玄徳道

道を語るブログです。

道の厳しさ

2012-06-28 20:39:11 | 人倫
「己を愛することが善からぬ事の始まりなり。」
ある友人にこのように述べたところ、「道とは厳しいものですね。」と言われました。私は、今まで無我夢中で、道を求め、道を探してきました。絶えず付き纏う、不安と言う業火。世間一般の人と違う感性であり、それが孤独感をさらに煽っていました。先天坐との出会いがあっても、業火は絶えず、私を焦がし続けていました。様々な宗教書を読んでも決して癒される事は無く、神に対する依存心、依頼心と言う欲は人一倍大きかったです。修道と言う言葉を知った後も、業火は消えることはありませんでした。

私を救う契機は道院紅卍字会、会長の正備さんが送って下さった英訳太乙北極真経演技の日本語翻訳バージョンです。太乙北極真経は全て漢文であり、これの意を知るとなると、漢学の教養が必要であり、無学な私では理解することが無理なのです。日訳の真経もありますが、これも難しく、チンプンカンプンでした。この英訳の日訳は意味がストレートであり頭の悪い私でもなんとなく理解することが出来ました。これを拝読しながら、真剣に先天坐に打ち込んだ時に初めて、自分の中に、いつもお参りする神々、そして至聖先天老祖が私の中に宿っている事を知りました。ここで初めて、業火が少しずつ、鎮火するのを感じてきました。そして、堅・誠・恒の道の中、先天坐は私を業火から完全に救ったのです。今は、きらく仙女さんの「生きる!意味と方法」が私の道を広めています。

今改めて、道が厳しいのかどうか聞かれると私は戸惑います。なんせ、私は自分を救うのに一生懸命でしたので、厳しさはあまり感じ無かったかもしれません。しかし、人間は苦労した時の事は時がたてば楽しい思い出にも為るので、一概には言えませんね。

現代の世界では、ゲーム、娯楽、快楽がお金さえあれば簡単に手に入ります。この中で自分の欲望を排斥して、道心、即ち本当の自分を探す道は厳しさが伴います。しかし、これは他人が強制する事ではありません。自分が厳しさの中に「真」を見いだすことが大切だからです。儒教ではこれを道統として、このように述べます。「人心惟れ危うく道心これ微(かす)かなり、これ精これ一、允(まこと)にその中を執れ。」人心は人を堕落させる欲望であり、欲望が増大すれば、道心、内なる神は隠れます。精は純粋で、人心にまじわらないことであり、一とは無欲であります。精一の工夫は間断なく欲心の排斥であります。欲心を無くしてこそ真実の誠である自分を見出し、中庸の道を得られるのです。

人の真の幸せとは何でありましょう。困難を避け、自分の欲に忠実であり、その場その場が楽しければ、幸せなのでしょうか。

女性の偉大なる神業、出産は男性如きではその痛みに耐えられぬといいます。堪えられぬ痛みと苦しさ、厳しき道を乗り越えて初めて愛する吾が子との出会いがあるのです。

「十目の見る所、十手の指す所、それ厳なるか。富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体(たい)胖(ゆた)かなりと。故に君子はその意を誠にす。」


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中和道

2012-06-13 20:56:30 | 人倫
平和の世になれば良いと思うのは、人の心の誠です。しかし、現実には、人間自身が自分の立場を正義を、正道を掲げて、他国、他宗、他人を攻撃、批判します。そして、虐げられるのは立場の弱い人々です。

「道があれば治まり、道が無ければ乱れる。」修身斉家治国平天下こそが平和への道理であります。身を修め平和にしたら、家を、国を、天下を順々に平和にしていく道です。自分の心をまず平和にすることが世界平和につながるのです。
しかし、実際には、平和を心に保つ者同士でも自己の正義をかかげ、お互いに批判し合うのです。自分の信じる道が尊く清く、あなたの道は、濁り誤りであると。
人の正しさ、善は、どこから来るのでしょうか。自己の経験と学び、知識、感性から来るのです。人により、苦労して学んだ事、行いは尊敬されるべきものです。しかし、その経験知識に執着、盲信してしまえば、自分こそが正しい道を歩んでいる。自分こそが清らかである。自分こそが悟りを開いている。自分に間違いはない、他人に間違いがあると、自信過剰に陥ります。偏するのです。

お釈迦様は、ゆえに中道を説かれました。孔子は、中庸を道の要(かなめ)になさいました。

儒教では、自らが絶対に正しいと思って人の意見を聞かず、心中では常に高いプライドをもって人を見下すタイプの人を「過」と云うようです。そして、自分の心がくもっているので人を知る事が出来ず、正しい道理や正論に耳を貸さないタイプの人を「不及」と云うようです。
聡明を以って自任している人ほど自己の正義正論に固執して、他人を見下し、一時の好悪の感情により心の霊性をくらまし、常に過と不及の過失をおかしているのです。

過と不及の過失の無い事を「中」と云います。中国の聖王、堯が舜に授ける道統では、「允(まこと)にその中を執れ。」といい、易経でも最高の徳は中です。

人が自分で思う正しさなどは天地や宇宙から見れば最高のものではありません、中こそが真の道であり、自分の思う正しさに偏らなければ中は得られるのです。
そして、心に中を得れば、平和の心、和する道を歩めるのです。人は優劣など無くし、仲良くするのが一番大切だと思うのです。人が互いに思いやりを持てば和気は盛んになります。即ち平和の礎となるのです。

私が書く「玄徳道」も正しさを追求していません。何故なら私は、マヌケな人間であり、間違いも誤りもたくさんあるからです。
志がある以上、ブログが続けますが、私の道に誤りを感じられましたらコメント欄で忌憚ない御意見をお願い致します。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中る、これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物を育す。」


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修道と真諦

2012-06-12 20:54:06 | 人倫
真理の探究者は真理を体得し、上乗(ランクアップ)に至ることを希望します。道院紅卍字会に求修(簡単に言えば入会)する人は、必ず、老祖の神前で儀式的に四つの発願をします。「願わくば功行を修めんことを。願わくば上乗に至らんことを。願わくば真理を得さしめんことを。願わくば衆生を度せしめんことを。」
こんな事は、めったにしませんので恥ずかしいですが志を立てるには良いです。坐禅や人に親切にして修行して、心が欲望に囚われないように高い境地になって、宇宙、究極の真理を悟り、そして、衆生を救済出来るようになるという事です。
そして神様から道名を頂きます。私は、道名にあこがれがありましたが、現実は、そんなにいいモノではなく、修道の目標を天目で悟ることに意義があるようです。道名を頂いたから、道を得るとか偉いとかは全然ありません。手続きをすれば誰でも頂けます。

修とは、ただ、自分自身を修めることにあります。自分自身の心を修めるのに、必要なものは、「誠」です。誠とは自分自身を欺(あざむ)か無い事です。素直な心でもあります。自分を欺かないようにしようとすれば、他人をも欺かないようになります。ただただ、自分の心の安らかな気持ちを大事にし、そして、安らかでなければ誠ではないのです。

誠は、常に自分の意に掲げる、真心です。ここに他人を挟みません。修道とは、自分自身が歩む道なのです。

ここで他人を気にすることは、修道では、ありません。自分自身が未熟であるのに極まったつもりで「あの人の道は正しくない。このことは道に合っていない…」と陰口や心に思う事です。
人には、それぞれ、究わめ進む道があるのです。他人の道と自分自身は本来無関係なのです。それが、一たび、自分の考えに添わなかったり、自分の意志に従わないと必ずこれを指摘し、これをそしります。
初めて修道に入った時は、あくまでも自分自身を修めるためであって、人がどうであるかなど関係はありません。
この理を悟れば、その心は至誠にして欺く事が無くなり、自分の功行は必ず上乗に到り、真諦を悟り、そして衆生を悟ることが出来るのです。

老祖訓「修人は須かく才能や財を頼んで以て人を侮ってはならないことを善く体すれば、自分自身の道徳は日に日に高くなり、人心を感化させる事もこれにより救う事が出来、道慈の基礎もまたここに於いて定まるのである。」
「人が身を修めるには、志は純一を尚とぶ、志が純一でなければ、道はどこから修めるのであろうか、又その神も分散して凝らないのである。」


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修道と魔

2012-06-03 20:01:00 | 人倫
魔と言いますと、恐らく一般の人は、外にいる悪魔や悪鬼、邪霊など妖怪の類を想像するのかもしれません。
修道を歩む人の魔とは内にいる、自分を怠けさせたり、ズルさせたり、騙したり、弱い心であり、エゴイズムであり欲心を述べます。故に、道が一丈高くなれば、魔は、百尺に昇ると、自分の心を戒めるのです。
人が道を修めることは実は簡単なのですが、心は、他の娯楽や快楽に向かう為、欲心は抑えられず、魔を鎮めるのは難しいのです。
道院の考え方で言えば、今の天下人心の荒廃、災刧が各地で発生するのは、その根源は、各人の人心にある魔より生じたといいます。
道が定まり、自分の正気を覚すれば、自分に至らざる邪な心があることを悟ります。素直にそれを認め改心をすれば、霊光は輝き、人心は回光し魔業に囚われぬ自分を確立していくのです。道を歩む事はこの連続でもあります。

魔は、心の中に潜み、隙に乗じて、内なる内在神を曇らせようとします。主客転倒すれば、魔惑が盛んになり、道は滅びます。
故に道を修める人は、心をいつも誠にし、意志を正し、妄想ですら戒めるのです。

除霊と言う言葉があります。ある宗教団体では盛んに除霊救霊等を勧めているようですが心の魔は、我が心が悟らねば化すことが出来ませんし、外的な魔など取るに足りません。他人がする除霊等は、無限ループの世界で、祓っても、救ったと称しても、我が心に平安を確立できなければ、永遠に収まりません。
邪霊や悪魔等を盛んに宣伝し、他人の不幸の原因を創る人たちは、自分自身に魔が潜んでいる事を悟らねばなりません。

心外の魔等は、心に正義、正気、定力を存してさえいれば自然に消滅してしまいます。山中の賊は、追いやすく、心中の賊は追い難しですね。

「正念が一たび起きれば神仏がやって来るし、邪念が一たび起きれば悪魔がやって来る。惜しいことに人は皆、悪魔の来るに任せて神仏を招こうとしない。」

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志道と三宝

2012-06-01 20:36:44 | 人倫
元気な人がいればやる気の無い人がいます。その本の気はどこから来るのでしょうか。
修道を歩む者は、心に、堅、誠、恒を深く掲げています。堅実とは、地の道であり、心をやるべき事に集中させることです。誠は、天の道であり、心に偽りなく、自分の心に素直に随うことです。恒は、人の道であり、心に飽くことなく継続させる努力です。
修人は堅誠恒の志を掲げているからこそ、世の無常、苦しみ、迫害があろうとも淡々と道を歩めるのです。もちろんやる気が出ない日もあります。それでも修人は道を歩むのです。

孟子は志は気の帥であると述べております。修人は、志があるからこそ、元気やる気が出て来るのです。

簡単に言えば目標を持つことが元気になる秘訣なのです。

それは、学問、仕事、修養、すべての志、目標で得られるものです。

特に目標が無い方は、毎朝、神棚の水を変えたり、3分でもいいから、瞑想したり、神様に祈ったり、事を為すことが志を堅くすることになります。そして、目標を少しずつ大きくしていけばよいと思います。悟りを開きたい。神合一したい。他人が聞いたら笑うような事でも、内なる神は発動し、元気を回復するのです。

内在する神が動き出すのは、心に志がある時なのです。神が動けば、気が活発に廻ります。気が巡れば、精気は集中し精力となります。精力があれば、人間は元気に活発に行動するのです。

精、気、神、道院では後天の三宝と申し、修養、坐にとって大切な働きなのです。

「神が内に凝らなければ、外に放たれる。気を内に養わなければ、外に散ずる。神が放たれて、気が散ずれば元気が必ず衰退し、精・気・神の三宝は損なわれる。」                                          
つづく

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