梅で開いて、松で治めるのが、神の御心。
人には、魔法が存在します。
黒魔術、白魔術などは、悪魔と天使から授かったとされる方もおられるかも知れませんが過去の妄想(呪い、嫉み、破壊、自己幸福、利己主義)として、生まれた類のもののような、感じが致します。
全ては、想像。妄想なのかも知れません。
人の起源より、億年の産物。
人を魔法で呪い殺すには、生霊を憑けても、神社にて、藁人形に五寸釘を打ち付けても、人は決して、殺せません。
されど、暗示を与えれば、人は自らを殺める。
人の生死とは、言わば、天命、自然によります。。。天災地災人災すべては、自業自得に因るのかも知れません。
天命を得る者は、「生とは天が我を労するなり。死とは、即ち天が、汝を安んずるなり。」と感じるでありましょうか。
天命を知らぬ、存じぬ者は、災害により、病で死に、人により、戦により、人間関係によりて、死ぬもまた、自死するも、全ては、「私は悪く無い」と念を残されます。
それが、現存される、幽霊なのかも知れません。
また、呪術とは、多くが妄想であるので、人を殺したいのであれば、物理法則の中で、動けば、確実でございます。
なんせ、人間は脆く、小指一本、えぐれば、出血と痛みで、朦朧とする。
人とは、人の心とは、また、肉体も実に脆い。
故に、護る為の行いは、実に堅実となる。
堅実とは、真の、誠の神に通じる事でございます。
何をもって、堅実と言うのでありましょうか。
生きるなかで、大切な事は、生かされている存在への感謝、また、魂と心のままに、嘘をつかない、正直さ、そして、生きる為に必要な食べ物へのあり方。
扨て、余談。
戦後、花粉症が興ったのは、牛乳と小麦粉の弊害による。
それに、伴う、癌化。
私の妻が乳癌となった所以は、パンを好み、乳製品(バター、チーズ)好む癖に依る。
戦後、白砂糖により、人の鬱化が始まった。
甘いお菓子は、その場限り、脳に幸せを与えます。その後は、それを過剰に欲しがり、糖は、血液を濁し、神経の判断を狂わせる。
自然界の甘いものは、全て、酸っぱいが有る由縁でございます。
堅実な人は、ひたすら、米を愛し、納豆を好み、味噌汁に親しむなり。
さて、人の世に、魔法があり、神通力がある。
魔法とは、先に述べた通り、人の私欲が本であります。
されど、通力とは、神による、奇跡。
それは、神が人を信じて、人を通して行う。
ゆえに、それを扱う者は、自らをお取り付ぎとされ、自らの能力(ちから)では、無いと称されます。
神様から得た通力とは、けっして、その方の能力ではありません。
ゆえに、神様が人を信じる所以は、一重に、誠心あるのみ。
例えば、ぎっくり腰を指、1本、据えるだけで、ぎっくり腰を治療する人が、現実に存在します。
過去には、イエスキリスト、空海、出口王仁三郎聖師なども、有名ですが、原因不明な病人を多く治した実績を持つ者は、熊野の神人、松下松蔵さんでございます。
おおくの難病を通力にて、治療されました。
松下松蔵。
彼は、医者ではありません。農業を営まれた方でございます。
松蔵さんは、何時までも(年齢では、四十五歳)父親に何時も、何処でも、殴られて、おりました。
かれは、無学。育った環境では、農作業をする為に、育てられました。
田舎の君子は、教育、しつけとして、殴り、殴り、殴り、拳骨を落とすのは、当たり前でありました。
まっぽうさん、こと、松蔵さんは、逆らわず、ひたすら、恭順し、父親に従い、母を大切にされ、嫁を慈しみ、五人の子供を愛し、ただ、農作業をされておりました。
彼が、四十五歳の時に、何時も暴力をフルウ、父に「父上、私も本年は、四十五歳になりました。子供も既に五人あります。私を殴られるのは、私の至らぬからで、致し方ありませんが、ただ、子供の手前がありますから、子供の前では、殴らないでください。」と申されました。
父親は「うんそうか。」といって、打つ手を納められました。
松蔵さんは、父からの暴力を、全て受け止めておりましたが、それが、父の罪となると、悟ったが故に、父親に、衷心いたしました。
もともと、この父親は、唯我独尊にして、村人には、善人ぶり、家庭では、頑固にして、全て気に入らなければ、荒ぶり、子や妻を殴り、痛ぶるをもって、世間の不満を発散される癖があったようです。
されど、松蔵さんの、言霊により、父は、松蔵さんの示す、親慈(おやじ)のなんたるかを悟りました。
扨て。
かれの修行とは、瞑想せず、鎮魂せず、霊能者に仕えず、ひたすら、ひたすら、親に孝行を尽くされた。
松蔵師の神通力の秘儀とは、「親孝行。」あるのみ。
今の世には、霊能者開発セミナーや、セッション、セミナーなどがあり、自分が、神様に通じている、自分は霊能者と、勝手に思っている方が多いのであります。
かれら、かのじょ等は、それを(霊能力)金銭に変えておられる。(金銭によって得て、金銭の為に使う。)
また、霊能力開発セミナー、神法御得会、セッションにより、多額の金銭を払い、その金銭の恩恵にて、超能力を得られたと、幻覚している。(想念の扱いにより、それを超能力と錯覚。)
松蔵師と彼ら彼女らとの違いは、「松蔵師は、どんな、難病ですら、癒した、真実があります。」
霊能者自称は、自然の治癒を自己が為したと誇張するのみ。今の医者と、同じ、むじなにて、自己回復の自然力をされる人へ、「私が医者として、治した。」と述べる。
病とは、治るも治らぬも八卦なり。
人には、自然治癒力あり。
松蔵師は、自ら、農業を為して、親に孝行され、妻を愛し、子を慈しみ、神に敬虔であるが故に、奇跡を起こされた。
人間は、霊能を求める。それは、ひたすら、自己顕示欲の為に。
他人より、尊き自己でありたいと、願う欲望。
他人に、尊敬されたい、愛されたい、親しんでもらいたい。
松蔵師は、暴力をフルウ親ですら、尊敬し、食欲に左右されず、他人への施しは、当たり前にして、誰も妬まず、望まず、ただひたすら、生真面目に、しんどい農業に従事し、生きて来られました。
神通力を神から、通され、開示された、後も人柄も変わらず、ただ、ひたすら、難病を得られた、人々を救われた。
松蔵師の神通力の正体とは。
「私は、親孝行の為に力を得た。私は、決して顔(祈願)をしたのでもなく、行(修験)をつんだものではない。
唯、生まれつき、親孝行をする事が好きである。
一度も親に口答えせずに、そむいた事も無かった。
元来人間は、親あってこそ、自分の体がある。
生まれたのも、育ったのも、皆、親の恩である。
親あっての自分で、我が身を大切なら、親はなおさら大切で、ことに、親の子に対する愛情は、無限である。
それを思うなら、どうして、親を大切に思わずいられよう。
親孝行が人間の根本だ。
今日、私が神通自在の力を、神様から授かったのは、親孝行の一事からである。
如何に利口な人でも、偉い人でも、親孝行をする事を忘れたら、その人は無価値である。
私は何神様を信ぜよとか、仏様は何様を信ぜよとか、決してそんな事をすすめるのでない。
世の中は、親孝行が第一で、親孝行さえするなら、成功もでき、出世と出来る。
親孝行の心無い人は、病気もするし、運も悪い。
これは.現実のことだ。
孝の功徳は、広大無辺だ。
俺には、学問がある、親は無学だ」と、親を親とも思えぬ不心得者や、親は親、子は子だと、西洋流の個人主義的思想にかぶれ、孝道の大徳を忘れている人が多いのは、実に嘆かわしい。
私の教えは、孝行せよ、その功徳は偉大であると言う事にある。」
(鬼雷述べる。北極真経にも、源水木本として、自己の源(親や先祖、また、祖は神に基づくゆえに、神様。)を大切にしなければ、道無く、修道から、外れるとされております。
神通力とは、神様が通される人を選び、選ばれた方が、それを取り継ぐのみ。
奇跡により、難病を治癒するのは、神の機能でありますが、それを通せる人とは、素朴に、素直に、親を大切にし、人を大切にされる方。そこには、高額セッション、霊能開発にもなく、金銭も発生しません。)
願わくば、こんな人になりたいものです。
そこに至りたいと、願うひとを、神は国宝と申しております。
月照らす 天照す神 すべからく 誠の愛を 発してしがな。