syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

国府津の名は 相模国府の港があったから

2018-11-16 | 気まま旅

「国府」
相模湾に面する「国府津」
地名は、この地に相模国府の港があったことに由来すると云う。
海を見下ろす丘陵地を中心に政財界人の別荘が置かれ、文人達もよく訪れた。
隣接地区はすべて小田原市内で、小八幡、前川(飛地も含む)、田島、上町の各地区と接している。
地形は、南部に相模湾。
北東部が大磯丘陵、西部が酒匂川低地となっており、湘南の「山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域」とされる境、境界は、神縄・国府津-松田断層帯による崖に、道路は、南部相模湾沿いに国道1号(旧東海道)、西湘バイパスが東西に走り、西湘バイパスには国府津インターチェンジと下り線の西湘パーキングエリアがある。
地区北端を小田原厚木道路が東西に走るが、地区内にインターチェンジはない。
県道では、神奈川県道72号松田国府津線や神奈川県道717号沼田国府津線が地区西部。鉄道は、地区北部を東海道新幹線が横断するが、駅はなく、一部が弁天山トンネルに入っている。南部に東海道本線、西部に御殿場線が走り、地区内にその分岐駅・国府津駅がある。
1887年の明治20年、に東海道本線が国府津まで開業し、明治21年に小田原・箱根方面への小田原馬車鉄道(後に路面電車・1920年廃止)が開業すると、国府津駅は、両者の乗換駅となり、駅前には「国府津館」等の旅館が立ち並ぶようになった。
現在でも商店街の一部にその当時の建築物を見ることができると云う。
昭和9年、丹那トンネルが開通するまでは、東海道本線は現在の御殿場線経由で、その急勾配を上るための機関車の増結が国府津駅で行われたため、優等列車の停車駅でもあったと云いう。

「国府津」神奈川県小田原市・県南西部で相模湾に臨む海岸段丘上が中心地で、かって「相模国府」の港があった。
明治20年東海道本線がこの駅「国府津駅」まで開通、大正14年熱海線が開通、昭和9年丹那トンネル開通で現在に。

                          真楽寺


寺は、現在真宗大谷派の寺院。
古くは聖徳太子の開基(寺を建てた人)による天台宗の古刹(由緒ある寺)で、その後、親鸞上人がこの寺に居住した縁によって浄土真宗に改宗し、改めて親鸞上人を開山(寺を開いた僧)とした寺。
このボダイジュは、寺の本堂西側、JRの線路を背にした所に立つ古木で、周囲は一段高く石垣で囲まれ、新編相模国風土記稿にも当時のボダイジュの記述があり、それによると、「菩提樹、親鸞手植のものと云、囲7尺」とあり、当時は幹回り2.1mの大樹で、単幹であった事が分る。
現在ある菩提樹は、株元が3幹で、そのうち2幹が分岐して双幹となり、計5幹・これは、今から130年ほど前、真楽寺に火災があり、その時この木も損傷し、幹の部分が枯れて株だけが生き残っていたものが、その後ひこばえ(株元から生える幹)が生え、成長したものが現在の木に。

   親鸞上人の植えたものかどうか、はっきり断言できませんが、樹齢360年位と推定できるので、植え継がれたものかも。




                          真楽寺本堂


                          時宗の光明寺


「時宗」ー浄土教系の一宗で、平生を臨終の時と心得て称名念仏する宗派。
鎌倉時代、一遍智真によって開かれ、地方を遊行している。



                          光明寺本堂


「菅原神社」
古くから「天神さん」と呼ばれる国府津の鎮守。
「菅原道真」、平安時代に藤原氏をおさえて右大臣に、その後藤原時平の陰謀で、大宰府へ流され没した人物で知られている・
「正暦5年6月30日の夕方 国府津海岸に木造船が着き、貴人が乗っていた。村人は麦飯に麦粉をかけてもてなした。数日後村人の夢枕にその貴人が現れ、「京の菅神(菅原道真)を崇敬せば幸多からん」と告げた」。
その後貴人の元を訪ねると姿がなく、彼の木像、庭に松と梅が植えられていたそうで、純真な村人たちは「菅原道真の霊が現れたと信じて祠を造った。
牛や梅や筆などが。

境内には色々な碑がー曽我兄弟の隠れ石という大岩と言われる石、兄弟が父の仇工藤祐経の鎌倉へ向かう行列を、この大岩に隠れて待ち受けたが、警護が厳しく涙を呑んで見送ったと言われていると、筆塚、他に「八幡社誉田別命」「淺間社木花咲耶姫命」「稲荷社倉稲魂命」「神明社天照大神」「日枝社大山昨命」を祀っている。
「菅公は学問の神様」

写真左:小田原市指定天然記念物に指定されているムクノキ。老木です。
写真右:境内にあるお稲荷さん。

茅の輪がありました。これをくぐると病気厄除けのご利益があるそうです。
しまった、これもくぐってない・・・。

                            鳥居


                             地図


                           お祭り風景


                 小田原市指定天然記念物指定「神木のムクノキ」




通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

               わらべ歌「通りやんせ」発祥の地 碑


                            社殿


真言宗東寺派/梅花山泉涌寺「安樂院」
本尊ー大聖不動明王・十一面観世音菩薩・地蔵菩薩・千手千眼観世音菩薩・弘法大師・両部曼荼羅図像・八祖大師図像

開創ー833年の古寺、寺宝ー般若心経一巻・両部種字曼荼羅

大徳、伊豆修善寺の開山・国府津鎮守菅原天神社別当をかね、後醍醐天皇の1320年、高傳僧都が堂宇を、明治の廃佛毀釈により菅原天神社本尊十一面観世音菩薩を当山に遷座とある。



                            本堂


               国道1号線・西湘バイバス・相模湾に面した砂利浜




「田島横穴古墳」
1681年、に発見(2基)。
ここに弁天様が祀られていたことから、田島弁天山横穴墓群とも呼ばれ、その後、昭和32年に、田島史談会によって調査が行われるまでに全部で12基の横穴墓が発見された。
そのうちの1基は埋め戻されているため、田島横穴群のうち、弁天山横穴群11基が史跡に。
小田原市域における古墳時代の墳墓には、
久野丘陵の円墳群と大磯丘陵の麓に点在する横穴墓群などが知られ、この横穴墓群は、市内では曽我付近から下曽我、田島、国府津、橘へと続き、久野丘陵の円墳群とともに、学術的にも貴重な遺跡です。また、昭和32年に12号古墳から出土した須恵器の自然釉壷や長頚瓶、11号古墳から出土した畿内産の土師器坏などは、相模地方における貴重な資料。
羽根尾横穴墓も、田島横穴古墳と同様に、曽我、田島、国府津から橘地区を経て、二宮町、大磯町そして平塚市域に至るまでの大磯丘陵のふもとを取り巻いて多数点在していると云う。




JR東海 車窓ばかりですが御殿場から国府津へ

2018-11-13 | 気まま旅






1889年の明治22年、
東京 - 大阪間を結ぶ鉄道(1909年に東海道本線と命名)の一部として開業、複線化も行わた。
昭和9年、丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の「御殿場線」に。
(鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線)
第二次世界大戦中の昭和19年、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用され、現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。
大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには、不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行されたとこも。
松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっている。
「JR東海」が管轄する在来線では唯一神奈川県に乗り入れている路線・
在来線の最東端の路線である。前述の歴史的経緯から東日本旅客鉄道(JR東日本)管理の国府津駅から沼津方面に向かう方が下り。





「丹那トンネル」
熱海ー三島間の函南町の丹那盆地・伊豆半島北部・多賀火山の西ー長さ7.841m、清水トンネルに次ぐ第二位の長さ。
1930年北伊豆地震で、横ずれ断層の跡がある。(丹那断層・天然記念物に)





新駅構想が、裾野駅、岩波駅はともにトヨタ自動車東日本(旧関東自動車工業)やキヤノンなど大企業が裾野市北部に工場を建設したことにより通勤客が激増、両駅とも利用者が大幅に増加。
このため、両駅の中間地点にある深良地区に市内で3番目の新駅を設置する構想が昭和40年頃、浮上。20億円で駅舎を建設し、周辺地区17ヘクタールの開発を行う計画がある。
期成会は、平成17年、深良地区の住民5,000人を大幅に上回る21,000人の署名を集めて裾野市に提出、大橋俊二市長(当時)がJR東海に陳情した。
JR東海は、市に対して「建設に運行の支障がないこと」「地域住民の乗降客が既存の駅利用者を減らすことなく2000人以上あること」「駅舎建設は全額地元負担であること」の3つの条件を提示し、市は、深良地区の定住人口を増加させるため、宅地化などへの開発へ区画整備の検討をしていると云う。
市街化調整区域の深良地区の開発には「市街化区域」への変更が必要であり、それも市の裁量だけで変更することはできず、国や県との調節が必要なため、平成27年現在、新駅設置に向けた開発は進んでおらず、事実上「凍結状態」にあると云う。

















国府津駅から御殿場線に乗ると、東海道本線を左側に離して内陸に入り、やがて右側に曽我梅林を見ながら進み、梅林の最寄り駅となる下曽我駅に。
その後も酒匂川沿いの低地を北上し、小田急電鉄小田原線の上を通過すると特急「ふじさん」が運転される同線との連絡線が右側から合流し、
「松田駅」に。
ここからは酒匂川との距離が近くなり、国道246号や東名高速道路も当線と並行するようになり、時にはそれらと交差、カーブと急勾配は、神奈川
両県の県境を越え、最高点が「御殿場駅」。
御殿場駅は、沼津駅をのぞいて線内最大の駅で、観光客やビジネス客などで多くの乗降がある。
黄瀬川に沿い、富士山の東麓斜面を駆け下る。車窓右側(西側)には富士山が広がり、特に御殿場駅近辺では遮るものなく、間近に迫る。
この辺は、宝永火口が正面に見え、また、勾配の途中に設けられている富士岡駅と岩波駅では、東海道本線時代に使用されていたスイッチバックの跡が残されている。
裾野駅の手前で東名高速道路が右側(西側)に離れると、徐々に勾配が緩やかになり、下土狩駅の先では東海道新幹線が上を通る。
愛鷹山が手前に見える頃に沼津駅に到着。
全線で常に左側には箱根山の外輪山を見る。









下曽我駅ー上大井駅「足柄上郡大井町」-相模金子駅ー松田駅「小田急電鉄・小田原線・ 新松田駅(御殿場方面から特急のみ新宿駅まで直通運転) 足柄上郡松田町」-東山北駅「足柄上郡山北町」-山北駅ー谷峨駅ー駿河小山駅「静岡県 駿東郡小山町」-足柄駅ー御殿場駅「御殿場市」

南御殿場駅ー富士岡駅ー岩波駅ー「裾野市」-裾野駅ー長泉なめり駅「駿東郡長泉町」-下土狩駅ー大岡駅「沼津市」-沼津駅。

JR東の「国府津駅」からー東海道本線主要駅までのkm数は、 小田原 6.2km、熱海 26.9km、沼津 48.5km(御殿場線経由より11.7km短い)
また、平塚 13.9km、横浜 48.9km、東京 77.7kmである。

河口湖の紅葉 山中湖周囲の散策 そして御殿場へ

2018-11-10 | 気まま旅

富士山の水は、山麓年降水量約2000mm中腹で3000mmを超え、山体で約年間「推定22億t]。
降水・離雪水は、浸透し地下水に。東麓の黄瀬川・鮎沢川ー西麓の潤井川・芝川「白糸の滝」・三島の柿田川・湧玉池などが知られている。
「北麓」には、山中湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖ー「富士五湖」を形成している。
山中湖北西に「忍野八海・朝霧高原に田貫湖、小田貫湿原、田子の浦砂丘の浮島沼」も知られている。
「南麓」の流入は、明治時代から製紙工場の用水に使われている。年々環境が悪く変貌しているという。心配である。

その日1合目からの富士山、雪をいっぱいに美しい富士。
 



山小屋近くの紅葉




河口湖畔 紅葉祭り まだあまり赤くない。これは10月下旬、今頃は最高。





オルゴールの森美術館の辺り










「紅葉祭り」11月中旬まで。
河口湖を囲む山々の木々が美しい紅色に染まる秋の恒例イベント。見どころはなんといっても夜のライトアップ。幻想的な紅葉の木々と、月光に照らされる
富士山の雄姿がこの時期だけの絶景として、訪れる方々の心を癒します。

メイン会場は河口湖北岸の梨川周辺の「紅葉回廊」で、戦前に植栽されたもみじの古木が小川の両岸に並ぶ様はまさに圧巻。
まつり期間中は地元有志の皆さんによる特産品販売のテントが並び、土日にはステージイベントや歓迎花火もあります。

メイン会場以外にも紅葉トンネルや御坂峠、紅葉台等、紅葉の絶景スポットが周辺にあります。

「山中湖村」は、県南東部、富士山東麓に位置し、東は神奈川県南は静岡に接している。
1889年中野村として成立し、1965年山中湖村になる。標高約1000mの高原地帯。山林原野が村域の7割を占めている。
全域が富士箱根国立公園に属し村域の中央部を湖が占める。
冷涼な気候と美しい自然景観を生かし、夏の避暑を中心に、首都圏の観光地として昔から発展、今年は、富士山世界遺産となり連日にぎわっている。別荘、会社や学校のも多い、東岸1帯はテニス村、美術館、洒落たレストランなどがある。
面積は、52KM2、国道138号線通じている。



山中湖は、富士五湖の一つ、形から臥牛湖とも云い、富士山溶岩による堰止湖で五湖の最東端名あたる。
湖面高度は最高で深度は最浅。
湖川は、湖西端の「桂川」へ。県天然記念物「フジマリモ」が生息し、湖底西には埋没林、東部には古い火山の噴火跡が残っている。
文人も多く訪れ、与謝野晶子は、「富士の雲つねに流れて束の間も心おちいぬ山中の湖」と詠んでいる。
湖の面積6.8KM2



「桂川」は、上流の山中湖水の桂川、河口近くの下流では、馬入川と呼ばれている。
古くは、鮎川と呼ばれた。
県南都留郡山中湖村、富士五湖の一つでもある山中湖を水源とし、富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田市で北東に折れる。都留市を経て大月市で流路を東に変える。
相模湖と津久井湖という2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは南にまっすぐ下り、神奈川県中部を貫き平塚市・茅ヶ崎市の境付近で相模湾に注ぐ。

  



「山中諏訪神社」は、別名「山中明神」とも呼ばれており、9月4日、5日に行われる「山中明神安産祭り」として広く知れ渡っています。
主祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀っており、安産の神として、また縁結び・子授け・子育ての守り神として御神徳を仰がんと広く全国的に集まり年々盛大になています。

  

恒例9月の安産祭りは、
4日宵祭りの午後6時30分に諏訪神社を出発したお神輿は、村道を練り歩き約1キロ先の神輿の仮宿となる御旅所に1晩安置され、お礼参り・お百度参りの妊婦や婦人で大変なにぎわいとなります。
 
5日本祭りの午後6時30分に御旅所から出発したお神輿は5,6時間かけて夜更けの諏訪神社へ帰ります。

  

祭りのクライマックスは、お神輿が神社に到着すると、男性の担ぐお神輿に分け入って、お腹の大きな妊婦さんや生まれて間もない子供を背負った母親、また子宝に恵まれたいと願う女性たちが、お神輿にすがりつく、あるいは担ぐ様子は全国的にも珍しい光景。

神社脇の森の中の喫茶店で朝のコヒーを。

    

「山中湖文学の森公園」には、 三島由紀夫文学館(徳富蘇峰館とともに、「山中湖文学の森」の中心文化施設。徳富蘇峰館( 近代日本史を語るうえで欠くことのできない蘇峰。その生涯が、 風生庵ー 近代俳句の巨匠・富安風生自筆の色紙や短冊などを展示した俳句の館。江戸時代の民家を移築した和室では、句会なども開催)
蒼生庵ー かつてこの村で使われていた農機具や民具などを展示されている。
他に、 山中湖情報創造館、 山中湖村の公共図書館と森を散策できる。



公園は約26,100坪有る。多くの樹木、山野草、野鳥などが棲息する自然豊かな公園。
情報創造館の文化施設があり、自然と文学のどちらも楽しむことができる。
散策路が木立を縫うように続き、山中湖にちなんだ句碑、歌碑が点在して、俳句、短歌愛好者や自然に親しむ人々の散策コースにもなって、
季節ごとに、色とりどりの山野草が咲き、自然観察、バードウォッチング、ウォーキングなど、



富安風生句碑、露涼し 朝富士の縞 豪放に。湖浮び 芒に沈む 荘の屋根。女とは 母とハ 安産まつりかな
       馬に敷く 褥草にも 萩桔梗。赤富士に 露滂沱たる 四遍かな

三浦 環歌碑、うたひめは つよき愛国心を持たざれば真の芸術家とはなり得まじ

高浜虚子句碑、撰集を 選みしよりの 山の秋。万葉集歌碑、富士の嶺の いや遠長き山路をも妹がりとへば けによばず来ぬ

松尾芭蕉句碑、山賤の おとがひ閉づる むぐら哉。前田夕暮歌碑、富士颪 ひょうびょうと 吹き凍りたる湖のもなかに 波青くあがる

金子光晴詩碑、五つの湖がふじをめぐる 山中湖は鶺鴒霧のなかのかるい尾羽。富安風生句碑、安波安波と 富士容あり 炎天下

与謝野晶子歌碑、富士の雲 つねに流れて つかの間も心おちいぬ 山中湖。

伊藤左千夫歌碑、夕ぐれの 三ヶ月のうみ 雲しづみ腕しづまりぬ妹に逢ひし夜は

富安風生句碑、庭として 花野を湖に かたむくる。赤富士に 露の満天 満地かな。

    

園内に19基ある歌碑が点在、ゆっくり歩いて1時間は必要。

    

「山中村」は、甲駿相間の多国間交通の要衝で、御坂路は中世に鎌倉往還となり、史書にも事例が見られる。
関東で挙兵した源頼朝が石橋山合戦で敗退した際には、土屋宗遠(三郎)が甲斐へ向かう際に通過しており、承久3年、「承久の乱」に
東山道大将軍として上洛した武田信光は、帰路の加古坂峠において乱の首謀者藤原光親を処刑している。「吾妻鏡」

戦国時代に甲斐国は守護武田氏の内訌と有力国衆による乱国状態となり、村域には1493年に武田家惣領信縄と弟の油川信恵 が争った
八代合戦で戦死したと伝わる山中太郎左衛門の城館跡がある。
郡内地方においては駿河今川氏や相模後北条氏ら他国勢力の侵攻もうけ、明応4年には北条早雲が今川氏と共同して郡内へ侵攻し、
1526年には、武田信虎(信尚)が駿河国梨木平において北条方を破り、1536年に北条氏綱と今川氏が郡内へ侵攻した山中合戦が行われている。鎌倉街道は武田滅亡後の天正壬午の乱においても北条氏が甲斐へ侵攻する際のルート。

山中湖


近世に郡内地方は谷村藩領を経て幕府直轄領となる。
郡内地方は山間部で耕地に乏しく僅かな米麦栽培のほか入会地における山稼ぎや街道添いの駄賃稼ぎ、養蚕や郡内織を特徴とするが、村域においてもこれらの生業のほか、山中湖における漁業が行われていたほか、加古坂峠に口留番所が置かれ運輸機能が強化され、駿河方面と経済圏を形成している。









                     東海・御殿場駅


「御殿場」富士山の東麓、箱根の玄関口・高原都市の御殿場。家康は、駿府城からここ御殿場でお休みに、今は、東京から約100kmの経済圏内に。
駒門風穴(高さ30mの千畳敷と蝙蝠)-富士登山御殿場口ー秩父宮記念公園ー東山岸邸ーサワリパークーアウトレットースピードウエイ・・。
乙女峠から金時山登山口ー桃源台・芦ノ湖へ、又駿河台から箱根スカイライン、芦ノ湖へ。

次回、御殿場線。

伊豆 宇佐美 塩の古道 文化交易の秋葉道

2018-11-07 | 気まま旅
ー熱海ー来宮ー伊豆多賀ー網代ー「宇佐美」ー伊東(伊東線)伊東ー伊豆高原・・下田(伊豆急行)
無人駅「宇佐美駅」下車。
静岡県伊東市宇佐美・県の南東で市の北端、元田方郡宇佐美村。
海岸寄りに、国道135号線・海水浴場・住宅が密集、西の山側はミカン畑・江戸時代から、西に石など荷物の積み出し港と漁港と「秋葉道、中核的宿場」
で賑わった。
奈良・平安・室町時代まで「伊東祐隆(平家方)・後妻・娘(源氏)」娘方の三男「城主・宇佐美祐茂」の城下町。

伊東氏・伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっていた。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となり、宇佐美祐茂は、1180年の「石橋山合戦」から、源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられている。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従って、上杉憲顕は、後に「初代関東管領」となる。
越後・上野・武蔵・安房の守護となり、この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出した。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようで、伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出・この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承が残っている。
追放された茶々丸は、失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従い、工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っている。
しかし、1495年には、伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落、(この間の宇佐美氏の動向は不明)

「宇佐美城」近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代まで・(この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われる)
後北条氏時代の宇佐美城は、主を失った城で、その後は、城番が置かれていたと云う。
残念ながら城跡に大学の寮が築かれた。堀や土塁などが良好に残っていたと云う。

                宇佐美海岸 正面に伊東の手石島が見える(熱海~伊東間)


             国道135号線に出る手前に、一里塚の巨樹の松が,(樹齢450年)


「秋葉信仰」
秋葉寺ー(しょうようじ)と読む、
昔の武将たちは、戦勝祈願・刀剣などを奉納するための旅に出ている。その目印が、常夜灯や一里塚を目指して旅に、
宇佐美は、その中核的な宿場と云う。海岸公園内に当時の常夜灯が残っている。

         秋葉道は、生活・政治・経済・文化の交易の道であった。


「塩の古道・秋葉、鳳来寺道」
江戸時代後期には、道者の通る街道が固定化したようで、掛川〜森〜三倉〜坂下〜秋葉山へ通じる街道は
「日傘で道に日が当たらぬ程の往来があったといい、俗謡に「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と伝えられている。
道標や常夜灯は、いたる所に置かれ、これを目じるしにして旅人が通過していった。
本宮山越えの秋葉道は険しい山が続いたので難儀をしたことが、高山彦九郎の日記「甲午春旅」に記されている。

                 秋葉寺は、守護神、三尺坊大観現、火防の神。


遠信古道・秋葉街道で運ばれていたなが重要な産物の一つに「塩」。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」があり、南塩ルート・遠州からの遠信古道、三河からの中馬街道の二つがあり、中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代と云う。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いて、南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことが。
昭和17年まで、「秋葉寺の火祭り」の際には湯立て神楽が行われ、その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っていると云う。
                    烏川橋(川は、山城の掘りの役割を)


                    烏川を正面にした「山城ー宇佐美城跡」


                         入山口が判らず。


                   烏川を利用した地形の山城であったと思われる。


                    森を囲んだように県道が、車多し。


              宇佐美は、下田方面と亀石峠・韮山方面の分岐点になる。




     海岸に「森米城句碑」あり、宇佐美出身 「とも尻の 梅へ出船の 大たき火」(門下生一同とある)






               江戸城石丁場があった。(折敷三文字の刻印)


          「烏川」流域は2.3kmの2級河川であるが上流は火山性の安山岩質で急勾配。




伊東駅近徒歩で 紅葉の松月院 大川沿いに東海館となぎさ公園へ

2018-11-04 | 気まま旅
中世の豪族「伊東氏」は、「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人。
1261年の日蓮もこの地に流され、居住跡が「仏現寺草案跡」とされた。
1605年ウイリアム・アダムス・三浦按針がここ伊東で西洋式帆船の建造されたと云われる。
温泉は、和田大湯・松原出来湯・猪戸湯の3種「汲湯」江戸城に運ばれている。
現在大川中心に800本近い源泉をもっている。


                      伊東駅広場


音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)



松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。


幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。

  訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。




                          本殿








                         手石島が








「伊東祐親」平安時代の武将
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、「篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場 
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。

(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)

東京都大島町・伊豆半島の東・都の南120km・東西約9km、南北約15km・伊豆諸島最大の島・富士箱根伊豆国立公園・大部分が玄武岩三重式成層
火山・島中央にあるカルテラは、7~8頃噴火に2つのカルテラが合体した。
9世紀頃海岸が割「池」が。1703年地震で津波のより海に、1777年大噴火により「三原山標高758m」誕生、島周囲53km。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
                      伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


                          伊東祐親像






                         伊東祐親の墓


                         伊豆高原方面


                町の中央を流れる大川沿いにある「東海館」


                           大川橋


                       大川橋からの東海館


              三浦按針(ウイリアム・アダムス)に指導で造船作業が


「夢花火」 伊東海岸. 8月・ 宇佐美花火大会 ー 宇佐美海岸. 8月、「灯籠の流れ」打上花火. 伊東 海岸. 8月・
「太鼓の響き」打上花火.伊東海岸. 8月、 第72回按針祭 海の花火大会. 伊東海岸一帯. 8月・ やんもの 里花火大会. 八幡野海岸. 8月・
川奈港いるか浜花火大会と続く。
                       伊東の花火


                      伊東湾灯台と向かいの大島


                   伊東ー初島を結ぶ 東海汽船乗り場


                         朝の岸壁で釣り人が


                         なぎさ公園へ


渚町ー伊東駅前12号線を海岸に向かうと、国道135号線と交差、大川に沿って、川口公園を抜けると伊東湾に出る、次回に。

「みかんの花咲く丘」
第2次世界大戦の終戦直後に生まれた童謡が、伊東から。
日本を代表する名作の1つとして知られ、1946年、発表。
作詞は、加藤省吾、作曲は、海沼實・「井口小夜子が吹き込んだ物と、川田正子が吹き込んだ物がある」

    「みかんの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる・・・・・。

「三浦按針・アダムス」 1564-1620 日本最初のイギリス人航海士 イギリスと友好都市に。
徳川家康からー250石を貰い、家臣となる。日本橋に屋敷を与えられ、日本女性と結婚し1男1女の4人家族。
家康の命令で、ここ伊東で西洋風船を造る。他にも幾何学・数理学などを講じたとある。現在、横須賀に按針塚が残されている。

                   オリーブの木の囲まれた公園


                     徳川家康と大名時計


                         三浦按針


「松原・湯川」の海岸を「伊東海岸と云う。
延長1kmで遠浅の砂山である。6月中旬海開き「市営海浜・温泉プールもある」・夏ミカン狩りは3~5月頃

                     伊東港の岸壁


                    伊東港の灯台と初島


                  按針の指導で、帆かけ船建造場面


        宇佐美ー伊東港ー川奈ー小室山―門脇岬―蓮着寺(日蓮上人の霊場)-城ヶ島と続く


                        オリーブの木




「木下杢太郎」 明治時代の医学者で文学者・記念館が近くである。伊東公園に碑が建つ。
「北原白秋」の伊東音頭の碑・「尾崎士郎」文学碑(戦時中疎開)・「与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・高浜虚子」の碑がある。
これは、木下の「明星」の仲間と云う。