ニュースも今一つ目新しいものもなく面白くなかったので、たまたまテレビ欄で見つけたBS231「放送大学大学」の〈和歌文学世界〉にチャンネルを合わせた。今日は4回目でテーマは《『伊勢物語』の和歌》であった。『伊勢物語』には在原業平の詠んだ和歌が多数織り込まれていて、それらが詠まれた場所に着目すると日本全国の山、川、野、海などの歌枕が浮かび上がってくるという。その中から春日野、宇津の山、小塩山、東下り、隅田川などを取りあげて、それらの空間に込められた業平の思いをひも解かれていた。講師は電気通信大学教授の島内景二さん。自身が撮った現在のその場の写真をまじえての話だったのでわかりやすかった。
中でも、有名な「東下り」の三河の国八橋で「かきつばた」の5文字を句の頭に読み、旅の気持ちを詠むようにという注文に応えた
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
は、高校の時に古文で習った時すごく印象に残った。5文字を区の頭に読み込むという言葉遊び的な要素に惹きつけられ真似をして作っていたように記憶している。島内さんが撮って来た知立神社などのゆかりの写真を見ながら懐かしいと思った。
私は名古屋と岡崎に分かれていた愛知教育大学が統合された最初の入学生にあたる。その新設されたキャンパスがあったのが名古屋と岡崎のほぼ中間点にあたる知立であった。当時は三河の国八橋はこのあたりのことだったんだという程度でそれ以上強く興味も覚えず過ごしていたが、氏の撮影した写真を見ているともうちょっと探索しておけば良かったと思った。ただ、当時は今ほど整備もされていなかったように思う。
入学の手続きで初めて、知立の駅に降りて大学方面に行くバスの時刻表を見て愕然としたのを覚えている。運行しているのは朝と夕方の通学通勤の時間帯だけで日中は空白だった。仕方がないので歩いたと思う。大学のほうも必要最低限の施設のみできていて建設半ばという感じであった。3年間ぐらいはバスの増設が大きな課題であった。卒業後は行っていない。ずい分変っただろうなと想像する。久々に知立という言葉に接し、氏が訪れた場所を含め一度見てみたいという思いにとらわれた。
最後に、在原業平伝説は各地にあるので、それらを大切にしていって欲しいという主旨のまとめをされた。今住んでいる交野にも業平の歌碑がある。そのあたりのこともちょっと知りたいと思い調べていたら、大阪府立高等学校教諭の内田美由紀さんの『ようこそ伊勢物語ワールドへ』というサイトがあり、興味深く読ませてもらった。交野の部分はこんな感じ、
桜の花盛りへ
・・・お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。
「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。
皇子に、右馬の頭(うまのかみ)がお酒をさし上げる。
皇子のおっしゃるには、
「『交野を狩して、天の河のほとりに着いた』を題として、歌を詠んで、盃をさせ(杯に酒を注げ)」と
おっしゃったので、例の右馬の頭が、詠んで差し上げた。
かりくらし たなばたつめにやどからむ 天(あま)の河原に我は来にけり
(一日狩をして過ごして七夕姫〔織女〕に宿を借りよう 天の河の川原に私は来たことだ)
皇子は、歌を繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。
紀有常(きのありつね)が、お供にお仕えしていた。その人の返歌
ひととせにひとたびきます君まてば やどかす人もあらじとぞ思ふ
(一年に一度いらっしゃる殿方〔牽牛〕を待つので 宿を貸す人もいないだろうと思う)
気がつけば、1時間余り「伊勢物語」の世界を巡っていた。この放送大学の講座、15回まであり、古代から現代までの1300年以上にわたる長い和歌の歴史の中でその表現や和歌に託された人々の心の変遷を様々な角度から迫るようである。日本文化の根底を流れるものを考える上でははずすことができない分野だと考える。偶然、入り込んでしまったが、これも必然と考え終わりまで付き合ってみよう。
中でも、有名な「東下り」の三河の国八橋で「かきつばた」の5文字を句の頭に読み、旅の気持ちを詠むようにという注文に応えた
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
は、高校の時に古文で習った時すごく印象に残った。5文字を区の頭に読み込むという言葉遊び的な要素に惹きつけられ真似をして作っていたように記憶している。島内さんが撮って来た知立神社などのゆかりの写真を見ながら懐かしいと思った。
私は名古屋と岡崎に分かれていた愛知教育大学が統合された最初の入学生にあたる。その新設されたキャンパスがあったのが名古屋と岡崎のほぼ中間点にあたる知立であった。当時は三河の国八橋はこのあたりのことだったんだという程度でそれ以上強く興味も覚えず過ごしていたが、氏の撮影した写真を見ているともうちょっと探索しておけば良かったと思った。ただ、当時は今ほど整備もされていなかったように思う。
入学の手続きで初めて、知立の駅に降りて大学方面に行くバスの時刻表を見て愕然としたのを覚えている。運行しているのは朝と夕方の通学通勤の時間帯だけで日中は空白だった。仕方がないので歩いたと思う。大学のほうも必要最低限の施設のみできていて建設半ばという感じであった。3年間ぐらいはバスの増設が大きな課題であった。卒業後は行っていない。ずい分変っただろうなと想像する。久々に知立という言葉に接し、氏が訪れた場所を含め一度見てみたいという思いにとらわれた。
最後に、在原業平伝説は各地にあるので、それらを大切にしていって欲しいという主旨のまとめをされた。今住んでいる交野にも業平の歌碑がある。そのあたりのこともちょっと知りたいと思い調べていたら、大阪府立高等学校教諭の内田美由紀さんの『ようこそ伊勢物語ワールドへ』というサイトがあり、興味深く読ませてもらった。交野の部分はこんな感じ、
桜の花盛りへ
・・・お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。
「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。
皇子に、右馬の頭(うまのかみ)がお酒をさし上げる。
皇子のおっしゃるには、
「『交野を狩して、天の河のほとりに着いた』を題として、歌を詠んで、盃をさせ(杯に酒を注げ)」と
おっしゃったので、例の右馬の頭が、詠んで差し上げた。
かりくらし たなばたつめにやどからむ 天(あま)の河原に我は来にけり
(一日狩をして過ごして七夕姫〔織女〕に宿を借りよう 天の河の川原に私は来たことだ)
皇子は、歌を繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。
紀有常(きのありつね)が、お供にお仕えしていた。その人の返歌
ひととせにひとたびきます君まてば やどかす人もあらじとぞ思ふ
(一年に一度いらっしゃる殿方〔牽牛〕を待つので 宿を貸す人もいないだろうと思う)
気がつけば、1時間余り「伊勢物語」の世界を巡っていた。この放送大学の講座、15回まであり、古代から現代までの1300年以上にわたる長い和歌の歴史の中でその表現や和歌に託された人々の心の変遷を様々な角度から迫るようである。日本文化の根底を流れるものを考える上でははずすことができない分野だと考える。偶然、入り込んでしまったが、これも必然と考え終わりまで付き合ってみよう。