素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

デジブック 『気ままに長岡京散策』

2014年04月12日 | 日記
山崎にいる娘が、中古物件の家を購入することになった。一緒に候補の家を見に行って欲しいと頼まれたので妻と行くことになった。15時30分に約束していたので、それまで近くでブラブラと時間つぶしをすることになった。そこで長岡天満宮、乙訓寺、光明寺方面に行く時に目にしていた勝龍寺城跡公園の矢印標示板にしたがって一度行ってみようと話が決まった。

 さしたる情報もなく、成り行きまかせの時間つぶしである。171号線を京都に向かって走り、勝龍寺の交差点を左折、50mほど行った最初の信号(ここに標示板がある。いつもは直進)を右折、小畑川沿いに走るとすぐに勝龍寺城跡公園に着く。予想していたよりもきれいに整備されていた。細川ガラシャで有名だが、展示室で城の歩みを見ると南北朝時代には南朝方の京都進出に対抗する前線基地に始まり、応仁の乱では西軍(畠山義就)の拠点、天正10年(1582)の山崎の合戦では明智光秀が本拠とした。という風に歴史の波に翻弄されてきたことを痛感した。光秀の三女である玉(ガラシャ)の38年の生涯が象徴的である。天正6年8月に16歳で細川藤孝(幽斉)の長男忠興に嫁ぎ丹後宮津に移るまでの3年間勝龍寺城で過ごした。父光秀の「本能寺の変」のあおりを受け丹後の三戸野に幽閉され、2年後に秀吉の計らいで忠興との復縁が許されたが、今度は関ヶ原の戦いで石田三成の人質になるのを拒み自害する。転換点での判断で細川家はまことにきわどい選択を強いられた。歴史にifはないが、違う道を選んでいたならば細川護熙さんの首相も都知事選立候補もなかった。

 そんなことを考えながら、たまたま見つけた城跡公園にけいじされていた散策コースを歩いて長岡京市の中心街を周回してきた。ちょうど長岡京駅前商店街連合会が100円市のイベントをしていたので妻は大喜び、おおかた2時間余り買い物ツアーに切り替わる。100円パンセットに100円いなり3個パック、100円コーヒーと店々でスタンプをもらいながらまわっていた。私はベンチで一休み。

 長岡天満宮のキリシマツツジはつぼみ固しという状態であったが、桜、ヤマブキ、ミツバツツジなどをたのしみながらゆっくり散策した。いつも来ていたのはシーズンで人がいっぱいの時ばかりだったのでひと味違う風情を味わった。

 10時20分過ぎに勝龍寺城跡公園着いたのだが、思わぬ所で時間をつぶせて、アゼリア通り、西国街道をまわって公園にもどったのが14時すぎ。公園内を見学してから娘のマンションに行ったがドンピシャリの時間となった。「何をしたでもないが、何かおもしろい一日やったなあ」とは一致した感想。

 名物の筍を買ったことは言うまでもない。

デジブック 『気ままに長岡京散策』
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