syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

忍野八海 湧水と八つの池

2017-12-07 | 富士山麓日記

富士山の降水量年間、「約22億t」と推定。
富士山体は、多孔質溶岩の火山灰、降水・離雪水はー透視して伏流し地下水に、約700m以下の高さの山麓で豊富に湧き出ているー山麓湧泉帯ー
東麓は、黄瀬・鮎沢川
西麓は、潤井・芝川「白糸の滝・柿田川・湧玉池」
北麓は、山中湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖の富士五湖ー山中湖北西に(忍野八海・田貫湖・浮島沼・・)
南麓は、富士吉原で明治時代から「製紙工場と工業地域に」
現在の問題は、水位低下障害で富士山の環境は変貌している。

「忍野八海」-忍野村は、県南東・富士山北鹿。
8つの池は天然記念物指定
1)お釜池、2)鏡池、3)菖蒲池、4)底なし池、5)銚子池、6)出口池、7)濁池,8)湧池ーかっては灌漑用水に利用していた。
古代の湖の名残が、年々湧水量が減少している。

            8つの池の水は「新名庄川~桂川~相模湖へ」


























「第一霊場 出口池の民話」
昔この池の畔に出口の伝兵衛、高木のおとら、古馬場の久太郎という三匹の古キツネが住んでいた。この三匹のキツネが村のあちらこちらに出て一軒の家の鶏を全部食い殺したり、化けて人をだましたりいたずらをしたりして村人を困らせた。村人は信心者に祈願したところそのキツネを神として祀れば災いは無くなるだろうとのお告げを受けた。
そこで、大正14年(1925年)9月14日、お告げ通りに出口稲荷大明神を建立し祀ったところ以後、古キツネの被害は無くなったという。今もこの神社は池の南側の小高い所に鎮座している。
また、出口池の湧水は、霊峰富士の雪溶け水が地下に浸み込み汚れた浮世とは無関係に湧き出すので「清浄な霊水」と呼ばれ、富士登拝する道者は、この水で身を清め登拝し、またこの水を携行することにより無事登拝することができると堅く信じられていた。

(忍野八海を中心とした富士山信仰と巡礼路)

大月から岩殿山 「名勝猿橋」

2017-12-04 | 富士山麓日記

「岩殿城」-大月市の岩殿山城、連郭式山城(634m)・堀切・虎口・井戸・土橋など。
築城主小山田氏ー城主小山田氏・武田氏・廃城は17世紀初頭。

相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置。
頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。
山頂までは大月駅から徒歩で約1時間で、山頂からは富士山が望め、「山梨百名山、秀麗富嶽十二景」にも選定。
山の南側と桂川の間の狭い場所に中央自動車道が、1972年、岩殿山で大規模な地滑りが発生、同年3月、から中央自動車道の相模湖ICと大月ICの間が全面通行止めとなった。解除されるまで、通行止めは123日間に及んだと云う。
岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にして、全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。
東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。
各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなく、周囲には集落や武家館が点在していたと云う。
「信長公記・甲陽軍鑑・甲乱記」によれば、
天正10年の1582年、3月ー織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、武田家臣・小山田信茂は新府城(韮崎市中田町中條)から武田勝頼を岩殿山城へ迎えるが、勝頼一行が郡内領へ向かう途中で信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は、天目山(甲州市大和町)で自害した(天目山の戦い)。
「理慶尼記」では、信茂が勝頼に籠城を薦めた岩殿山城を「みつからか在所」と記している。
小山田信茂は、勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、甲斐善光寺において処刑され、郡内小山田氏は滅亡する。
その6月には「本能寺の変」により甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生。
都留郡では本能寺の変が伝わると土豪や有力百姓などの「地衆」が蜂起し、甲斐国を統治していた織田家臣・河尻秀隆の家臣は追放された。
こうした状況から、後北条氏では相模津久井城主・内藤綱秀が都留郡へ侵攻し、岩殿城を確保した。
後北条氏はさらに都留郡一帯を制圧・「天正壬午の乱」において甲府盆地において三河国の徳川家康と北条氏直が対峙するが、徳川・北条同盟の成立により後北条氏は甲斐・郡内領から撤兵し、甲斐国は徳川家康が領した。
江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定していたといわれ、江戸時代にも岩殿山城は要塞としての機能を。。

    JR中央本線~上野原ー四方津ー梁川ー鳥沢ー「猿橋駅・大月駅」ー初雁ー笹子


山梨県大月市「猿橋」-橋脚がなく結木という木が橋桁を造っている。

山口県「錦帯橋」-錦川に小島の橋台を作り、アーチで架けていく。

富山県「愛本橋」-63mのはねhasi はね橋。
                     「三奇橋」の一つ「猿橋」


「猿橋」
桂川とその支流・葛野川の合流地点の付近に位置・甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点である。
江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置されたと云う。
猿橋が架橋された年代は不明だが、地元の伝説によると、
古代・推古天皇610年頃(別説では奈良時代)に百済の渡来人で造園師ある志羅呼が、猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。(猿橋の名は、伝説に由来)
室町時代には、「鎌倉大草紙」-関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
1487年、の聖護院道興「廻国雑記」ー道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌・漢詩を記録している。
戦国時代ー「勝山記」永正17年の1520年、都留郡の国衆・小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行っている。
この信有による架替は、小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されている。
猿橋は、1533年、にも焼失し、1540年、再架橋されていると云う。
勝山記ー大永4年の1524年、甲斐守護・武田信虎は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ出兵し相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったという。
戦国期に小山田氏は武田氏に従属し、「勝山記」によれば享禄3年の1530年、越中守信有は当地において氏綱と対峙している。
勝山記によれば、留守中の3月には小山田氏の本拠でる中津森館(都留市中津森)が焼失し、4月23日に越中守信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退しているとある。また、猿橋には、国中の永昌院(山梨県山梨市矢坪)の寺領も存在していた。
1676年、以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
江戸時代には猿橋が最も有名で、「日本三奇橋」の一つと。
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠「峡中紀行」、渋江長伯「官遊紀勝」など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を。 



1817年、「葛飾北斎・北斎漫画 七編 甲斐の猿橋」描いている。


                      猿橋神社


                名勝・猿橋は桂川に架かる橋


      谷の両岸から三本のハネギを4段にくみ、せり出して架けてある。


             高さ約31m・幅3.3m・長さ30.9m。


               現在の橋は、1984年に架け替えた。










追われる身となった忠治は猿橋の「大黒屋」に滞在した。
居場所を突き止められ、食べ慣れた野鳥の肉入りそばを平らげて外へ。猿橋両岸から迫った追っ手を避け、橋から約32メートル下の桂川に飛び込んだ。かっぱと三度がさを下流に流して行方をくらまし、猿橋上流の阿弥陀寺に隠れたという。



             国定忠治も食した大黒屋の「モリ蕎麦」


             甲州街道・国道20号線   「大月宿」


旧郷社「三嶋神社・大明神」ー642坪ー
平安の初め此地方が開拓され、村落が生まれつつある頃大同元年の806年、伊予国(愛媛県)大三島の大山祇神社より勧請された。
富士山の噴火続き田畑山林の荒廃厳しいため、富士即木花咲耶姫命の御怒りを鎮むべく、父神に坐す大山祇命をお迎へし、復興の精神的よりどころとしたと言ふ。
御神体は大松山の大松を三段に伐つて作つた。中段の御神像と伝へられる。甲斐南部氏奥州出向の折参詣、霊現あらたかにより彼の地に三島神社を起す。中世度々の戦に武将の祈願あり名刀景光、延元元年銘の大石灯籠など残す。
小山田氏と縁深く本社を守護神と仰ぎ、備中守の面と言ふ鬼面石等の伝ありと云う。
江戸時代になり甲州街道開くと共に、従来の者多く参詣交通安全を祈り興深き伝へを残す。
明治8年第八区の郷社に、大正2年供進指定神社に列せられ、この地方中心の神社に発展、戦後三回の整備事業により、輪奐の美備はつて参詣者も多い。

                       祭神ー9月25日ー


三嶋神社の大ケヤキを「大槻」と呼んぶ、市の地名を「大月」に。(槻は、ケヤキの古い名)

                          境内


市の80%が山林・中心市街地に桂川・笹川が合流で川沿いに発達し、富士信仰の入口として発展。現在は交通の拠点で、大月駅から私鉄富士急行が河口湖
線が乗り入れている。大月ー河口湖までⅠ時間乗車する。
年々都心への通勤者が増えていると云う。

                    市内から見た「岩殿山」


山梨市の「西沢渓谷」

国内屈指の渓谷美を誇る景勝地。変化に富んだ西沢渓谷の中でも、七ツ釜五段ノ滝は圧巻・
新緑・紅葉の時期はさらに際だった美しさを見せる。

            巨大な花崗岩を清流が削ってできた見事な景観と紅葉はよく合う。




          市内の宿場 駒橋宿ー大月宿ー花咲宿ー初狩宿ー白野宿ーーーーー。


登山ー上野原、八重山530.7m・四方津、高柄山733.2m・梁川、倉岳山990.1m・鳥沢、扇山1137.8m・猿橋、百蔵山1003.4m
大月、岩殿山634m・初狩、高川山975.7m・笹子雁ヶ腹摺山、1357.7m・・・・。(5~6時間コースが多い)

中央本線・梁川無人駅

2017-12-02 | 富士山麓日記

都心からも近い、高尾山から陣馬高原・相模湖・三頭山・坪山・三国山・生藤山・権現山・扇山・高柄山・矢平山・倉岳山・二十六夜山・赤鞍岳・
向風山・要害山・御春山・・・・・。など登山・ハイキング・散策コースが四季折々で楽しめる。
山梨百名山も桂川を渡り、高柄山(733.2m)その先に、紅葉の秋山川が・新大地峠の矢平山(860.2m)・二十六夜山(971.8m)・990.1mの倉岳
と続く、中央高速側には、談合坂IC・仲間川を渡ると虎丸山、八重山(約500m)・要害山(536m)・瀬渕山(553m)・扇山(1137m)と続いて行く

上野原駅から四方津駅・次が無人駅の「梁川駅」 立野峠(浜沢大ケヤキ)都留市へ出られる。

             
                  梁川駅前は、国道20号線


後醍醐天皇 1288-1339 親政を試みた最後の天皇ー建武の新政を開始したが、武将や貴族の反撥を招く、足利尊氏は、光明天皇即位し幕府を開く。
護良親王  1308-35  悲劇の武将親王・後醍醐天皇の第一皇子建武新政府征夷大将軍、中先代の乱・幽閉中殺された。

「悲運の皇子と姫物語・秋山村」
南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王は鎌倉で悲運な最後を遂げた。
そば女として仕えていた「雛鶴姫」は、亡き皇子の首級を抱いて従者と共に相州からやがて山深い秋山村に。
最奥の無生野に辿り着いた年の暮れ、皇子の子を身籠った姫は子を生んだが、不運にも母子ともに死んでしまった。
里人は手厚く葬り、以来、正月には門松の代わりに樒の枝を立て冥福を祈ったという。
確かに、南朝終焉の地ではあるのだろう。後に、護良親王の王子・綴連王がこの地に落ち延び、不思議な因縁を聞き、追善供養のため始められたのが
無生野の大念仏。
今では、夏のお盆と冬の小正月の年に二回行われ、白装束の男達が、太刀や竹棒を持って激しく舞い踊る。
悪霊退散を念じる「ぶっぱらい」と五穀豊穣をもたらす奇祭として知られる。



「犬目の兵助」
天保4年の飢饉に続いて、天保7年の1836年、春からの天候不順の雨続きで、再び飢饉がやってきて、食糧不足に郡内(山梨県の富士吉田市、都留市、大月市、南都留郡、北都留郡の地域を指す)の人々を悩まし、草の根、木の皮までも食べ尽くす有様。
餓死者は、日を追って増加しました。
救済方を代官所に願い出たり、国中からの米の移送を訴え手が、ラチがあかず、「犬目の兵助と下和田の武七」を頭取とした、郡内人は結集して、笹子峠を越えて、熊野堂(春日居町)の小川奥右衛門を襲撃しました。
世に言う甲州一揆です。この時点で、一揆側にはならず者も加わり、甲州騒動の様相に発展したので、郡内勢は引き上げてきました。
しかし、当局の追及はきびしく、武七は自首しますが、兵助は逃亡の旅に出ます。
兵助は、妻の「理ん」に罪が及ぶのを防ぐために離縁状を出し、長い間逃亡生活を続け、その間の日記を残します。
知らない土地で、苦難を続けての旅であり、しかも逃亡という特異な旅で、故郷に残した妻と子の夢も記され、一泊の礼にそろばんや文字を教え、開平(平方根)や開立(立方)を解くそろばんまで教えていたと云います。
暖かい季節には野宿もし、木更津に隠れすみ、年老いてから犬目に帰ってきたですが、兵助の遺品である、旅日記と離縁状が、兵助の生家である、水田屋(奈良尚文氏)に保管されていると云う。(犬目宿に、墓所があると云う)



野田尻~犬目宿(上野原市)
正徳3年の1713年、宿が、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であったと云う。
昭和45年の大火で宿の6割を焼失、「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれ、、、、。
犬目の兵助の墓ー妻への「離縁状」などは、生家である「水田屋」に残されていると云う。



  北斎の 冨嶽三十六景「甲州 犬目峠」は、富士山が中央に大きく書かれている。



梁川ー倉岳山(990m) 約5.5時間登山コース
桂川の南側に連なる「秋山山系」眺望は、富士山ー富嶽12景の一つ。北側に百蔵・扇山が。

           峠入口の里山民宿「やまみち」道路を挟んでーやまみち農園が。




「塩瀬大橋」- 構造種別・5径間上路式鋼ローゼ桁
河口からの距離は、63.5km・ 橋の長さー140m・ 有効幅員ー7~9.5m。

               完成は、平成13年








「小松神社」
朱色の両部鳥居が、「小松神社」です。
平貞能卿が平重盛公の打刀一振と共に尊骨を綱の上の山頂に改葬したのが1186年と云う。
1273年の文永10年、小松大明神宮を造営して重盛公を祀ったとの伝承があり。
祭神は、小松内大臣(平重盛公)。



「平重盛」平安時代1138-1179. 
正室:藤原経子・子ー維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、重実、行実、清雲、養女:平家盛の娘(原田種直室)、平徳子。
重盛は、武将・公卿。平清盛の嫡男。
保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場に、清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。

保元の乱、平治の乱ー保元元年の1156年、保元の乱に父に従って参戦。
重盛は、勲功賞として伊予守に任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任。



                           狛犬


                           社殿


          国道20号線からJR中央本線ガードを潜ると「金昌寺」が。


臨済宗建長寺派 「金昌寺」  山号ー龍瀧山
                       JR梁川駅に近い


臨済宗とは、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。



                   歴史を感じる石仏が


                埼玉県秩父にも同じ名の寺があるが?


                        本堂