橋で、国の重要文化財。

                             新井用水・新井橋
    

「国重文・日本煉瓦製造」-かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社。本社を東京に置き、埼玉深谷で煉瓦製造工場を操業していたー
明治政府は臨時建築局を設置し、ドイツ人建築家のヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデをお雇い外国人として日本に招いた。
都市整備のために良質な煉瓦、ならびにそれを製造する工場が必要であることを明治政府に進言。
これにより「渋沢栄一」らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。
後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、精算された。
会社清算に伴い、埼玉県深谷市にあった工場の諸施設は、すでに重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて
所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。

「ホフマン輸窯・6号窯」
ホフマン考案ー煉瓦の連続焼成が可能な輸窯。明治4年の建造で、長さ56.5m・巾20m・高さ3.3mの煉瓦造り。
内部18部屋に分け、窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの工程で順次行いながらの移動式ー約半月で一周ーこれで生産能力UPしー月産65万個。
昭和43年まで約60年間煉瓦を焼き続けたと云う。見学は、申込み。

備前渠鉄橋(明治28年敷設)も今は、遊歩道に。
  

日本煉瓦製造で製造された煉瓦は、利根川を利用して運んでいたが、輸送力向上を目的としてに日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。
本路線は廃線、その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」になっている。近くにあるブリッジパークには、この路線で使用されていた福川鉄橋が保存されている。

           平成18年、約120年の歴史に幕を下ろした(現・深谷市ゴミ処理場)
    

次回は、深谷市下手計の渋沢栄一記念館方面へ。

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