~貞淑で、古風で、武蔵野の精のようなやさしい魂を持った人妻道子と、ビルマから復員してきた従弟の勉との間に芽生えた悲劇的な愛。
――欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に、姦通・虚栄・欲望などをめぐる錯綜した心理模様を描く。
スタンダールやラディゲなどに学んだフランス心理小説の手法を、日本の文学風土のなかで試みた、著者の初期代表作のひとつである。「内容紹介」より
『
野火』に続く、大岡昇平氏の作品2作目です。
野火でもそうでしたが、とても哲学的な心理描写が巧みな作家さんです。
筆者は、教育召集で、東部第二部隊に入営し、フィリピンのマニラに到着。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた。1945年(昭和20年)米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される。敗戦後、帰国し、1949年に『俘虜記』を発表。横光利一賞を受賞。その後、1950年にこの『武蔵野夫人』を上梓し、さらに1952年に『野火』を書くんですね。
まさに自身の体験をもとに、戦中・戦後をリアルに書き続けた作家さんと言えるでしょう。
さて、この『武蔵野婦人』は、復員兵の勉と、その従姉の道子の恋が根底にあり、隣人である道子の従兄弟の大野と、その妻・富子、そして道子の旦那の秋山が絡み合った愛憎劇です。
しかしながら、戦後間もない武蔵野平野の雄大な自然と、それぞれの心理描写、情景描写が美しく、読んでいて苦痛ではありません。
道子と勉は、心の底では強く惹かれ合っていながらも、道子の固い貞淑から叶わぬ恋となってしまいます。
作中に、自宅の庭の池の上を飛ぶ二羽のアゲハ蝶についての描写が出てきます。羽の大きな黒いアゲハ蝶が上を飛びながら、ゆるやかに羽を煽っており、その真下を飛ぶ少し小ぶりの褐色のアゲハ蝶が、黒アゲハを下から突き上げるように、追いかけるように、忙しく飛んでいました。
この時、二人は同時に二羽の蝶を眺めながら、お互いの姿と重ね合わせます。
道子は、下の蝶が雌だと思い、勉を想い一生懸命、勉を追いかけますが、勉はその想いに気づくことなく、ゆったりと鷹揚に一歩先を優雅に舞っていると感じます。
一方の勉は、下の蝶が雄だと思い、道子への叶わぬ想いに焦れながらも、道子に手が届きそうになると、いつもフワリとかわされ、その虚しい試みを繰り返すしかないのかと心が折れそうになります。
こういう情緒的で巧みな心理描写が、至る所に登場し、思わず唸ってしまいます。
読んでいて感じたことは、全く表現方法も言葉遣いも情景も人物も間逆なんですが、ある意味では、
町田康の『告白』などに代表される巧みで深い心理描写に通じるものがあります。
物語の内容としては、何か驚くべきことが起こる訳でもありませんし、全体的にゆったりと流れていきますが、この哲学的心理・情景描写を読むだけでも価値がありますね。
★★★3つです。