日本橋の丸善に原田マハさんの「サロメ」が平積みになっていたので、衝動的に買ってしまいました。黄色っぽい表紙に印刷されたビアズリーのサロメの絵を見ていたら、買わないという選択はないと思えてしまったのです。
昨年の11月、長年住んでいたシンガポールを引き払うために、大量の書籍を処分した時、もう本は買うのはやめようと思っていました。しかし、この本を目にした瞬間に、その決意はもろくも崩れ、気付いたらレジで支払いをしていました。
私は大学で英文学を専攻していたのですが、ビアズリーやオスカー・ワイルドは素通りしてしまっていました。サロメの話も、詳しくは知りませんでした。しかし、この原田マハさんのこの小説を読み出したら、まるで時間と空間を超えて旅をしているような感覚を味わうことができました。そして、自分がかつて訪れた場所の記憶や、かつて見聞きした記憶の断片が次々と蘇ってきたのです。
ゴールデンウィーク中にゆっくり読もうと思っていたのですが、夢中で読んでしまい、ゴールデンウィークが始まる前に読み終えてしまっていました。読んだ後、不思議な衝動を感じ、上のような物語の相関図を作ってみました。完全に自己満足なのですが、人物の配置とバランス、そして人物を繋ぐ線で登場人物の関係を美しく図式化していくことに喜びを感じるのです。
小説を楽しむにあたって、写真や地図や画像は不要かもしれませんが、実際のものを知るとまた味わいも深くなっていくのではないかと思うので、ネット検索で集めた資料をご紹介していきたいと思います。余計なお世話かもしれませんので、知りたくない方は、この記事から早めに離脱することをおすすめします。
まず、この物語の主人公として重要な人物がどんな姿だったのかをご紹介していきましょう。最初は、オーブリー・ビアズリー。
この小説の中では17歳の頃から25歳までのオーブリー・ビアズリーが描かれています。無名のオーブリーの才能を見出す様々な人々。そしてオスカー・ワイルドとの出会い。最後は結核で25歳の短い人生を終えるのですが、5年ほどの間に一世を風靡し、数々の名作を残します。
そして、もう一人の主人公のメイベル・ビアズリー。
オーブリーの一歳年上の姉ですが、女優で、サロメを演じることを夢見ています。姉としてオーブリーをオスカー・ワイルドから守ろうとします。小説の中では、「ジョー」というお芝居で、当時の人気女優のジェニー・リーと同じ舞台に立つという話や、「アントニーとクレオパトラ」で主役のクレオパトラを演じるという話が出てきますが、上の写真を見るととても綺麗な女優だったのですね。
こちらは1875年のメイベルとオーブリーの写真。
子供の頃から仲が良かったという話が小説中で出てきますが、この写真は1875年ということなので、オーブリーが3歳頃、メイベルが4歳頃と思われます。
そしてこちらは、オスカー・ワイルド。
アイルランド生まれの作家・劇作家で、耽美的、退廃的な19世紀末文学の旗手と言われている人物で、『幸福な王子』等の児童文学、『ドリアン・グレイの肖像』等の小説、『ウィンダミア卿夫人の扇』などの戯曲等で有名です。この小説では彼がフランス語で書いた『サロメ』が登場します。男色家で、当時の保守的な英国では問題視され、クイーンズベリー侯ジョン・ダグラスからの訴訟を受け、投獄され、破産。放浪の後、梅毒による髄膜炎で46歳でこの世を去ります。
この小説の中で登場するオスカー・ワイルドは40代で、男の色気たっぷりなのは写真からもわかりますね。
上の写真はオスカー・ワイルドと、小説の中でも登場する美貌の青年アルフレッド・ダグラス。しかし、オスカー・ワイルドのファッションセンスはすごいですね。
こちらは、まだ無名だったオーブリー・ビアズリーの作品を掲載した、雑誌ペルメルバジェットとストゥーディオ。小説の中で二つとも登場してきます。
Pall Mallというスペルを見て「ポール・モール」と読んでしまいそうになりますが(ポールモールというタバコもあるので紛らわしいですが)、これは「ペルメル」です。あるいは、「パルマル」という発音にも近いですが、アメリカ人的に「ポール・モール」と発音してしまうと、英国人は眉をしかめます。ロンドンのトラファルガー広場とセント・ジェームズ・ストリートを繋ぐハイソサエティーな通りの名前なのです。
この通りには、昔からジェントルマンズ・クラブがいくつもあり、私は、広告業界の会合でリフォーム・クラブというクラブで食事をしたことがあります。歴史を感じさせる重厚な雰囲気の空間でした。ペルメル界隈は19世紀末は文化の中心地という雰囲気があったのだと思います。
なぜペルメルと発音されるのかというと、16、17世紀に流行っていたローンゲーム(ゲートボールのような球技)がペルメルと呼ばれていて、それがこの通りの近くで行われていたという由来によります。
Pall Mall Budget(ペルメルバジェット)という週刊雑誌は、Pall Mall Gazette(ペルメルガゼット)という夕刊紙の1週間の記事をダイジェストにした雑誌です。1868年から1920年まで続いた雑誌ですが、1893年にWilliam Waldorf Astorがリローンチを行い、C. Lewis Hindが編集を担当します。
オーブリー・ビアズリーの作品が初めて登場するのが、このペルメルバジェット。そして、間も無く、The Studioという雑誌が創刊され、そこにもオーブリー・ビアズリーの作品が掲載されます。この二つの雑誌にともに関わっていたのが、C. Lewis Hindという編集者なのです。
その頃、挿絵画家としてオーブリー・ビアズリーを起用するのを決めたのは、J.M.デントという出版業を営む人物で、それはトーマス・マロリー著『アーサー王の死』の仕事でした。
そしてこの小説の主題であるオスカー・ワイルド作『サロメ』です。
オスカー・ワイルドが最初フランス語で書いた戯曲だったのですが、その内容が社会良俗に反するということで英国での上演許可は降りませんでした。フランス語のオリジナルを英語に翻訳するということで、オーブリーが翻訳するのですが、上の画像の左のオレンジ色の英語版の表紙に、翻訳:アルフレッド・ダグラスという表記が出ています。この経緯を知りたい方は、原田マハさんの『サロメ』をお読みください。
オーブリー・ビアズリーが有名になった後、彼が編集責任者兼アートディレクターとして関わるのがイエローブックのプロジェクトでした。
「黒いマスクをつけて邪悪な笑みを浮かべる女の顔」というのは上の一番左の絵です。小説の中で、オーブリー・ビアズリーが最後の作品として、シェイクスピアと同時代の劇作家ベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』の挿絵を描いていますが、それがこちらの作品です。
私は学生時代、上智大学の英文科におり、シェイクスピア演劇を原語で上演するシェイクスピア研究会にも属しておりました。今はテレビでも有名になっている吉田鋼太郎もその時の仲間です。
シェイクスピア研究会の顧問の先生が、シェイクスピア研究者の安西徹雄氏で、先生は劇団円でいくつかシェイククスピア劇を翻訳・演出されていました。1981年にベンジョンソンの『ヴォルポーネ・またの名を狐』という演目で劇団円で上演しました。橋爪功さんらが出演しておりました。その後、『錬金術師』というベンジョンソンの作品も安西徹雄訳演出です。
日本ではほとんど知られていない作品でしたが、めちゃくちゃ面白い作品でした。その作品が上演された時代に生きていたとう幸運に感謝したいと思います。
オーブリー・ビアズリーが最後の作品として『ヴォルポーネ』の絵を描いていたというのも面白いですね。
さて、物語の最初にも、途中にも登場してくるのがホテル・ザ・サヴォイのティールサロン。
1887年に創業したこのホテルは、ロンドン随一の一流ホテルですが、オスカー・ワイルドは当時できてまだ間もないこのホテルの常連だったということです。メイベルがオスカー・ワイルドを呼び出すのはこのティーサロンです。
昔、出張でロンドンに行った時、このティールームにアフタヌーンティーをしに会社の仲間数人で行こうとしたら、入り口で、「スニーカーやジーンズは駄目だ」と断られたことを思い出しました。
そしてこちらはカフェロワイヤル。1893年4月最後の土曜日の夜、オスカー・ワイルドがオーブリーと密会する際に、メイベルがこっそり立ち聞きする場所です。
こちらはパリのコメディー・フランセーズ。オーブリーとメイベルが、サラ・ベルナールの『ハムレット』を見る劇場です。
当時ロンドンで有名だった女優のジェニー・リー。彼女の当たり役は、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』(Bleak House)に登場するJoeを主役にして脚色したお芝居の"Joe"でした。オーディションの末、メイベル・ビアズリーはこのお芝居で、ジェニー・リーと同じ舞台に立つことになります。
メイベル・ビアズリーが、アルフレッド・ダグラスの力を借りて、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ役を射止めるという話も出てきますが、この時の資料は見つかりませんでした。
そしてこちらが、最後にメイベル・ビアズリーが1日だけ借りて、サロメを上演するパリの劇場、ブフ・デュ・ノール。
オーブリー・ビアズリーが1897年11月20日から1898年3月16日まで滞在するのが南フランスのマントン。こちらが地図ですが、マントンは南フランスの一番東外れのモナコの隣、イタリア国境のすぐそばの町です。国境を超えれば音楽祭で有名なサンレモもすぐそばのところですね。
ニースには二度ほど行ったことがありますが、マントンはニースからもすぐ近くだったんですね。ここは、19世紀にビクトリア女王も滞在したことがあり、イギリス人には人気のスポットだったようです。この町に英国の医者が5人もいたそうです。
こちらがマントンの動画です。
オーブリー・ビアズリーはこの町のコスモポリタン・ホテルというホテルで85日間滞在し、そこで亡くなるのですが、お墓はこの町の丘の上にあります。
上の左の写真はホテルの部屋のオーブリー・ビアズリー。壁には彼の絵が何枚も貼ってあります。右は丘の上の彼のお墓。彼が亡くなったのは25歳。彗星のように現れて、消えていきました。
25歳と聞いて、私が25歳の時に印刷した詩集を思い出しました。表紙の絵も自分で書いたのですが、当時は細いペンで絵を描いていました。ビアズリーのことは知らなかったのですが、何となくビアズリーが拘っていたことがわかるような気がしました。
『ハートコレクション』というタイトルのこの詩集の表紙は、暗い森の中に、昆虫採集の如く、さまよえるハートを捕まえにいくという設定です。すっかり忘れていた過去の出来事ですが、『サロメ』を読んで、こんなことも思い出させてくれました。
昨年の11月、長年住んでいたシンガポールを引き払うために、大量の書籍を処分した時、もう本は買うのはやめようと思っていました。しかし、この本を目にした瞬間に、その決意はもろくも崩れ、気付いたらレジで支払いをしていました。
私は大学で英文学を専攻していたのですが、ビアズリーやオスカー・ワイルドは素通りしてしまっていました。サロメの話も、詳しくは知りませんでした。しかし、この原田マハさんのこの小説を読み出したら、まるで時間と空間を超えて旅をしているような感覚を味わうことができました。そして、自分がかつて訪れた場所の記憶や、かつて見聞きした記憶の断片が次々と蘇ってきたのです。
ゴールデンウィーク中にゆっくり読もうと思っていたのですが、夢中で読んでしまい、ゴールデンウィークが始まる前に読み終えてしまっていました。読んだ後、不思議な衝動を感じ、上のような物語の相関図を作ってみました。完全に自己満足なのですが、人物の配置とバランス、そして人物を繋ぐ線で登場人物の関係を美しく図式化していくことに喜びを感じるのです。
小説を楽しむにあたって、写真や地図や画像は不要かもしれませんが、実際のものを知るとまた味わいも深くなっていくのではないかと思うので、ネット検索で集めた資料をご紹介していきたいと思います。余計なお世話かもしれませんので、知りたくない方は、この記事から早めに離脱することをおすすめします。
まず、この物語の主人公として重要な人物がどんな姿だったのかをご紹介していきましょう。最初は、オーブリー・ビアズリー。
この小説の中では17歳の頃から25歳までのオーブリー・ビアズリーが描かれています。無名のオーブリーの才能を見出す様々な人々。そしてオスカー・ワイルドとの出会い。最後は結核で25歳の短い人生を終えるのですが、5年ほどの間に一世を風靡し、数々の名作を残します。
そして、もう一人の主人公のメイベル・ビアズリー。
オーブリーの一歳年上の姉ですが、女優で、サロメを演じることを夢見ています。姉としてオーブリーをオスカー・ワイルドから守ろうとします。小説の中では、「ジョー」というお芝居で、当時の人気女優のジェニー・リーと同じ舞台に立つという話や、「アントニーとクレオパトラ」で主役のクレオパトラを演じるという話が出てきますが、上の写真を見るととても綺麗な女優だったのですね。
こちらは1875年のメイベルとオーブリーの写真。
子供の頃から仲が良かったという話が小説中で出てきますが、この写真は1875年ということなので、オーブリーが3歳頃、メイベルが4歳頃と思われます。
そしてこちらは、オスカー・ワイルド。
アイルランド生まれの作家・劇作家で、耽美的、退廃的な19世紀末文学の旗手と言われている人物で、『幸福な王子』等の児童文学、『ドリアン・グレイの肖像』等の小説、『ウィンダミア卿夫人の扇』などの戯曲等で有名です。この小説では彼がフランス語で書いた『サロメ』が登場します。男色家で、当時の保守的な英国では問題視され、クイーンズベリー侯ジョン・ダグラスからの訴訟を受け、投獄され、破産。放浪の後、梅毒による髄膜炎で46歳でこの世を去ります。
この小説の中で登場するオスカー・ワイルドは40代で、男の色気たっぷりなのは写真からもわかりますね。
上の写真はオスカー・ワイルドと、小説の中でも登場する美貌の青年アルフレッド・ダグラス。しかし、オスカー・ワイルドのファッションセンスはすごいですね。
こちらは、まだ無名だったオーブリー・ビアズリーの作品を掲載した、雑誌ペルメルバジェットとストゥーディオ。小説の中で二つとも登場してきます。
Pall Mallというスペルを見て「ポール・モール」と読んでしまいそうになりますが(ポールモールというタバコもあるので紛らわしいですが)、これは「ペルメル」です。あるいは、「パルマル」という発音にも近いですが、アメリカ人的に「ポール・モール」と発音してしまうと、英国人は眉をしかめます。ロンドンのトラファルガー広場とセント・ジェームズ・ストリートを繋ぐハイソサエティーな通りの名前なのです。
この通りには、昔からジェントルマンズ・クラブがいくつもあり、私は、広告業界の会合でリフォーム・クラブというクラブで食事をしたことがあります。歴史を感じさせる重厚な雰囲気の空間でした。ペルメル界隈は19世紀末は文化の中心地という雰囲気があったのだと思います。
なぜペルメルと発音されるのかというと、16、17世紀に流行っていたローンゲーム(ゲートボールのような球技)がペルメルと呼ばれていて、それがこの通りの近くで行われていたという由来によります。
Pall Mall Budget(ペルメルバジェット)という週刊雑誌は、Pall Mall Gazette(ペルメルガゼット)という夕刊紙の1週間の記事をダイジェストにした雑誌です。1868年から1920年まで続いた雑誌ですが、1893年にWilliam Waldorf Astorがリローンチを行い、C. Lewis Hindが編集を担当します。
オーブリー・ビアズリーの作品が初めて登場するのが、このペルメルバジェット。そして、間も無く、The Studioという雑誌が創刊され、そこにもオーブリー・ビアズリーの作品が掲載されます。この二つの雑誌にともに関わっていたのが、C. Lewis Hindという編集者なのです。
その頃、挿絵画家としてオーブリー・ビアズリーを起用するのを決めたのは、J.M.デントという出版業を営む人物で、それはトーマス・マロリー著『アーサー王の死』の仕事でした。
そしてこの小説の主題であるオスカー・ワイルド作『サロメ』です。
オスカー・ワイルドが最初フランス語で書いた戯曲だったのですが、その内容が社会良俗に反するということで英国での上演許可は降りませんでした。フランス語のオリジナルを英語に翻訳するということで、オーブリーが翻訳するのですが、上の画像の左のオレンジ色の英語版の表紙に、翻訳:アルフレッド・ダグラスという表記が出ています。この経緯を知りたい方は、原田マハさんの『サロメ』をお読みください。
オーブリー・ビアズリーが有名になった後、彼が編集責任者兼アートディレクターとして関わるのがイエローブックのプロジェクトでした。
「黒いマスクをつけて邪悪な笑みを浮かべる女の顔」というのは上の一番左の絵です。小説の中で、オーブリー・ビアズリーが最後の作品として、シェイクスピアと同時代の劇作家ベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』の挿絵を描いていますが、それがこちらの作品です。
私は学生時代、上智大学の英文科におり、シェイクスピア演劇を原語で上演するシェイクスピア研究会にも属しておりました。今はテレビでも有名になっている吉田鋼太郎もその時の仲間です。
シェイクスピア研究会の顧問の先生が、シェイクスピア研究者の安西徹雄氏で、先生は劇団円でいくつかシェイククスピア劇を翻訳・演出されていました。1981年にベンジョンソンの『ヴォルポーネ・またの名を狐』という演目で劇団円で上演しました。橋爪功さんらが出演しておりました。その後、『錬金術師』というベンジョンソンの作品も安西徹雄訳演出です。
日本ではほとんど知られていない作品でしたが、めちゃくちゃ面白い作品でした。その作品が上演された時代に生きていたとう幸運に感謝したいと思います。
オーブリー・ビアズリーが最後の作品として『ヴォルポーネ』の絵を描いていたというのも面白いですね。
さて、物語の最初にも、途中にも登場してくるのがホテル・ザ・サヴォイのティールサロン。
1887年に創業したこのホテルは、ロンドン随一の一流ホテルですが、オスカー・ワイルドは当時できてまだ間もないこのホテルの常連だったということです。メイベルがオスカー・ワイルドを呼び出すのはこのティーサロンです。
昔、出張でロンドンに行った時、このティールームにアフタヌーンティーをしに会社の仲間数人で行こうとしたら、入り口で、「スニーカーやジーンズは駄目だ」と断られたことを思い出しました。
そしてこちらはカフェロワイヤル。1893年4月最後の土曜日の夜、オスカー・ワイルドがオーブリーと密会する際に、メイベルがこっそり立ち聞きする場所です。
こちらはパリのコメディー・フランセーズ。オーブリーとメイベルが、サラ・ベルナールの『ハムレット』を見る劇場です。
当時ロンドンで有名だった女優のジェニー・リー。彼女の当たり役は、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』(Bleak House)に登場するJoeを主役にして脚色したお芝居の"Joe"でした。オーディションの末、メイベル・ビアズリーはこのお芝居で、ジェニー・リーと同じ舞台に立つことになります。
メイベル・ビアズリーが、アルフレッド・ダグラスの力を借りて、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ役を射止めるという話も出てきますが、この時の資料は見つかりませんでした。
そしてこちらが、最後にメイベル・ビアズリーが1日だけ借りて、サロメを上演するパリの劇場、ブフ・デュ・ノール。
オーブリー・ビアズリーが1897年11月20日から1898年3月16日まで滞在するのが南フランスのマントン。こちらが地図ですが、マントンは南フランスの一番東外れのモナコの隣、イタリア国境のすぐそばの町です。国境を超えれば音楽祭で有名なサンレモもすぐそばのところですね。
ニースには二度ほど行ったことがありますが、マントンはニースからもすぐ近くだったんですね。ここは、19世紀にビクトリア女王も滞在したことがあり、イギリス人には人気のスポットだったようです。この町に英国の医者が5人もいたそうです。
こちらがマントンの動画です。
オーブリー・ビアズリーはこの町のコスモポリタン・ホテルというホテルで85日間滞在し、そこで亡くなるのですが、お墓はこの町の丘の上にあります。
上の左の写真はホテルの部屋のオーブリー・ビアズリー。壁には彼の絵が何枚も貼ってあります。右は丘の上の彼のお墓。彼が亡くなったのは25歳。彗星のように現れて、消えていきました。
25歳と聞いて、私が25歳の時に印刷した詩集を思い出しました。表紙の絵も自分で書いたのですが、当時は細いペンで絵を描いていました。ビアズリーのことは知らなかったのですが、何となくビアズリーが拘っていたことがわかるような気がしました。
『ハートコレクション』というタイトルのこの詩集の表紙は、暗い森の中に、昆虫採集の如く、さまよえるハートを捕まえにいくという設定です。すっかり忘れていた過去の出来事ですが、『サロメ』を読んで、こんなことも思い出させてくれました。
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