syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

少年時代の遊び

2016-10-10 | 思い出
昭和22年「パン切符配給制」(現金にするため闇屋に流れた)
小麦粉が配給制になったために、全国にあったパン屋さんは、小麦粉を持参したお客さんに手間賃でパンを焼く。
小麦粉持参でないとパンが売れない事態に。



1947年昭和22年、カスリーン台風が東京直撃し、1930名が亡くなっている。
 
近所にHさんと云う金持ちの医者一族がいた。浅草国際通りで病院を開業して繁盛していた。その息子たち3人とよく遊んび、末っ子とは、ベイゴマ、メンコ,チャンバラ、けん玉、江戸川方面まで魚取り、3本立映画館・・・など。一つ学年が上であったが良く誘われた。
その末っ子が谷中の五重塔で遊ぼうと云いだし、中に入った事があると云う。
恐々二人で、忍び込むと、中は薄暗く、床がギシギシ音を立て、螺旋状の階段が崩れそうで昼間でも気味悪かった。
その五重塔は、幸田露伴の小説で有名な「五重塔」のモデルの塔とは知らなかった。やめればいいのに末っ子、螺旋状の階段で、滑り落ちたのだ。
足をくじき動けないと云いだした、Sは、急いで、親に連絡し大騒ぎに、それからは、親に叱られたのか、遊びに来なくなってしまった。



子供の頃よく遊んだのは、ベイゴマ、メンコ、ビー玉、チャンバラ、トンボとり、凧上げなど。その中のベイゴマの名人が3つ先輩にいた。
近所のがき大将、その名は「ブーちゃん」。
彼のベイゴマの強さは半端でなかった。毎日やすりで磨き込んで、頭にローソクで回転を調整すると云う。
いろいろ遠征して大量に取り上げ我々に自慢していた。
ベイゴマに対しての努力も大変なもの。
ある時、「Dさん」と云う隣町のがき大将が挑戦してきた。
10本勝負で7対3で、当然勝つものと思っていたのが、「Dさん」の勝ちで我々びっくりした。その「Dさん」数年後、盆踊りの櫓の中央で晒しを捲き、上半身を出して大太鼓を打っていた。太鼓の打ち方も手馴れており、女の子にも、人気の男前。

ラジオ連続ドラマ放送「君の名は」、何時も満員の風呂屋もこの時間は空いていた。
君の名はと たずねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て
浜昼顔に きいてみる・・・・。



君の好きな作家は、、と聞かれれば、「長谷川伸」であろう。
彼が優れた作家だからというだけではない、Sと境遇が似ているからであろう。
彼は、3歳で母と生き別れている、さらに、一家離散と云う逆境の中で成長、
若い時は、不良仲間と付き合いスリの巾着切りを手伝っている。

その後自制心によって立ち直る、、彼曰く、「自分の意志で誘惑を断つこと、これも立派な行為」と云っている。「瞼の母」「一本刀土俵入」「日本捕虜史」などは、彼の生い立ちが生きている。とくに「瞼の母」の芝居を見るとどうしても涙が止まらない。


当時の映画スター、笠置シズ子、美空ひばり・中村錦之助・片岡千恵蔵・坂東妻三郎・長谷川一夫・エノケン・古川ロッパ・伴ジュン・原節子
高峰秀子・三枝子・東千代介・大河内伝次郎・三益愛子・・・・。片岡千恵蔵「二十面相」の物まねが流行った。
         西部劇の洋画もよく見ている。








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2 コメント

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ご苦労を (oko)
2016-10-12 14:59:54
心して拝読させて頂いておりますがあまりにも悲し過ぎます。
前からコメントを・・・と思いながら文章がまとまりませんでした。
今の幸せな方には理解出来ないでしょうが、私は理解出来ます。
「大地の子」などをTVで見たり本を読むたびに残留孤児でなくて
良かったと親類に感謝もしましたが、過去には幾たびも命について
考えもしました。
現在は今ある命に感謝して残された日々を大切に生きて参りたく思います。
時節柄ご夫妻様のご健勝をお祈り申し上げます。
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恥ずかしながら (syu)
2016-10-17 20:28:39
ご訪問ありがとうございます。外出していましたので返事遅くなりました。
こんなブログはちょっと恥ずかしいのですが、旅も書き尽くしたようなので
思い出を徒然にかいてみようかと始めました。
oko様にはもっともっと話しいことがあったと思いますが年月は癒してくれますね。
寒さに向かいます。お体大切に!
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