「開墾された土地を表す張ー幕張ー」
千葉市花見川区。
愛知県の尾張の張りは、開墾すると云う意味の古語の動詞、「墾る」名詞で「墾リ」-開墾地名ー。
「幕張」は、中世「加」・くははる「馬加」-マクハリと呼んだ。1889年の明治、幕張の字であった伝承に復する形で「幕張村」となった。
「幕」とは、幕を張ったような長い崖、現在は、海岸が埋め立てられ、往古の地形はわからなくなっている。
千葉市に編入、東側に花見川は流れ、中央にJR総武本線と京成電鉄と京葉道路と1981年幕張本郷駅と宅地化が進んでいる。
幕張と云うと「昆陽神社」芋神様の青木昆陽のゆかりの地・また真蔵院は、千葉氏のゆかりの寺。
「かっては、貝と海苔養殖を中心とした半農半漁村」
ノリの養殖ー海苔は、夏の間、「糸状体」という形でカキ殻などに付着してすごし、秋になると胞子を出し、 毎年9~10月ごろに「種付け」という
海苔の胞子を網に付着させる作業を行い、種付けには陸上で行う方法と海上で行う方法がある。
種付け……陸上採苗ー水車に網を巻き付け、のりの胞子の入った水の中を回転・網を重ねた水車と胞子を放出させるためのカキガラ。
種がついた網を海水中で養生させ水切り後、冷凍庫で保管 ・ 種付け……野外採苗海苔の糸状体のついたカキ殻をネットに入れ、その上に
海苔網をセットし、それを海辺に広げてカキ殻から胞子が出て網につくようにする。
戦前、家族全員で潮干狩りに「幕張海岸」へ。(4~5歳頃)
幕張の浜方面へ
「京葉線」
1988年の昭和63年・第2期の新木場駅 - 南船橋駅間、市川塩浜駅 - 西船橋駅間が開業した。
千葉港駅 - 蘇我駅間の旅客営業を開始し、武蔵野線からの乗り入れ開始。新木場駅・葛西臨海公園駅・舞浜駅・新浦安駅・市川塩浜駅・二俣新町駅が。
平成2年・第3期の東京駅 - 新木場駅間が開業し全通になった。
工事時には「京葉都心線」とも称され、同時に快速の運転が開始。休日は快速「マリンドリーム」、快速「むさしのドリーム」(武蔵野線直通)という名前で運転された。平成4年・千葉港駅が千葉みなと駅に改称されている。
JR京葉線「海浜幕張駅」前
海に向かい左側にニューオータニ
幕張海浜公園
右手に「マリンズスタジアム」
1988年昭和63年頃は、内閣ー竹下登(自民党)・リクルート事件の発端、東京ドーム球場、開場記念のオープン戦が・韓国、大韓航空機事件、北朝鮮の
爆弾テロと断定した。
東京湾幕張海岸(人口海浜)
検見川の浜と続く
「好きな球団の大毎オリオンズ」
1950年代、西鉄ライオンズおよび南海ホークスという西日本に存在する2チームがあり強かった。
これと対抗できなかったものの、1959年には2位となり、初の生え抜き監督であった「西本幸雄」が監督になった。
1960年にはリーグ優勝・しかし、日本一を逃してしまいその件でオーナーが激怒、監督は更迭されてしまう。
さらには、宣伝広報担当として期待されていた毎日新聞社も経営から手を引き、結果チームは低迷期に入る。
1962年に本拠地を東京球場(東京スタジアムとも呼ばれ、オーナーが私財で東京都荒川区南千住に建設した球場)
1972年に第三者の手に渡りロッテオリオンズが購入不可能であったため閉鎖され、チーム低迷と読売ジャイアンツの黄金期に。
セ・リーグ偏重により観客は減少した
1964年、チーム名を東京オリオンズに変更したため、このチームはなくなった。
なお、チーム自体はオーナーの変更やチーム名変更経て現存し、継承する球団は現在の(千葉ロッテマリーンズ)。
「好きな選手は」
大毎オリオンズの中心選手ー山内 一弘(1932年 - 2009年)、愛知県一宮市 出身のプロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者で、打線は4番。3番が、榎本で、首位打者のも、又、田宮と続いた。
大 毎打線が打率ランキングの1位から3位を独占した時代を思い出す。
ミサイル打線と呼んだ。
4番打者の山内和弘 は打率.313で、本塁打王(32本)と打点王(103打点)の二冠に輝き、 シーズンMVPにも選出された。
田宮は引退、オフには山内が阪神タイガースの主力 投手である小山正明とトレード、葛城も中日ドラゴンズに移籍など打線を支えた主力 選手が他チームへ移籍している。
大映の永田社長が私財を投入し荒川区に「東京スタジアム」をオープン。(少年時代)
本日の試合は、オリックス戦、鈴木・べー二ャ・角中打線が振るわず大差で負けた試合に。
室内練習場
市川市にある「千葉商大89周年記念マッチデー」ロッテマリンズを応援していた。
球場正面