「那須に大運河計画が」
1877年の明治10年、那珂川上流で実地調査が始まり、翌年8月には精密な測量が。測量の結果、東京までの水路に必要なのは約45キロの掘削。
「水路の延長 11里16町51間5尺・高低差 1165尺・河川横断 5カ所・水門 52カ所・橋梁 61カ所・工費 16万6000円」
測量結果は14冊の冊子にまとめられたが、総工費は膨大で、とても民間だけで実現はできません。
そこで、鍋島氏は、明治12年、「那須原水路開鑿之儀上申」を政府に提出し、国の協力を求め、この請願を受け、明治12年、伊藤博文、松方正義が那須野を巡覧し、結局、工事の許可はおりませんでした。
同じ頃、福島県で安積疎水が開削中で、資金の余裕がなかったからと云う。
運河の計画が思うように進まないなか、明治13年、肇耕社(後の三島農場)や那須開墾社などいくつかの大農場が発足し、開拓事業にはもちろん水が必要なので、大運河は後まわしにして、まずは入植者の生活用水や牛馬の飲用に足りるだけの疏水を開削することになります。
この申請は、「那須原水路開鑿之儀付願」というもので、起業公債資金から2万2707円の下付が認められ、
明治15年、竣工式を迎えた。
飲用水路は開通しましたが、印南丈作と矢板武らは、さらに大運河開削の運動を続けます。
しかし、度重なる請願も空しく、結局、大運河構想は実現に至りませんでした。
灌漑用大水路は太政大臣の許可を受けており、明治18年に、「大水路の竣工式」が行われた。
こうして完成したものが、今日「那須疏水」と呼ばれる大水路群。
「安積疏水」「琵琶湖疏水」とともに「日本三大疏水」の1つ。
開通式には、北白川宮親王、山県有朋、三島通庸ら大物が参列するほどの大事業と云う。大正初期約150HAの水田が・現在1000HAを超えると云う。
予定通り「那須道の駅」着
高速バスは、宿入口で停車した。
部屋から中庭を
那須山ー南月1776m・茶臼岳1915m・三本槍岳1917m・三倉山1854m-
「那須岳」という名前の山があるわけではない。(このあたりにある山々を指した 総称)
那須岳の主峰である茶臼岳の別称とすることも、那須三山と呼ばれる茶臼岳・朝日岳・三本槍岳。
宿の隣が「那須御用邸」
栃木県那須郡那須町・1926年の大正15年・ 昭和元年ー主に8月 - 9月に訪れていると云う。
平成20年、天皇・皇后の意向を受け、初めて秋の時期に訪れた。
平成23年、御用邸敷地の約半分が一般開放、「那須平成の森」として開園した。
大正15年頃は
日本初の普通選挙実施・その年の12月大正天皇死去47歳、年号昭和と改元・NHK日本放送協会設立ー内閣 若槻礼次郎(憲政会)
翌年昭和2年第一次山東出兵 内閣 田中義一(政友会)アメリカの児童から日本の児童へ送られた「青い目のお人形」。
「那須街道」
律令時代の昔より那須町には「東山道」と呼ばれる道があり、「源義経」が平家追討の挙兵に応じて平泉から鎌倉へ向かった道である。
「義経街道」、また白河の関に通じることから「関街道」とも呼ばれている。
東山道を白河の関から伊王野まで、義経伝説と共に里山風景を楽しみながら。
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