シンガポール・スリング。今や世界各地のバーで定番のこのカクテルは、シンガポールのラッフルズ・ホテルにあるロングバーという名のバーで生まれた。
ロングバーのバーテンダーが初めてこのカクテルを作ったのは1915年。日本では大正4年。芥川龍之介が『羅生門』を書いた年である。タイタニックが北大西洋に沈没するのが、1912年の4月14日なので、何となく時代の雰囲気もわかるような気がする。欧州では1914年の7月に、サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発している。
こんな頃、南洋の港町シンガポールのラッフルズ・ホテルでこのシンガポール・スリングという伝説のカクテルが誕生する。もともとのレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、レモンジュース、砂糖をシェイクし、タンブラーに注いだ後、ソーダ水を満たすというもの。しかし、その後、ご本家のラッフルズ・ホテルのシンガポール・スリングは、勝手に進化をとげ、女性向けのトロピカルカクテルになった。
ラッフルズの現在のレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、パイナップルジュース、ライムジュース、クアントロー、ベネディクティン、グレナデン・シロップ、アンゴスチュラ・ビターズをまとめてシェイクして、グラスに注ぎ、パイナップルやオレンジ、チェリーなどを飾るというもの。オリジナルのレシピに比べて、素材もだいぶ変わっている。
これを進化というべきか、堕落というべきかは、議論の余地のあるところだが、ラッフルズのものは、一杯飲めば十分という感じ。テーブルやカウンターに置かれている殻付きのピーナッツをつまみながらシンガポール・スリングを飲み、殻はテーブルや床の上に巻き散らかすというのがここのバーのスタイル。平日の午後のまだ明るい時間が、客も少なめで落ち着けるが、観光客で一杯になるとちょっとうるさくなる。
このホテルにかつて宿泊していた作家のサマセット・モームがシンガポール・スリングを飲んだのかどうかはよくわからないが、時代的には、ありえないことではない。このカクテルが誕生した1915年、モームは大作『人間の絆』を発表した。彼が41歳の年である。その翌年、結核の療養のため、アメリカ、ハワイを経て、タヒチに旅行に行く。タヒチと言えば画家のポール・ゴーギャン。彼はこの旅行で『月と六ペンス』のヒントを得たと言われている。
その後、シンガポールを訪問していたとしたら、その時には、彼が宿泊したラッフルズにはすでにシンガポール・スリングがあったはずだ。彼がそれを好んで飲んだのかどうかはわからないが、ここでドライ・マティーニを飲んだということは伝わっている。ラッフルズのバー&ビリヤードルームには、彼にちなんだ名前のマティーニが今もある。
サマセット・モームは英国の作家として有名だが、実は、彼がシンガポールなどに来ていたのは、秘密諜報活動の一環だったという噂も。フランス生まれで語学に堪能だった彼は英国情報部で諜報活動を行っていた。バンコクのオリエンタルホテルや、シンガポールのラッフルズ・ホテルに宿泊していた
目的は、小説を書くというためではなく、実は、諜報活動だったのかもしれない。
第一次世界大戦が進行していた当時、日本の海外進出に対する欧米ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダの四カ国で日本のアジア進出を食い止めようとする作戦)が進展していた。ロシアではロシア革命が起ころうとしていたし、そのため、モームは世界各地に潜入する任務を帯びていたらしい。
何だか007みたいと思うかもしれないが、実はイアン・フレミングが『007』シリーズを書いたとき、モデルにしたのが、実は、サマセット・モームだったのだとか。たしかにロシアに行ったり、いろんな国に行っている。
大学受験の英語の参考書によく、サマセット・モームの例文がよく出ていたのを覚えてる。『要約すると』(Summing Up)というエッセイ集は、文章が格調高いので、英文解釈の教材としてかなり使われていた。文章が長く、構造が複雑で、受験生泣かせの作家だった。
実は私は、大学では英文学を専攻し、卒論はジョナサン・スウィフトだった。サマセット・モームは、彼の文学評論の中で、スウィフトの文章を非常に高く評価していた。一説によれば、モームはスウィフトの文章を一字一句暗記していたとか。
ところで、このラッフルズ・ホテルは、太平洋戦争でシンガポールが日本の占領下にあった時、「昭南旅館」という名前になっていた。この期間、シンガポール・スリングはどうなっていたんだろうか。優雅にカクテルを飲んでいるような余裕はなかったかもしれないが。
ラッフルズ・ホテルとバンコクのオリエンタル・ホテルの両方ともに、サマセット・モーム・スイートという名前の部屋が今も残っている。
*************
この記事を最初に書いてから10年以上の月日が流れた。2019年に改修工事が終わり、外観は昔と変わらない状態でリニューアルオープンした。Long Barは以前と同じ二階にできたが、入り口の位置が若干変わった。バー&ビリヤードルームは、BBR by Alain Ducasseという名前でお洒落なインテリアのレストランになった。以前のレトロな雰囲気でなくなったのは寂しいが、BBRの名前は、バー&ビリヤードルームの頭文字として残っている。
最近(2020年9月)の写真を以下にアップしておく。
こちらは、二階のロングバーに繋がる階段。
1915年にシンガポールスリングを作ったバーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)の説明もある。
これまではこのバーテンダーはこれほどまでにフィーチャーされてこなかった。
ラッフルズホテルのシンガポールスリングは、ロングバーだけでなく、中庭のコートヤードでも提供されている。こちらは、スタンフォードロード側からコートヤードに向かう通路の様子。
左の看板の人物は、バーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)だ。長い歴史を超えて、彼が蘇っているのはちょっと嬉しい。
そして、こちらは、BBR by Alain Ducasseの入り口。
ここでもシンガポールスリングはメニューにある。改装前は、よくここのバーで、ドライマティーニを飲んだのが懐かしい。10数年前、ここのバーには、分厚いカクテルメニューがあって、マティーニだけでも何十種類もあり、説明を読むだけでも文学作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。その名前のいくつかを今でも覚えている。ウィンストン・チャーチル、ロシアより愛を込めて、シカゴ、コスモポリタン…ジャズの生演奏を聴きながら、マティーニを飲んでいた、あの頃が懐かしい。
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ロングバーのバーテンダーが初めてこのカクテルを作ったのは1915年。日本では大正4年。芥川龍之介が『羅生門』を書いた年である。タイタニックが北大西洋に沈没するのが、1912年の4月14日なので、何となく時代の雰囲気もわかるような気がする。欧州では1914年の7月に、サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発している。
こんな頃、南洋の港町シンガポールのラッフルズ・ホテルでこのシンガポール・スリングという伝説のカクテルが誕生する。もともとのレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、レモンジュース、砂糖をシェイクし、タンブラーに注いだ後、ソーダ水を満たすというもの。しかし、その後、ご本家のラッフルズ・ホテルのシンガポール・スリングは、勝手に進化をとげ、女性向けのトロピカルカクテルになった。
ラッフルズの現在のレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、パイナップルジュース、ライムジュース、クアントロー、ベネディクティン、グレナデン・シロップ、アンゴスチュラ・ビターズをまとめてシェイクして、グラスに注ぎ、パイナップルやオレンジ、チェリーなどを飾るというもの。オリジナルのレシピに比べて、素材もだいぶ変わっている。
これを進化というべきか、堕落というべきかは、議論の余地のあるところだが、ラッフルズのものは、一杯飲めば十分という感じ。テーブルやカウンターに置かれている殻付きのピーナッツをつまみながらシンガポール・スリングを飲み、殻はテーブルや床の上に巻き散らかすというのがここのバーのスタイル。平日の午後のまだ明るい時間が、客も少なめで落ち着けるが、観光客で一杯になるとちょっとうるさくなる。
このホテルにかつて宿泊していた作家のサマセット・モームがシンガポール・スリングを飲んだのかどうかはよくわからないが、時代的には、ありえないことではない。このカクテルが誕生した1915年、モームは大作『人間の絆』を発表した。彼が41歳の年である。その翌年、結核の療養のため、アメリカ、ハワイを経て、タヒチに旅行に行く。タヒチと言えば画家のポール・ゴーギャン。彼はこの旅行で『月と六ペンス』のヒントを得たと言われている。
その後、シンガポールを訪問していたとしたら、その時には、彼が宿泊したラッフルズにはすでにシンガポール・スリングがあったはずだ。彼がそれを好んで飲んだのかどうかはわからないが、ここでドライ・マティーニを飲んだということは伝わっている。ラッフルズのバー&ビリヤードルームには、彼にちなんだ名前のマティーニが今もある。
サマセット・モームは英国の作家として有名だが、実は、彼がシンガポールなどに来ていたのは、秘密諜報活動の一環だったという噂も。フランス生まれで語学に堪能だった彼は英国情報部で諜報活動を行っていた。バンコクのオリエンタルホテルや、シンガポールのラッフルズ・ホテルに宿泊していた
目的は、小説を書くというためではなく、実は、諜報活動だったのかもしれない。
第一次世界大戦が進行していた当時、日本の海外進出に対する欧米ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダの四カ国で日本のアジア進出を食い止めようとする作戦)が進展していた。ロシアではロシア革命が起ころうとしていたし、そのため、モームは世界各地に潜入する任務を帯びていたらしい。
何だか007みたいと思うかもしれないが、実はイアン・フレミングが『007』シリーズを書いたとき、モデルにしたのが、実は、サマセット・モームだったのだとか。たしかにロシアに行ったり、いろんな国に行っている。
大学受験の英語の参考書によく、サマセット・モームの例文がよく出ていたのを覚えてる。『要約すると』(Summing Up)というエッセイ集は、文章が格調高いので、英文解釈の教材としてかなり使われていた。文章が長く、構造が複雑で、受験生泣かせの作家だった。
実は私は、大学では英文学を専攻し、卒論はジョナサン・スウィフトだった。サマセット・モームは、彼の文学評論の中で、スウィフトの文章を非常に高く評価していた。一説によれば、モームはスウィフトの文章を一字一句暗記していたとか。
ところで、このラッフルズ・ホテルは、太平洋戦争でシンガポールが日本の占領下にあった時、「昭南旅館」という名前になっていた。この期間、シンガポール・スリングはどうなっていたんだろうか。優雅にカクテルを飲んでいるような余裕はなかったかもしれないが。
ラッフルズ・ホテルとバンコクのオリエンタル・ホテルの両方ともに、サマセット・モーム・スイートという名前の部屋が今も残っている。
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この記事を最初に書いてから10年以上の月日が流れた。2019年に改修工事が終わり、外観は昔と変わらない状態でリニューアルオープンした。Long Barは以前と同じ二階にできたが、入り口の位置が若干変わった。バー&ビリヤードルームは、BBR by Alain Ducasseという名前でお洒落なインテリアのレストランになった。以前のレトロな雰囲気でなくなったのは寂しいが、BBRの名前は、バー&ビリヤードルームの頭文字として残っている。
最近(2020年9月)の写真を以下にアップしておく。
こちらは、二階のロングバーに繋がる階段。
1915年にシンガポールスリングを作ったバーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)の説明もある。
これまではこのバーテンダーはこれほどまでにフィーチャーされてこなかった。
ラッフルズホテルのシンガポールスリングは、ロングバーだけでなく、中庭のコートヤードでも提供されている。こちらは、スタンフォードロード側からコートヤードに向かう通路の様子。
左の看板の人物は、バーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)だ。長い歴史を超えて、彼が蘇っているのはちょっと嬉しい。
そして、こちらは、BBR by Alain Ducasseの入り口。
ここでもシンガポールスリングはメニューにある。改装前は、よくここのバーで、ドライマティーニを飲んだのが懐かしい。10数年前、ここのバーには、分厚いカクテルメニューがあって、マティーニだけでも何十種類もあり、説明を読むだけでも文学作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。その名前のいくつかを今でも覚えている。ウィンストン・チャーチル、ロシアより愛を込めて、シカゴ、コスモポリタン…ジャズの生演奏を聴きながら、マティーニを飲んでいた、あの頃が懐かしい。
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インド人も真っ青のカレーランチ、復活を祈りたい。
では、