syuの日記・気まま旅

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館山航空基地と海岸

2017-12-21 | 気まま旅

明治中期以降「第一艦隊の停泊地」であった。海軍砲術学校などが設置され軍部の都市館山で栄えた。
戦後、海上自衛隊が引き継ぐ、現在温暖の気候を生かし花卉栽培・花つみ園・イチゴ狩りなど観光農業が盛ん。
館山湾の北条海岸は古い、洲崎灯台・平砂浦海岸など「南房総国定公園」に属している。


館山航空基地は、千葉県館山市に所在する海上自衛隊の軍用飛行場である。艦載哨戒ヘリSH-60J・SH-60Kと救難ヘリUH-60Jを運用する第21航空群の航空基地となっている。

館山航空基地は、もともと関東大震災によって隆起した浅瀬を旧海軍が埋め立てて飛行場を建設し、1930年(昭和5年)に館山海軍航空隊が置かれた。東京湾の防備を担当する海軍航空部隊の重要基地であり、横須賀鎮守府に所属している艦載機や水上飛行機、飛行艇も運用されていた。基地周辺には、本土決戦に備えて多数の地下壕や掩体豪が建設され、現在も残っている。基地の近隣には赤山地下壕があり見学可能な戦跡となっているほか、旧海軍の建造物は現在も司令部庁舎や国旗掲揚台として使用されており、基地専用の水源地も旧海軍が建設したものをそのまま使用している。基地の内外には、旧軍関係の石碑や史跡が数多く点在している。

戦後は海上保安庁の海上警備隊から保安庁警備隊となって館山航空隊が編成され、海上自衛隊航空部隊の発祥の地ともなった。現在は海上保安庁の羽田基地所属ヘリも、離着陸訓練のため頻繁に使用する。

ヘリコプター専用飛行場としては日本最大規模のヘリポートであり、毎年10月に行なわれる基地祭「ヘリコプターフェスティバルIN館山」で、厚木航空基地からは、アメリカ海軍のUH-60、木更津駐屯地からは陸上自衛隊のUH-60J、浜松基地からは航空自衛隊のUH-60が飛来して、日本国内のすべてのUH-60シリーズのヘリコプターを見ることができる。
 
滑走路のタイトルバックが有名なTVドラマ「Gメン'75」の撮影はここで行われた[4]。

一般見学者用に基地内に史料館があり、山本五十六元帥の揮毫のプロペラや零戦の栄エンジンのセルモーター、二式小銃などが展示されている。見学には事前の予約が必要。
























城山公園近くのレストランでランチ、ちょっとした手作りのお惣菜が嬉しいお店。



 

館山城跡と 里見八犬伝

2017-12-18 | 気まま旅
東京も寒くなってきたので暖かい房総 館山へ1泊の旅をした。

城山公園は館山市街の南側丘陵にある。この地にはかつて戦国時代の武将、里見氏の居城があり、公園内には、椿・梅・桜・ツツジ等の花木が小径をうずめ、季節に合わせて見事に咲き誇ります。

山頂には天守からの眺めが楽しめる三層四階天守閣様式の館山城(八犬伝博物館)、中腹の館山市立博物館本館と併せて歴史の散策が楽しめます。
また、頂上付近には万葉集にも詠まれた植物を小径に集めた万葉の径や、桜・楓・松・梅などを配植し、白砂利の枯山水、小流れなどを設けた日本庭園と茶室があり、茶会等に利用することができます。


県南部房総半島西・東京湾入口にある湾入と「鏡ヶ浦・北条海岸」が。



安房地方の政治・経済・文化の中心都市「館山」


古代には、阿波国造の支配地・中世には、「里見氏」が勢力を伸ばす。


1590年9代「里見義康」築城ー1614年移付により幕府直轄旗本領に。


館内には、「里見八犬伝」の資料展示。













里見氏9代・義康の御殿跡の前を通って、 「八遺臣の墓」を探しながら、坂道を下りて行きます。
分かり辛い「八遺臣の墓」の案内標識に従って行くと、急な坂道の途中に、苔むした「八遺臣の墓」がひっそりとありました。

1622年、最後の当主・里見忠義が鳥取県倉吉で没した際に、8人の家臣が殉死しました。
その8人の家臣の遺骨を分骨し、ここに供養したのだそうです。
この殉死した8人の家臣が、曲亭馬琴の「南総 里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになった そうです。

「八犬伝」の最初は、史実の通り、里見氏・初代の義実の安房への入国の物語に始まります。
しかし、江戸時代になって、里見家には内紛が発生したため、幕府に目を付けられ、伯耆国 (鳥取県)倉吉へ転封になります。





副都心新宿から京浜工業地帯

2017-12-13 | syu散歩

「京浜工業地帯」
明治39年原料搬入などに「多摩川」を利用し、「浅野総一郎・安田善次郎ら」によって、鶴見川河口周辺埋め立て造成された。
大正12年に約5.8km2埋め立て「京浜運河」が完成した。
浅野セメント・日本鋼管・日清製粉・昭和肥料・鈴木商店(味の素)・電機メーカー等工場が設立し、工業専用埠頭・鉄道・火力発電所等が続いて
設置「重化学工業地帯」が成立していった。
第二次世界大戦で大きな被害で一時壊滅状態に、昭和30年から多摩川河口の埋め立てが進んでいく。「千鳥・末広・浮島」が誕生した。
現在は、石油コンビナートを中心に、工業港も整理された。
大気汚染・水質汚濁・羽田空港等の騒音など公害問題が。

久しぶりに車窓風景を撮影、変わりゆく工業地帯。



高速バスで新宿から房総館山方面へ。






























「京浜工業地帯に貢献したーJR京浜東北線」
東京の都心を南北に縦貫し、北は埼玉県さいたま市、南は神奈川県横浜市・鎌倉市まで結んでいる。
1914年の大正3年・東京駅開業と同時に「京浜線」として東海道本線東京駅 - 高島町駅間で開始された電車運転が起源である。
その後、北は東北本線大宮駅、南は根岸線大船駅まで運行区間が延伸されて
1973年の昭和48年・に現在の運行形態となった。(2014年で運行100周年を迎えた)








八海 池にまつわる民話

2017-12-11 | 富士山麓日記
忍野八海ー「二番霊場 お釜池」
昔、この池の畔にあった家に年老いた父親と2人の美しい娘が住んでいた。父親は百姓をし、娘達は裁縫や洗濯など家事していた。ある日、妹娘が池で洗濯をしていた。突然大蟇が一匹現れて、強引に水中へ引き込んでしまった。それを知った姉娘は泣き叫んで近所の人たちの助けを求める一方、畑仕事をしていた父親を呼んで、妹娘の救出を試みたがいくら探してもその遺体は浮いてこなかった。それ以来、父親と姉娘は命ある限り、お釜池のほとりにある家にとどまり娘の冥福を祈り続けたという。

「三番霊場 底抜池」
底抜池は、食器などを洗っているうちに誤って手を滑らすと底に沈み行方不明となり、いくら探しても見つからないと言われており落とした物は池の底の穴を通って暫くしてお釜池に浮かび上がってくるといわれている。以来、何度かあったため、村人はこの池で物を洗うことを神様が嫌っているのだと理解し畏敬の念を持つようになったと伝えられている。

「四番霊場 銚子池」
昔、ある家の花嫁が祝言の席で近所衆にお酌をして回っていた。が、つい屁(おなら)をしてしまった(別の説では、お酌をしていた時、新しい帯がキュッとずれて、屁のような音がした。また床板が軋んで鳴ったという説もある)。うぶな花嫁はこれを深く恥じらい、いたたまれず、その場を抜け出し、晴れ着姿で銚子を持ったまま、この池に身を投げた。池には銚子と草履が浮かんでいた。後花嫁のこの悲しい伝説が基となり、今日では縁結びの池として語り継がれている。

忍野村ー山梨県南都留郡
1875年の明治8年、忍草村と内野村が合併し、両方の村名の一字をとって「忍野村」となった。
現在は、先端技術工業誘致し村の経済は大きく変化したと云う。
忍草には、陸上自衛隊北富士演習場がある。街では「富士吉田(県で2番目の市)が近い」

                 忍野八海 浅間神社


                    新名庄川




                    浅間神社 鳥居




                     本殿




                   8つの池の水奉納



                    


                      神輿




                      境内


                      東園寺


















「高座・杓子山」
鳥居地峠ー1304m高座山ー1597m杓子山ー1632m鹿留山ー1223m立ノ塚峠ルート(約6時間)
「二十曲峠・石割・大平山」
1151m二十曲峠ー1412m石割山ー1292m平尾山ー大平山ー長池山ー内野ルート(約6時間)

「五番霊場 湧池」
昔、富士山が噴火した時、焼け付くような熱風のためのどの渇きや、野火、家屋の家事を消すために村人が水を求めて叫ぶ声が天地に遠く轟いていた。その時、天から大変美しい声で、「私を信仰し永久に敬うならば、みんなに水を与えよう。」といわれた。この声の主は、木花開耶姫命で、その後まもなく地面の間から水が湧き出し、池となった。

「六番霊場 濁池」
もとは澄んだ水を蓄え、飲料水となっていたが、ある日、乞食のような身なりの行者が来て、池の持ち主の家の軒先に立って、一杯の水を求めた。その家の老婆が無愛想に断ったので、この池は急に濁ってしまった。またこの濁り水を器にくみ取れば澄んだ水に変わるといわれている。

「七番霊場 鏡池」
この池の水は、全ての事の善悪を見分ける霊力があるといわれ、村内に何か、もめ事が起きて収拾がつかない時はもめている方が池の水を浴びて、身を清めて祈願した。
池は濁っているが、水面が静かな時は霊峰富士の姿がはっきりと逆さに映るので鏡池という名がつけられた。コノシロ池の名は、富士山の山頂付近のコノシロ池からこの池に湧水が流れてくるからとする俗説がある。

「八番霊場ー 菖蒲池の民話」
昔この池の近く暮らす仲の良い若夫婦が住んでいた。不幸にも夫が労咳(肺病)にかかり、妻はできるだけの力を尽くし世話をして看病したが、夫の病が重くなるばかりだった。ついに妻は神仏にすがり、毎日、この池の水を浴びて身を清め一心不乱に祈願すると37日目に「池の菖蒲を持って夫の身に巻けば、病魔は必ず退散する。」という神のお告げがあった。
妻はお告げの通りに実行すると重病だった夫も日増しに熱が下がり、食べ物ものどを通るようになり1か月たたない内に全快したという。
銚子池が「縁結びの池」とするならばお釜池は「家族の絆を深める池」、菖蒲池は「夫婦愛を育む池」と言えるだろう。それぞれを巡り一心に八大龍王に祈るならばご利益があるかもしれない。
菖蒲池の名は、以前池の畔に菖蒲が、自生していたからである。今は黄色い花を付けるキショウブが自生している。

(忍野八海を中心とした富士山信仰と巡礼)