syuの日記・気まま旅

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戦死者 餓死者

2016-10-03 | 思い出


「戦争とは、餓死者が多数出ることを知ってほしい」、第二次世界大戦通じ「戦死者」より多い餓死者ー
国は、餓死者の正しい数字は、いまだ、推定数で、その2倍か・3倍以上か知る事が出来ない。それが戦争である。
孤児達は、過去に、生きるため盗み・売春婦になったり、補導され刑務所に入れられたり、ヒロポン中毒になったり性病に、他人に知られたくない過酷な人生を送り、そのことが判明して、世間の人達から後ろ指を指され、救いは、アメリカ兵であったと云う。
まるで大発見したかのように「あの人はこんな人だったてさ」と、こそこそと集まっては「我が国特有のウワサ・動物的冷たい目線を・軽蔑の眼差し」でみるのである。その為、自殺したものが多く、自殺した孤児は、上野の山の公園近辺だけでも何百人いたであろう。
薬中毒・精神異常者も、かなり多い。国の統計は、氷山の一角。
孤児の命は非常に短い、餓死(食べられない)、凍死(氷点下の寒さの中で)、中毒死(腐ったものを食べて)、虐待死(殴られたり)、変死(原因がわからない)、病死(伝染病など)衰弱死(体が弱っていく)、自殺(将来を悲観して)など。
戦争中から、「配給制度」を取り入れ、米、味噌、醤油、砂糖などの食料、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日常品までが、配給されていた。
各家庭に、あらかじめ人数分だけの引換券(切符)が配布され、これを商品と引き換える方式。
こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは「法律違反」であった。
燃料・マッチは、生活必需品・ティッシュペーパーなど存在してないので印刷物の紙・敗戦とともに、どんどん配給制度がマヒ状態に。
国民は、燃料不足が深刻であった。燃えるものすべて燃料に。
遅配や欠配が続き、地域差・国有、企業などの権力者、コネの横流し・弱者(女性・老人・子供・浮浪児等)は、
すべて最後に回され、差別が広がり、不公平が横行し、弱い人々は、配給を頼っていては、食べるものを手に入れることができなかったので、法律違反とわかっていても、「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしかなかったのだ。又、街は、無法で危険。
特に都会の住民が食料を手に入れるのは地方より困難であり、物々交換で荷物を背にして、農村に買い出しに行くことになる。
着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚はがしていくので、
「タケノコ生活」と呼んだ。



昭和22年、東京地方裁判所の山口判事(34歳)が、栄養失調のために死亡。
法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためと云う。
東京高校ドイツ語教授亀尾氏・青森地裁裁判事保科氏も栄養失調で死亡。
山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にあり、法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたとある。
逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死。
山口判事は、「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」という意味のメモを残していた。
命か法か。日本国民を粛然とさせる事件。
栄養失調は、体が必要とするカロリーや栄養素が不足している状態を指し、特に蛋白質が不足で、筋肉・血管・血液・免疫細胞を作る栄養素と云われこれが不足すると命に関わる。また、ビタミン・ミネラル・・脚気が多数出ている。
栄養失調の子供は、胸骨が出っ張ってくる・肌が乾燥し青白く冷たい・体に弾力なく顎がこけてくる・髪が薄く乾燥する・髪が抜ける・お腹だけ膨らむ
鼻汁が出やすい・・・・。
各家庭で落差があるが、焼き出された家庭は、毎日・毎日・毎日・・腹が減って我慢の日が続く。


「MP」とは、ミリタリー・ポリス ヘルメットにMPマークをつけジープで巡回
自軍の兵士を統制する軍事警察・憲兵で、日本警察より優先していた。終戦直後は、MPが頼りになった。



上野の山に戦災孤児が1000人以上、終戦から4年頃になってやっと国が不忍池に収容保護に乗り出した。
ニュース映画では戦災孤児が収容された施設で肩を寄せ合っていく姿が映し出された。

東京裁判で戦争を指導した28人のA級戦犯で全員有罪判決、東条英機ほか7名が絞首刑となった。
昭和24年お年玉年賀はがきが一枚2円で売り出されている。政府の主食配給は、2合1勺ー1200カロリー。

家庭科の料理教室で、カレー作り、米は、各自持参、Sの米だけ「外米」であった。
小学5年に、箱根の修学旅行があり、義母からは、我慢するようにと欠席。数日後、先生から「K君のお父さんから経済的であるなら出してくれると
申しだが」喜んで参加する事が出来、当時は、旅館に米を持参する。
宿に着くなり米を出すように言われ、各自で鍋にあけると、Sのみ「外米」で、赤いすじ入りの細長い米、ある生徒が、先生、S君の米「外米」をと大きな声を。Sのあだ名その後、「外米」に、

JR常磐線の闇米担ぎ屋
常磐線上り線「日暮里駅ー上野駅」で、日暮里駅を出ると闇屋の一斉取り締まりが行われていた。
京成電鉄のカーブ手前で、我が家は、その近くであった。
そこに、米の入った、風呂敷・リックサックを投げ捨て、彼らは、Uターンして拾いに来るが、空の風呂敷・リックは残るがほとんど米は地面に吸い取られていた。











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