syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

音止めの滝 曽我兄弟の仇討

2015-06-16 | 富士山麓日記

それは五月雨の日に起きた!
鎌倉幕府成立の翌1193年(建久4年)5月28日。

鎌倉に幕府を構えた源頼朝は、東国武士の力を京都の公家たちに認めさせるために富士の裾野で大軍事演習を行う。
世に言われた将軍の大巻狩り。
それは将軍頼朝が武家政権を発展させていこうと実力を天下に示す機会となるはずだった、大巻狩りで起きた事件。

ことの発端は、1176年に起きた。
同族間の領土争いで、工藤祐経が家来に河津祐泰を弓で討つ。
河津祐泰の遺児である、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が母の反対を押し切り、17年のときを経て、
仇である工藤祐経を富士の裾野での大巻狩りで追いつめる!

曾我兄弟の仇討ち~親子愛、兄弟愛~
「曾我兄弟の仇討ち」は「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ日本三大仇討ちの1つとして今もなお伝えられています。

また、歌舞伎の世界では「曽我物」として江戸時代からジャンルとして確立されています。

なぜ曾我兄弟の物語がここまで愛されると言えば、いつの時代にも通じる親を思う気持ち、兄弟で力を合わせる、目的を達成する強い気持ち、
こういう精神を伝えてくれるからでしょう。

そんな曾我兄弟の仇討ちをしのぶ音止めの滝付近に遺跡が沢山あります。




音止めの滝の名前の由来は、源頼朝が挙行した富士の巻狩りの際に、曾我祐成・時致兄弟が父の仇である工藤祐経を討とうとした、
その密議をしていたが滝の轟音で話が聞き取れない、そこで神に念じたところ、たちどころに滝の音が止んだという伝説による。
曾我兄弟は見事に本懐を遂げた。

曾我の隠れ岩
音止の滝の東側に、曾我兄弟が工藤祐経を討つ時に隠れていたという言い伝えが残る「曾我の隠れ岩」もがある。
     

    

                       

壮大な冨士白糸の滝

2015-06-13 | 富士山麓日記
今日の富士山(6/8)雪がまだ少し残っています。河口湖インターで面前にそびえる富士山は圧巻です。


久し振りに白糸の滝へ行こうと、ここはミルクランド、牧場あり珍しい野菜や乳製品などがいつも豊富です。


白糸の滝は下の写真の看板でも説明されていますが、富士の湧水から流れています。雨の後で水量多く圧巻でした。 



白糸の滝は、静岡県富士宮市上井出にある滝。隣接する音止めの滝と共に、著名な観光地の1つとして知られ日本の滝百選にも選ばれている。
国の名勝、天然記念物。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。
上流につながっている川から流れる滝と、断面(溶岩断層)からの湧水による無数の滝が並んでいる。
水量は毎秒1.5トン。幅200m、高さ20mの崖から絹糸を垂らしたように流れる様子からこの名がある。

富士の巻狩りの際に滝に立ち寄った源頼朝は歌を詠んでいる。
   この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝









ここは滝を眺めるためのちょっとした広場なのですが、3.4年前に訪れた時はここに古い家が建っていて、食べ物屋さんと
ジュースなどを売っていたのですが、その軒下を歩いて滝を見たのでした。
狭い所で危ないような・・・。またお店もあまり繁盛してなく皆直ぐ帰ってしまうのでとうとう取り壊されたのでしょう。
でもとてもよくなりました。柵も出来ゆっくり鑑賞できます。



仁右衛門島には船で5分

2015-06-12 | 気まま旅
「キンギンナスビ(金銀茄子)」
ナス科 ナス属、草丈50~100cmの1年草。帰化。
茎は枝分かれし、基部は木質化し、鋭い刺が密生、葉は互生し、卵円形で長さ幅とも6~15cm。縁は3~5に浅~中裂し、両面に剛毛が生え、
葉脈上にまばらに刺がある。
花は茎の途中から短い枝を出し、総状に1~5花つける。花冠は白色で、径約2cm、5裂して皿状に開き、果実(液果)は球形で、径2~3cm。
初めは白色で緑色の縞があるが、その後赤く熟する。
分布・生育地ー 帰化(熱帯アメリカ原産)・本州(関東地方南部)~沖縄 路傍、荒地・•花期ー7~9月(南方では1年中?)。

仁右衛門島は、四季の花の絶える事無く、特に「キンギンナスビ」という珍しい植物がある。
    

「島主、平野仁右衛門さん」
島主、平野仁右衛門さんは、代々、仁右衛門を名のり、県指定の名勝地・仁右衛門島(3万平方米)に観光をなりわいとして暮らしていると云う。
38代(推定と云う)一つの島に住みつづけ、島には数々の伝説があるが、1703年に、鴨川を襲った大津波で、系図、古文書等がほとんど流失したという。
島には、伊豆・石橋山の戦いに敗れ、逃れてきた源頼朝を一晩匿かくまったといわれる「かくれ穴」や、日蓮上人にまつわる話が伝わっている。
近年、千葉県史研究財団の人が島を調査し、わずかに残っている島の資料から、上人が名を成した後にも、仁右衛門島を訪れた形跡があると云う。
日蓮上人は、地元鴨川市の生まれ、平野家は元来天台宗であったが、後に日蓮宗に改宗したという。
仁右衛門さんの父上は「将来はお前の好きなことをやれ」と言ってくれたという。
当時海軍であった仁右衛門さんは、商売が苦手にがてで、海軍工場の経理の仕事を望んでいたが終戦を迎え、 仁右衛門島を継ぐことになった時。
なるべく近代化しないで、頼朝の頃からの自然を残すことで、自然を守ること。
島は一枚岩で、水はすべて雨水にたより、台風が来れば目と鼻の先の対岸へ渡し船を出すことができないため、平野家の子供たちは学校の皆勤賞がもらえない、、、、。
島主の大切な仕事は、毎日波を観察し、防波壁を越えてくる波も、波の腰を折り、うまく誘導する設計になっていると云う。
火防のために、常緑樹やアロエなどを増やし、燃えやすい茅かやなどを減らし、花好きの奥さんが島中に花を植える。
1704年に建て直した家屋に住み、建物を観光客にも公開していると云う。

           三笠宮殿下・皇太子殿下・義宮常陸宮殿下の記念碑


「弁天道」には、「富安風生句碑・岡本眸句碑・芭蕉塚・源講修歌碑・鈴木直砂女句碑・小林秀穂女句碑・水原秋桜子句碑・小出秋光句碑」
等が点在している。
           一人¥1350(往復)


「富安 風生」1885ー1979年
愛知県出身の俳人、本名は謙次。高浜虚子に師事。
逓信省に勤めながら 俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。

初渚ふみ 齢を愛し けけ



海暮れて 鴨の聲 ほの可尓白しー芭蕉句碑



鈴木直砂女句碑
          あるときは 船より高き 卯波かな

     展望台・見晴らし台・舟の着船場・海水浴場・休憩場・全島釣り場である。


「日蓮」開祖 1222-82 安房の生まれ、故郷の天津・摩尼山「清澄寺」で出家。鎌倉に出て「立正安国論」を書く。

                  日蓮と神楽岩ー聖人霊地


「源頼朝」武家政治の創始者 1147-99
鎌倉幕府の初代将軍、源義朝の嫡男、母は、熱田大宮司藤原季範の娘。平清盛に敗れ、義朝は殺され・頼朝は伊豆に流された。
20余年流入生活。治承4年「以仁王」の令旨を受け挙兵するが、小田原早川石橋山の戦いで「大庭景親」に敗れ、房総に逃れ、ここで武士を集め
鎌倉に入る。次いで「富士川の戦い」で平家方を敗走させ、常陸の「佐竹氏」を討ち関東を固める。
頼朝は、少年時代の平治の乱後、一人で関ケ原をさまよっているところを捕えられたが、清盛の継母「池禅尼」は、我が子の「家盛」の生き写しの
頼朝を見て、清盛に命乞いをしている。
平家を滅ばした頼朝は、「池禅尼」の実子(清盛の異母弟)平頼盛の所領を安堵し、大納言に還任させ、禅尼の恩に報いたと云う。



1180年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に流れて来た時、夜襲を避けて、身を潜めたと伝わる「洞窟」がここ、「正一位稲荷大明神」
が祀られている。上方には、維新前黒船渡来時、砲台を築いたところでもあり、弁財天・稲荷神社等江戸時代から祀られていると云う。



水原秋桜子句碑        巌毎に 怒涛を あけぬ
               春の虹立つや 雨雲ひくき 汐の列
               冬凪きて 岩壁映ゆる 夕焼雲 など。                   

江見・太海地区は、観光と花畑の広がる海沿いの街と太海には、城西国際大学や早稲田大学もあり,近年は文教地域でもある。

磯釣りでも知られ、岩肌が険しく、亀岩から大小の岩が飛び石のように連なっている。


次回は、鴨川市内へ。

頼朝は内房竜島から太海へ

2015-06-07 | 気まま旅

千葉県は、縄文時代の貝塚、加曾利・そん生、弥生時代の田子台・山木古墳、古墳期の姫塚・金鈴塚・内裏塚等が知られ、708年には、
「上毛野朝臣安麻呂を上総守」・「下総守に賀茂朝臣吉備麻呂」に任じている。
718年、上総国に安房国を設置され、757年に、房総は安房と上総と下総の3国に定めている。
1128年には、「千葉常重」が千葉城を築城。1222年「日蓮上人」安房国に誕生。1260年日蓮「立正安国論」。
1453年には、「千葉胤直など一族自害」。1538年「後・北条氏綱、氏康が足利義明、里見義尭連合軍を江戸川国府台で破る。
1590年には、利根川16島の新田開発が行われている。
県も、千葉市・成田・木更津、君津産業三角構想で道路などは整備されいるが、北太平洋側の館山・鴨川・勝浦・茂原は、遅れた地域。

                        「房州よいとこ」
          房州よいとこ 南を受けてよ  ショコ ショコ ショコ ヤレサノサ
                   夏は そよ風 袂を払い 冬も菜種の花が咲く おおさ菜種の花が咲く

          房州よいとこ 大波小波よ ショコ ショコ ショコ ヤレサノサ 
                   沖のカモメが 夕日に舞えば 音頭勇まし カツオ船 おおさ勇まし カツオ船

鴨川市太海(安房鴨川駅一つ手前で、太海駅は、内房線)

内房線ー太海駅から歩いて2分・山号・西福山  「宝光寺」      境内に慈母観音菩薩像
    

宝光寺は、曹洞宗の寺。
曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、 日本においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。

                        本堂


「太海村社・香指神社」
祭神は、弟橘媛。東京湾一帯で信仰され、海に関係のある「オトタチバナヒメ」を遠い昔に氏神として祀り鎮座、村の安泰を願った。
境内には縄文時代の遺物を包蔵する浅い洞窟があり、香指神社遺跡と呼ばれ、歴史を感じる。
狛犬は、伝武田石翁の作で、境内からは、太海の海岸、仁右衛門島が一望。

    

「太海村香指神社海岸夏祭り」
毎年7月下旬に開催される。
神社例祭。太海・太海浜の両地区から伝統的な船形屋台や神輿が出され、練り歩く。
岩場が続く印象的な海岸線の町が、毎年多くの人々で賑わうと云う。



「南房総国定公園」
県南部、房総半島南部に位置する国定公園。1958年(昭和33年)指定。
大半を海岸部が占めるが、飛び地的に内陸部にも指定地があるのが特徴。
海岸部は内房の富津岬から外房の太東崎までの海岸線が指定されており、勝浦は海域公園(旧:海中公園)が指定。
一帯には砂浜が多く、首都圏にも近いことから、海水浴場や別荘地、マリンリゾートとしての発達を見せ、気候が温暖なことから花卉栽培も盛んで、
花畑が多い。
内陸部では鹿野山と清澄山が指定され県立自然公園から格上げされた。

        釣り宿の「こはら荘」宿泊・1万以下で2食付き、魚料理中心。
    

     太海海岸に、ぽっかり浮かぶやく30000m2の島「仁右衛門島」
 

           源頼朝隠れ岩・日蓮聖人の伝説の島


                僅か2~3分の乗船で


            歌・句碑を読みながら美しい自然に触れながら散策


以下の記事は、「千葉県内房の旅ー源頼朝」2013年6月8日掲載分の一部です。(参考までに)

「吾妻鏡」では、(現代語)
治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出しました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」と
ある。

1180年、「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、真鶴町から出航。安房国平北郡猟島、ここ「竜島付近」に到着。
ここから再起を図った。頼朝上陸の碑が、竜島海岸に建立され、同地は、県の史跡に指定。
最初に頼朝のもとに参じた「安西景益」は、安房国の住人で、幼少時の頼朝に仕えていたという。

道路と砂浜の間に「源頼朝上陸の碑」が
  

「竜島」は、昔、島。北端の富津市との境に霊場で知られる鋸山がある。
南端には浦賀水道に突き出た西ヶ崎、海岸線は起伏に富んでおり、保田、勝山などの漁港、又勝山沖には浮島などの島、岩礁も多い。
内陸の山間部は房総丘陵の一部を形作っている。

勝山海水浴場は、入り江の奥にある静かな砂浜と小さな島が並ん人気がある。

昔は「竜島」で小さな島であった。
  

次回は、源頼朝隠れ岩の仁右衛門島内。

千葉県は外房から

2015-06-06 | 気まま旅
「東京駅高速バス・2番のりば(東京駅八重洲口)」
木更津・君津(京成バス・日東交通)。三井アウトレットパーク木更津行(京成バス・日東交通)。安房鴨川行「アクシー号」(京成バス・日東交通・鴨川日東バス)。勝浦・御宿行・安房小湊行(小湊鐵道・鴨川日東バス)。

元々は、バス停のみで発券窓口がなかったが、京成バスでは2014年7月ー2番のりばと3番のりばのほぼ中間にあたる八重洲ロータリービル1F・2Fに乗車券類の発売窓口や待合所等の設備を兼ねた「京成高速バスラウンジ」を開設。

                 京成バス・安房鴨川行に乗車


慢性的渋滞の発生していた箱崎ジャンクション・江戸橋ジャンクション・首都高速1号羽田線の渋滞緩和と共に、開発の進められていた
東京臨海副都心と既存都心部を結ぶために建設された。
橋梁としては芝浦側アプローチ部1465m(陸上部439m+海上ループ部1026m)+吊り橋部918m+台場側アプローチ部1367m(海上部905m+陸上部462m)が
一体で建設された。
海とビル群の景色や夜景などの眺望が良好な事から週末のドライブコースとしての人気があり、それが要因で渋滞となることもあると云う。

                  レインボーブリッチ(芝浦)


「羽田空港 新国際線」
世界17都市への就航が予定される羽田空港は、首都圏からのアクセスがよく、地方空港との乗り継ぎもしやすいと人気。
新国際線オープンにあわせ、京浜急行、東京モノレールの新駅も開業し、国際線ターミナルエリアに直接アクセスできる。
また、海外ブランドから日本ブランドまで幅広く揃う免税店、24時間営業のダイニングや、世界各国の味が楽しめる飲食店なども。



「東京湾アクアライン」
トンネルを抜けると、そこは、千葉県であった。
川崎側の9.6kmがアクアトンネルと呼ばれるトンネル、木更津側の4.4kmがアクアブリッジと呼ばれる橋になっている。
その境の人工島には海ほたるPAが、アクアブリッジは、日本第1位の長さの橋梁、アクアトンネルは、山手トンネル・関越トンネル・飛騨トンネルに次ぐ、日本第4位の長さの道路トンネルである。

「バスは、千葉県外房へ」
県南部,房総半島 南西端の洲崎から勝浦市にいたる太平洋に面した海岸地方。
海食台地が広く露出し, 磯浜が続き,アワビ,サザエ,テングサの産地でもある。また無霜地帯で,花卉栽培が 盛んである。

        太平洋に面した外房に(鴨川・小湊・勝浦・御宿・大原)


「ロシア人来航の地」
鎖国下にあった江戸時代の元文4年の1739年、
天津村(現鴨川市天津)の沖合いに日本探検を目的として日本沿岸を訪れたロシアの探検隊が来航し布入の地に上陸。
この上陸はわが国(北海道を除く)で初めてのロシア人の上陸であり、日本の歴史・外交史上でも重要な出来事。

「オホーツク探検事業の一つで」-シュバングルグ率いる船団の一隻の
ヴアリトン大尉(ガヴリエル号)の乗組員が上陸。今でもロシア人が訪れると云う。


「天津城」
鴨川の中世は、治承4年の1180、石橋山の合戦で敗退した源頼朝は安房に逃れ、安房の武士団を集めて再起を。
当事、安房の在地領主としては、丸氏・安西氏・神余氏などが知られ、在地領主には、東条氏と長狭氏がいた。
「吾妻鏡」治承4年・頼朝は、上総権介平広常のもとへ行こうとしたところ、長狭六郎常伴に襲撃され、三浦義澄の機転と奮闘により、
長狭六郎常伴は討ち取られ危機を脱し、市域に「一戦場」という地名が残っている。
この出来事の場所であるとする伝承が。東条七郎秋則は、頼朝に従って協力したため、のちに長狭郡一円の支配をみとめられた。
鎌倉幕府執権北条氏の家臣である工藤氏の一族とされる工藤吉隆が、天津を領有していたといわれ、小松原で東条景信に襲われた日蓮上人を救い、討ち死に、中世後期になると、安房に基盤をもった里見氏が、在地武士の内紛を巧みに利用して安房を統一する。
長狭郡に勢力を広げていた東条氏は、1445年、に安西氏とともに丸氏を滅ぼし、その後、里見氏に攻撃され、市内田原の太田学にあった金山城に追い詰められ滅亡。
以後、里見氏が旧勢力に代わって、当地を支配し、市域の村々の形成があらましできあがったのは、このころといわれている。

                      城のあった山
  

「メキシコ大統領がやってきた」-メキシコとの交流記念碑が。
1978年「ホセ・ロペス・ポルティーリョ・メキシコ大統領」が御宿町に来町した。
大統領は「エルマーノ!(兄弟)」と声をかけながら若者が担ぐみこし上から、日の丸の扇子を開いて音頭を取ったと云う。
今から、400年前に御宿の村民が当時スペイン領メキシコの難破船乗組員を助けたことに始まる、御宿町、大多喜町とメキシコとの交流が、
(御宿は勝浦の隣)。
                    山頂から見た海岸


千葉県鴨川市は、県南部、古代豪族「加茂氏」の名、房総丘陵を南北に分け、加茂川が東西に流れている。源頼朝の家臣東条氏が金山城を築城し
支配している。江戸初期「里見氏」転封後は、幕府直轄地に、海岸前原で、紀州漁民「イワシ・まかせ網」を伝え漁業が発達した。
現在5漁港で、イワシ・サバの沖漁業が盛んである。
沿岸の畑地では、大正から「切り花栽培」が江見中心に広がっている。

鴨川と云えば、シーワールドのアシカ・イルカショー・白クジラ・ラッコ等が人気
 

JR千葉内房線・外房線
千葉市から東京湾沿いに房総半島を南下し、太平洋沿岸の鴨川に至る路線。
蘇我駅で外房線から分岐し、安房鴨川駅で再び外房線に接続する。
千葉駅から安房鴨川駅までの距離(営業キロ)は、内房線経由より外房線勝浦経由のほうが距離が29.9km短い。
千葉駅 - 君津駅間は複線区間となっており、列車の本数も比較的多く東京方面からの快速電車も乗り入れているが、一方、君津駅以南は単線区間となり、約一時間に一本と云う本数は、極端に少なくなる。

                  千葉市蘇我駅ー安房鴨川駅で


次回は、安房鴨川駅から館山駅より一つ手前「仁右衛門島の太海駅」へ。